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勇者の首が落ちる朝 ~魔王を倒した男は、なぜ処刑されたのか~  作者: たま8


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四章 第4話 勇者は口を塞ぐ

 クラウスの反応は速かった。


 さすが騎士だと思った。旅の中で何度も見た動きだった。敵の初撃を受け、仲間の位置を確認し、最短で間に入る。彼の正義感は、ときどき面倒だったが、戦場では頼もしかった。クラウスが前に立ってくれていたおかげで、俺たちは何度も生き残ることができた。


 そのクラウスが、今度は俺の前に立った。


 俺を守るためではない。俺を止めるために。


「ユリス!」


 クラウスは俺の手首を掴んだ。俺を取り押さえる動きだと、すぐにわかった。


 何もしなければ、このまま終わる。


 そう思った瞬間、長い年月の中で身につけてきた冷静さも、判断も、思慮も、まとめて吹き飛んだ。


 消せばいい。


 手紙も、手帳も、俺を終わらせるものは全部ここで消してしまえばいい。何もせずにすべて失うくらいなら、全部壊してでも逃げた方がましだ。


 そんな、考えにもならない考えが頭を埋めた。


 俺は空いた左手で、腰に隠していた短剣を抜いた。


 王城に入るとき、武器は預けた。だが、全部ではない。俺も、魔王領を生き延びた人間だ。武器を完全に手放せるわけがない。エスカも、靴の中に薄い刃を隠していたはずだ。セレナも、魔術具の指輪を外していない。クラウスだけが、王城の作法に従い、剣を預けていた。


 俺は、その差を使った。


 短剣はクラウスの脇腹に入った。


 深く。


 手応えがあった。


 クラウスの目が見開かれる。


 時間が、そこで一度止まった気がした。


 クラウスは俺を見ていた。怒りではなかった。驚きでも、痛みでもない。もっと信じられないものを見る目だった。お前が本当にそれをするのか、と言われた気がした。


 俺は答えなかった。答える代わりに、突き刺した短剣を横へ引いた。


 肉が裂ける感触が、柄を通して手に返ってきた。クラウスの体が大きく揺れ、腹から熱い血が溢れた。血だけではない。裂けた傷口から、赤黒いものが押し出されるように覗いた。


 クラウスが、ようやく片膝をついた。


 セレナが悲鳴を上げ、エスカが息を呑んだ。


 それでも、クラウスは倒れなかった。片膝をついたまま、まだ俺の腕を掴んでいる。力が強い。俺は振りほどこうとしたが、クラウスは離さない。


「やめろ」


 クラウスが言った。


 血が口の端から流れていた。


「まだ、戻れる」


 戻れる。


 その言葉に、俺は怒りを覚えた。戻れるわけがない。今、俺はお前を刺した。戻れるわけがない。


 戻れないところへ来たのは、俺だ。分かっていた。分かっているからこそ、クラウスの声が許せなかった。俺はクラウスの手を振りほどき、もう一度短剣を振った。今度は首元だった。クラウスは避けようとしたが、さっきまでの速さはもうなかった。刃が首筋を裂き、血が散った。


 それでも、まだ倒れない。本当に、しぶとい男だった。


 その視界の端で、セレナの唇が動いた。


 魔術師の詠唱は、戦場で何度も聞いた。彼女の声は速く、正確で、澄んでいる。俺はその声に何度も救われた。魔物の群れを焼いた火。俺の傷を塞ぐ応急魔術。魔王の結界を破るための長い術式。


 今、その声が俺へ向いている。


 セレナは俺を殺す気だったのか。


 違う。


 たぶん、止める気だった。拘束の術か、眠りの術か。彼女は俺を殺そうとはしなかっただろう。今この瞬間でさえ、彼女は俺を殺すための術を選ばなかったのではないか。


 だが俺は、そう判断する余裕を持たなかった。


 そばにあった机を、セレナの方へ蹴り倒した。手紙と手帳が床に散らばり、机の脚が石床を擦った。セレナの詠唱が一瞬乱れる。俺はクラウスの体を盾にするように動き、短剣を握り直した。


 セレナの目が俺を見た。


 そこには恐怖があった。悲しみがあった。失望があった。


「ユリス、やめて」


 セレナの声がした。


 責める声ではなかった。それが、胸の奥に一瞬だけ引っかかった。だが、その引っかかりを確かめる前に、俺は踏み出していた。


 もう、俺を止めるための声に耳を貸す余裕はなかった。


 クラウスは床に倒れている。机の上には手紙がある。セレナの手帳もある。エスカは扉の近くで震えている。俺を終わらせるものが、この部屋には多すぎた。


 なら、全部消すしかない。


 そうしなければどうなるか。嫌な想像が、勝手に頭を巡った。


 偽勇者。


 人殺し。


 アルスを殺した男。


 王都の広場で、俺を見上げた子どもが、俺に石を投げる。救った村の老人が、俺の名を吐き捨てる。王が褒賞を取り上げる。神官が偽の紋章を剥がす。クラウスが証言する。セレナが記録を出す。エスカが震えながら俺を指差す。


