第十六話 握られた手
「……そなたの、手は」
冴斗の指が、わたしの荒れた掌を握ったまま、離さない。
わたしの頭の中は、真っ白になった。この手を、どう言い繕う。姫君の手が、なぜ、下女のように荒れているのか。――考えろ。考えろ。生き延びるために。
そして、わたしは、その荒れた手を、恥じるように引こうとは、しなかった。むしろ、握られたその手に、力をこめた。逃げれば、疑われる。ならば、この手を、物語の一部に、してしまえばいい。
「……見苦しい手で、ございましょう」わたしは、目を伏せた。声に、羞じらいと哀しみを滲ませて。「病の床で……わたくしは、生きてこの日を迎えられるかどうか、わからず……せめて、快癒を願うて、寝間で、写経をいたしました。来る日も、来る日も。指が擦り切れ、筆胼胝ができるほどに。……氷室さまに、お目にかかるその日まで、生きていられますようにと」
嘘だった。だが、その嘘には、まことの祈りが、こもっていた。この輿入れの日から、わたしが、来る日も来る日も、生き延びることだけを願ってきた、その切実さが。
わたしは、潤んだ目を上げて、冴斗を見た。
「……このような手、お厭いになりましたか」
冴斗は、しばらく、わたしの手を握ったまま、黙っていた。その眼の奥で、疑いと、何か別のものとが、せめぎ合っているのが、わたしには読み取れた。
この人は、迷っている。荒れた手の不審と。それを、信じたいという心と。
やがて。冴斗は、そっと、もう一方の手も添えて、わたしの手を包んだ。
「……厭うものか」
低い、けれど、確かな声だった。
「この手で、生きようと、あがいたのだろう。……美しい手より、よほど、好ましい」
わたしの胸が、詰まった。
この人は、荒れた手を握ったまま、疑いを飲み込んだ。信じたい、という心を選んだのだ。読む眼を持つこの人が、初めて、その眼を、自ら閉じた。
嬉しかった。震えるほど嬉しくて――そして、その嬉しさが、たまらなく苦しかった。
わたしは、この人の、信じたいという心を、欺いている。荒れた手も、写経の話も、何もかも、偽り。この、優しい人を、わたしは騙し続けている。玲さまの死を探るという、大義の陰で。
いつか、すべてが露見したとき。この人は、どんな顔で、わたしを見るのだろう。
*
その夜も、わたしは、眠れなかった。
だが、今度は、恐怖のためではなかった。冴斗の、手の温もりが。「好ましい」と言った、その声が。胸の中で、何度も繰り返し、鳴っていた。この感情に、名をつけるのが、怖かった。
寝返りを打ち、ふと、障子の外に、目をやったとき。
わたしは、息を呑んだ。
月明かりの庭を。一つの人影が、横切っていく。
足音を忍ばせ、辺りをうかがいながら。その影は、館の奥――あの、榊に阻まれた、書院の方角へと、向かっていた。
わたしは、そっと、障子を細く開けた。
冷たい月光が、その人影の肩を照らした。
黒い裃の肩に。円の中の――三つ葉柏。割菱。
柏木の紋だった。
滅んだはずの家の紋を持つ者が、丑三つ時に、当主の書院へ、忍び入ろうとしている。
わたしの胸の中で、冴斗の温もりが、すっと引いていった。代わりに、冷たい問いが、頭をもたげる。
あの者は、何をしに。そして――冴斗は、この、館の内の裏切りを、知っているのか。
わたしは、夜着の襟を掻き合わせ、そっと、立ち上がった。
(つづく)




