第十四話 眠れぬ夜
柏木の紋のことを知ってから、わたしは、夜、眠れなくなった。
滅んだ家の紋を持つ者が、この館の内にいる。その者は、玲さまを手にかけた。そして、玲さまの顔をしたわたしを、いつか、狙うかもしれない。目を閉じれば、闇の中から、あの三つ葉柏の紋が浮かびあがってくる気がして、幾度も、寝床の上で、身を起こした。
その夜も、そうだった。
どうにも寝つけず、わたしは、そっと床を抜け出した。夜気に、火照った頭を冷やしたかった。廊下を渡り、庭に面した縁側の雨戸を、細く開ける。
冷たい夜気が、頬を撫でた。
空には、細い月がかかっていた。庭の白砂が、その光を受けて、ほのかに青く沈んでいる。虫の音ひとつない、しんと静まった、夜だった。
わたしは、縁側に腰を下ろし、膝を抱えた。こうしていると、下働きだった頃を、思い出す。あのころも、眠れぬ夜には、こうして井戸端に座り、月を見上げていた。あかぎれの手を、擦り合わせながら。
姫君になっても。眠れぬ夜の心細さだけは、変わらない。
「――眠れぬのか」
声に、わたしは飛び上がりそうになった。
振り返ると、闇の中に、冴斗が立っていた。寝間着の上に、羽織を無造作に引っかけている。いつもの、隙のない当主の姿とは、どこか違う。月明かりに照らされたその横顔は、いつになく静かで、生身の、人のものに見えた。
「……申し訳、ございませぬ。お起こししてしまいましたか」
「いや」冴斗は、わたしの隣に、少し離れて腰を下ろした。「俺も、眠れぬ質でな。……昔から」
二人、並んで、月を見上げる。しばらく、どちらも口を開かなかった。だが、その沈黙は、夕餉の席のような、張りつめたものではなかった。もっと柔らかな――同じ夜を分け合う者の、静けさだった。
「……近ごろ」冴斗が、ふいに口を開いた。「そなたは、何かに、怯えているな」
わたしの肩が、こわばった。
この男は、読む。柏木の紋のことも、榊のことも、話してはいない。なのに、わたしの怯えだけは、見抜いている。
「……いえ。そのような」
「隠さずとも、よい」冴斗の声は、静かだった。「怯えを、恥じることはない。……俺も、長いこと、怯えて、生きてきた」
え、と、わたしは、その横顔を見た。
あの、氷のような当主が。人の心を見透かす、冷徹な男が。怯えて、生きてきた?
「この館の者は、誰も、それを知らぬ」冴斗は、月を見上げたまま言った。「氷室の当主は、何も恐れぬ、と皆、思うている。だが、そう見せねば、この家は、たちどころに喰われる。隙を見せれば、終わりだ。……そういう、生き方しか、できなんだ」
その言葉が、わたしの胸に、思いがけず、深く刺さった。
隙を見せれば、終わり。それは――わたしが、この輿入れの日から、ずっと抱えてきた恐怖と、同じだった。仮面の下で、たった一人、息を殺して生きる。この男もまた、同じ孤独を生きてきたのだ。生まれも、立場も、何もかも違うのに。わたしたちは、その一点で、深く通じ合っていた。
気づけば、わたしは、口を開きかけていた。
わたしも、そうです、と。ずっと、怖かった、と。この、偽りの日々が。――そう、打ち明けてしまいそうになった。
はっと、我に返る。
危うい。この男の前で、心を緩めてはならぬ。優しさにほだされて、口を滑らせれば、その一言で、すべてが終わる。この男は、読む眼を持つ。わたしが、いちばん、気を許してはならぬ相手なのだ。
なのに。
なぜ、この人の隣は、こんなにも、心を緩ませるのだろう。
わたしが、必死に、言葉を飲み込んでいると。
冴斗が、こちらを向いた。月明かりの中で、その眼が、まっすぐに、わたしを見た。
「……不思議だ」
低い、呟きだった。
「そなたを見ていると、時折……輿入れ前に、文で知った姫君とは、まるで別の人のように、思えることがある」
わたしの心の臓が、止まった。
「病が、人を変えたか。それとも……」冴斗は、そこで言葉を切った。そして、ふと、目元を和らげた。「いや。こちらのほうが、俺は……好ましい」
その一言を残して。冴斗は、静かに立ち上がり、闇の奥へと戻っていった。
後に残されたわたしは、月の下で、動けずにいた。
好ましい、と、あの人は言った。
それは、心が震えるほど嬉しく――そして、凍りつくほど恐ろしい、言葉だった。
(つづく)




