第十二話 見てはならぬ部屋
円の中の、三つの葉。中央に、小さな菱形。
わたしは、志乃が描いてみせたその紋を、幾度も、頭の中でなぞった。忘れぬように。だが、忘れずにいたところで、その主が誰かを、知る術がない。
字が読めれば。家々の紋を記した書物が、どこかにあるはずだ。それを繙けば、この紋の主も、わかるだろう。だが、わたしには、その一文字も、読めぬ。
――いや。
ふと、思い至った。読めずとも、よいのだ。
わたしが探すのは、文字ではない。形だ。この、三つの葉の紋と、同じ形を、書物の中から、見つけ出せばよい。文字を読む眼ではなく、形を写しとる眼が、あれば。それなら、わたしにも、できる。
問題は、その書物が、どこにあるか、だった。
氷室の館には、書院があった。当主が政の書き物をし、家々との付き合いを記した帳面を、収めておく部屋だという。家紋を記した帳面も、そこにあるはずだった。
だが、その部屋は、館の奥にあり、みだりに立ち入れるところではない。ましてや、輿入れしたばかりの奥方が、夜半に忍び込むなど、露見すれば、それだけで、命取りだ。
それでも、行くしかなかった。
人の寝静まった、丑三つ時。わたしは床を抜け出し、闇の廊下を、忍び足で進んだ。病み上がりを口実に、この幾日、館の間取りを、それとなく頭に入れておいた。書院の在り処も、見当はついている。
冷たい板の間を、素足で渡っていく。あの、輿入れの朝、初めて奥の廊下を歩いたときのように。あのときは、湯桶を提げた、下働きだった。いまは、姫君の顔をして、盗人の真似事をしている。
書院の、あと少し、というところで。
背後の闇から、声がした。
「――このような刻限に、いかがなされました。奥方さま」
全身の血が、凍った。
振り返ると、榊直茂が、燭台を手に立っていた。いつから、そこにいたのか。足音ひとつ、聞こえなかった。この男は、まるで影のように、館を巡っている。
わたしの心の臓は、早鐘を打っていた。だが――ここで、うろたえてはならぬ。うろたえれば、疑いを招く。
わたしはとっさに、あの、たった一枚の薄布に、すがった。
「……ああ、榊どの。よかった」わたしは、心細げな声を作った。「お恥ずかしいことに……厠へ立とうとして、道に迷うてしまいました。この館は、まだ慣れませぬゆえ……。病のあとは、とんと、物覚えが悪うなって」
記憶を、病に預ける。あの手だ。厠へ、と言えば、夜半に出歩く言い訳も、立つ。
榊は、燭台を、わたしの顔に近づけた。その、疑い深い眼が、わたしの表情を、舐めるように検める。
「……左様で、ございましたか」
その声には、露ほども、得心した響きがなかった。
「奥の廊下は、入り組んでおりますゆえ。お部屋まで、お送りいたしましょう」
断れなかった。わたしは、書院を目前にして、踵を返すほか、なかった。
部屋の前まで、送られる道すがら。榊は、前を向いたまま、ぽつりと言った。
「奥方さま。……先夜、志乃どのと、何やら、込み入ったお話を、なさっておいででしたな」
わたしの足が、すくんだ。
やはり――この男は、あの夜、襖の外で、聞いていたのだ。
「乳母どのは、お歳を召しておられる。昔の、あれこれを思い出しては、涙にくれることも、ございましょう」榊は、なおも前を向いたまま。「なれど……済んだことを、いつまでもほじくり返すのは、時に、身の毒になりまする」
その一言は、案じるふうを装っていた。だが、その底に沈んでいたのは、紛れもない、警告だった。
――嗅ぎ回るな。
「……ご忠告、痛み入ります」
わたしは、そう返すのが、精一杯だった。
部屋の前で、榊は慇懃に頭を下げ、闇へと去っていった。その背を見送りながら、わたしは悟っていた。
この館で、わたしは独りではない。だが、味方もいない。志乃のほかは。そして――この榊という男は、明らかに、わたしがあの夜の真相に近づくことを、阻もうとしている。
なぜ? この男は、何を守っているのか。
まさか、あの、三つ葉の紋の主と……この男は、繋がっているのか。
(つづく)




