第十五話 白木蓮の下で
あの夜から、冴斗は、少しずつ変わった。
いや――変わったのは、冴斗の、わたしへの接し方かもしれない。膳を共にする折、ふと、言葉をかけてくる。庭を歩かぬか、と誘う。その口ぶりは、以前の、値踏みするような硬さが薄れ、どこか、気遣うような温かみを帯びていた。
わたしは、その変化を恐れた。同時に――抗いがたく、惹かれてもいた。
いけない、と、幾度も己を戒めた。この男は、いちばん、油断してはならぬ相手。柏木の紋を持つ者を、その館に抱えている男。もしかしたら、玲さまの死の、何かを知っているのかもしれぬ。
――ならば、いっそ。
わたしは、心を決めた。近づこう、と。この人の、懐深くへ。情に惹かれるふりをして、あるいは、まことに惹かれながら、その裏で、この男が何を知り、何を隠しているのかを、探るのだ。それが、玲さまの死の真相へ近づく、道かもしれない。
己に、そう言い聞かせた。だが――どこまでが探索のためで、どこからが本心なのか。わたしには、もう、判じかねていた。
ある夕暮れ。冴斗は、わたしを、館の北の外れへと連れていった。
人けのない、古い庭だった。手入れはされているが、ほかの、隅々まで整えられた庭とは、どこか趣が違う。ひときわ大きな、白木蓮の木が、一本、立っていた。花の季節はとうに過ぎ、青々とした葉を茂らせている。
「この木は」冴斗が、その幹を見上げて言った。「母が、植えたものだ」
母君の話を、この人が口にするのを、初めて聞いた。
「母は、俺が七つのときに、死んだ」冴斗の声は、淡々としていた。淡々と、しすぎていた。「風邪をこじらせて、あっけなく、と……皆は、そう言う。周りの大人は、みな」
冴斗の横顔が、こわばった。
「だが、俺は、覚えている。死ぬ、幾日か前。母は、俺を抱いて、震えていた。……何かに、酷く怯えて、いた。『何を見ても、聞かなかったことにおし』と……幼い俺に、幾度も言い聞かせて」
わたしの息が、詰まった。
何かに、怯えて。見ても、聞かなかったことに。――それは。
「母が、何に怯えていたのか。俺は、いまだに知らぬ」冴斗は、白木蓮の葉を見上げた。「ただ、そのとき、幼心に悟ったのだ。人は、笑って、こちらの手を握りながら、その裏で、平然と、人を殺める。優しい顔の、その下に、何を隠しているか、知れたものではない、と」
だから、この人は。誰も信じぬよう、己を氷で鎧って、生きてきたのだ。
「それゆえ、俺は」冴斗は、ふと、わたしを見た。「人を、読む。相手の面の下に、何があるのかを。……そうして、生き延びてきた」
わたしは、何も言えなかった。
この人の「読む眼」は、わたしと同じだった。生き延びるために、磨かれた眼。愛する者を、奪われた者の、眼。
そして――冴斗の母君の死は。玲さまの死と、あまりにも似ていた。病、と偽られた、突然の死。その直前の、抑えきれぬ怯え。「見てはならぬものを、見た」者の、末路。
まさか。二つの死は――繋がって、いるのか。
気づけば、わたしは、手を伸ばしていた。
この人の孤独に。愛する者を奪われた、その哀しみに。何か、触れずにはいられなかった。俯いた冴斗の、膝の上に置かれた手に、わたしは、そっと、己の手を重ねた。
――しまった。
指先が触れた瞬間に、悟った。手袋を、していない。夜着のまま、ここへ来た。白粉も、塗っていない。この、あかぎれの、胼胝だらけの、下働きの手を。
冴斗の手が、びくりと動いた。
そして、その指が、ゆっくりと、わたしの手を握り返してくる。確かめるように。わたしの掌の、荒れた皮膚を。硬くなった、指の付け根を。姫君の手には、決してあるはずのない、その感触を。
冴斗が、顔を上げた。
その眼が、わたしの手と、わたしの顔とを、交互に見た。何かを探り当てようとする、鋭い光が、そこに、戻ってきていた。
「……そなたの、手は」
低い声が、夕闇に落ちた。
(つづく)