 だめだ。耐えられない。


 俺は七年間努力した。魔王を倒した。勇者であろうとした。


 それなのに、全部があの日に戻される。アルスを押した、あの一瞬に。


「ユリス!」


 セレナが叫んだ。


 だが俺は止まらなかった。止まれば終わる。聞けば迷う。迷えば、全部が崩れる。


 セレナは後退しながら、腹の前に手を当てていた。


 何かを守るように。


 戦場では見ない動きだった。魔術師なら杖を、指輪を、術式を守る。腹ではない。


 最近の体調の悪さ。


 吐き気。


 食欲のなさ。


 祝宴で言いかけた言葉。


 それらが、ほんの一瞬だけ頭をかすめた。


 だが、知れば止まらなければならない。だから知らない。


 クラウスの血で濡れた短剣を、俺は振った。


 セレナは防御の術を発動させた。薄い光の壁が生まれ、短剣を受ける。だが、彼女は魔王戦の後で消耗していた。体調も悪かった。術は完全ではない。


 刃は光の壁を裂き、彼女の肩口から胸へ届いた。


 血が白い服に広がる。セレナは何が起きたのか信じられないかのように、胸元に走った傷を見下ろした。そこから流れた血が、腹の前に当てられた手まで伝い、指の間を赤く染めていく。


 セレナの唇が動く。


「……言わなきゃ」


 かすれた声だった。


「言わなきゃ、いけなかったのに」


 そのときクラウスが背後から俺に掴みかかった。しぶとい。まだ動くのかと思った。あいつは本当に騎士だった。死にかけても、俺を止めようとしていた。


「エスカ、逃げろ!」


 エスカは扉のところにいた。顔面蒼白で、震えながらも、すでに扉の取っ手に手をかけている。いつもの彼女なら、悲鳴を上げて固まっていたかもしれない。だが、エスカは逃げることだけは誰より早かった。


 まずい。エスカに逃げられたら終わる。


 俺はクラウスを突き飛ばし、エスカへ向かった。


 クラウスが床に倒れる音がした。セレナが何かを言う。俺には聞こえない。聞く暇などなかった。扉を開け、廊下へ飛び出すエスカを追いかけなければ。


 王城の客室棟の廊下は長い。夜ではなかったが、人払いされていた。魔王討伐後の勇者一行が休む場所だからだ。兵士は少し離れた場所にいる。エスカは薄い靴音を立てて廊下を走った。転びそうになりながら、壁にぶつかりながら、それでも速い。


「エスカ!」


 彼女は振り返らなかった。


 臆病者。逃げるな。そう思った。


 だが、逃げているのはどちらだ。俺の方だ。俺は過去から逃げるために、エスカを殺そうとしている。


 廊下の角で追いついた。俺は手を伸ばし、エスカの肩を掴んだ。彼女は悲鳴を上げ、体を低く沈めた。斥候の動きだった。俺の手から滑るように抜けると、足首を払うようにして、靴の内側から薄い刃を抜いた。


 そうして腕を切った。逃げるために。


 痛みで一瞬、俺の動きが止まると、エスカはその隙に階段へ向かう。


 俺は手の中の短剣を投げた。刃は彼女の首元をかすめ、壁に当たって落ちた。血が一筋、エスカの白い首に走る。


 振り返ったエスカと目が合った。その目には、完全な恐怖があった。


 もはやそれは仲間を見る目ではなかった。魔物を見る目だ。


 その瞬間、ほんの一瞬。俺の足が止まった。


 その一瞬で、エスカは階段を転がるように下りていった。遠くで兵士の声がする。誰かが異変に気づいた。鎧の音が近づく。俺は追おうとしたが、もう足が動かなかった。


 その時点で、もう終わりだった。


 廊下を走って逃げることも考えた。だが王城の中だ。血まみれのまま、兵士の詰める通路を抜けられるわけがない。窓から飛び降りるにも高すぎる。どこへ向かえばいいのかも分からなかった。


 諦めだったのかもしれない。俺は、一度部屋へ戻ることにした。


 部屋に戻る途中、長い廊下に血が点々と落ちているのが見えた。俺の血か、短剣から落ちた血か分からなかった。


 客室の扉は開いたままだ。中に入ると、クラウスは床に倒れていた。まだ息があるように見えたが、すぐに分からなくなった。セレナは壁際に座り込むように倒れていた。


 彼女は、まだ生きていた。


 セレナが俺を見て、口元がわずかに動く。


「……ユリス」


 俺は膝をついた。


 何を言えばいいのか分からなかった。


 助けるべきだった。治癒師を呼ぶべきだった。叫ぶべきだった。だが、そうすればすべて終わる。クラウスを刺したことも、セレナを斬ったことも、エスカを追ったことも、全部が明るみに出る。


 俺はまた、迷った。迷っている時点で、もう終わっていた。


 セレナの手が、床の上でわずかに動いた。


 自分の腹へ向かって。


「ごめん」


 彼女が言ったのか、俺がそう思ったのか分からない。


 そのまま、セレナは動かなくなった。


 俺はしばらく、床に座り込んでいた。


 血の匂いがする。クラウスの手紙が床に落ちている。セレナの手帳も、開いたまま血に濡れている。魔王を倒した勇者一行の部屋は、仲間の血で汚れていた。いや、俺が汚した。


 終わった。


 俺は立ち尽くし、そう思った。


 それでも、どこかでまだ逃げ道を探していた。この期に及んで。

 

 死体の間で、俺はまだ自分の未来を探していた。

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