第十七話 書院の密事
夜着のまま、わたしは、廊下の闇へ忍び出た。
足音を殺すことなら、慣れている。下働きの頃、叱られぬよう、気配を消して屋敷を歩くのは、身に染みついた術だった。板の軋む場所を避けて。壁伝いに、影から影へ。わたしは、あの人影の去った方角へと、たどっていった。
柏木の紋を持つ者。玲さまを手にかけたかもしれぬ者が、当主の書院へ忍び入ろうとしている。何のために。それを、この目で確かめねばならなかった。
恐ろしくなかった、と言えば、嘘になる。見つかれば、ただでは済まぬ。だが――ここで退けば、玲さまの死は、永久に闇に葬られる。そして、次に狙われるのは、玲さまの顔をした、このわたしだ。座して殺されるのを待つくらいなら。
わたしは、奥へと進んだ。
書院の手前まで来て、わたしは、柱の陰に身を潜めた。
障子の内から、ほのかな灯りが漏れている。誰かが、いる。わたしは、息を殺し、そっと、障子の隙間に、目を寄せた。
書院の中に、あの人影が、いた。
黒い裃の肩に、三つ葉柏の紋。背を向けているが、間違いない。あの、丑三つ時の影だ。
男は、燭台の灯りを頼りに、棚の帳面を、一冊、また一冊と引き出しては、素早く繰っていた。明らかに、何かを捜している。当主の留守を狙って、書院の書き物を、漁っているのだ。
やがて、男が、わずかに顔を巡らせた。
燭の灯が、その横顔を照らす。
わたしは、危うく声を漏らしそうになった。見覚えが、あった。
冴斗の近習。早瀬という名の、若い侍だった。物静かで、如才なく、冴斗の身の回りを、甲斐甲斐しく世話している男。誰よりも、当主に近い場所にいる者。
その男が、滅んだ柏木の紋を、その身に忍ばせ、丑三つ時に、主の書院を漁っている。
背筋が、凍った。裏切りは、冴斗のすぐ隣に、あったのだ。
と、そのとき。
書院の奥の襖が、音もなく開いた。
早瀬が、はっと手を止め、そちらへ頭を垂れる。
現れたのは、頭巾で顔を隠した、もう一人の人物だった。背格好からは、男とも女とも、判じかねる。声を潜め、二人は、何事かを、囁き交わし始めた。
わたしは、障子に耳を押し当てた。聞き取らねば。この密事の、正体を。
風のいたずらか。途切れ途切れに、囁きの切れ端が、届いてくる。
「……まだ、見つからぬのか」頭巾の人物の声は、低く、掠れて、くぐもっていた。「あの女が隠した、『あれ』は」
あの女が、隠した、あれ。
わたしの心の臓が、跳ねた。玲さまだ。玲さまが遺した――『これを、信じて』の、あれ。
「申し訳、ございませぬ」早瀬の、押し殺した声。「離れも、姫の部屋も、隅々まで。なれど、どこにも……輿入れの荷に紛れて、氷室へ持ち込まれたのやも」
「……ならば、この館の、どこかに、あるということか」頭巾の声が、ぞくりと沈んだ。「厄介な。あれが、公儀の手に渡れば……我らの、二十年の宿願も、水の泡ぞ」
二十年の、宿願。
柏木の遺恨。潰された家の、二十年越しの報復。
わたしは、固唾を呑んで、次の言葉を待った。
だが、次に頭巾の人物が発した一言が、わたしの全身を、凍りつかせた。
「――氷室の、若造は。まだ、気づいては、おるまいな」
(つづく)




