四章 第3話 告発の手紙
クラウスは、手紙を机の上に置かなかった。
ただ、持っていた。
そのことが余計に気になった。あいつは物を隠すのが下手だ。言うべきことがあるときは、正面から言う。だから手紙を持っているなら、いずれ見せるつもりなのだろう。俺にか、王にか、神殿にか。どちらにせよ、そこには俺にとって都合の悪いことが書かれている。
俺は、そう決めつけた。
「二人ともいたか」
クラウスは部屋に入ると、セレナを見て少しだけうなずいた。
「ちょうどいい。エスカも呼んである」
「何の話だ」
俺の声は、自分でも分かるほど硬かった。
クラウスは俺を見た。
「お前の話だ」
その一言で、部屋の空気が変わった。
セレナは目を伏せた。彼女も、ある程度分かっていたのだろう。クラウスが何を言おうとしているのか。俺だけが認めたくなかった。いや、俺も分かっていた。分かっていて、認めないための言葉を探していた。
少しして、エスカが入ってきた。
彼女は廊下の外にいたらしい。顔色は悪く、扉のそばからあまり動こうとしなかった。
「……失礼します」
「入れ」
クラウスが言った。
エスカはおずおずと部屋の隅へ立った。四人が揃った。魔王を倒した四人。王都に迎えられた英雄の一行。祝宴の席で称えられ、王から褒賞を約束された仲間たち。
その同じ四人が、今はまるで敵同士のように立っている。
いや、敵ではなかった。
敵にしたのは俺だ。
「ユリス」
クラウスが言った。
「お前の勇者の証について、疑義がある」
まっすぐな言葉だった。
俺は笑おうとした。だが笑えなかった。
「神殿でも説明した。魔王の瘴気だ」
「その可能性はある」
「なら――」
「だが、それだけでは説明できない点がある」
クラウスは俺の言葉を遮った。
あいつにしては珍しいことだった。普段なら、最後まで聞いてから反論する。今は違う。もう、覚悟を決めているのだろう。
セレナが手帳を開いた。
「魔王戦以前にも、勇者の証の反応には不安定な点がありました」
俺は彼女を見た。
「いつから調べていた」
「調べていたというより、記録していました。魔術師として」
「俺を疑っていたのか」
「最初は違います」
セレナは静かに言った。
「あなたの負担を知るためでした。勇者の証がどれほど消耗しているか、魔力の流れに異常がないか。それを記録していました。でも、魔王戦後の反応で、無視できなくなりました」
無視できなくなった。
その言い方が嫌だった。
「クラウスもか」
俺はクラウスを見た。
彼は少しだけ目を伏せた。
「俺は、もっと前から気になっていた」
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
「いつからだ」
「確信はなかった。今も、すべて分かっているわけではない」
「いつからだと聞いてる」
声が荒くなった。
エスカが肩を震わせた。
クラウスは動じなかった。
「北境の砦で、お前が聖別の門を通ったときだ」
あのとき。
俺は覚えていた。北境の砦には、古い神殿式の門があった。魔物の侵入を防ぐため、神聖な力に反応するという古い仕掛け。俺が通ったとき、門はわずかに遅れて光った。皆は魔王の瘴気のせいだと思った。俺もそう言った。
クラウスは、あのときから疑っていたのか。
「なぜ黙っていた」
「お前が、俺たちを助けたからだ」
クラウスは言った。
その答えは、俺の怒りを鈍らせた。
「あの砦で、お前は民を逃がすために殿を務めた。誰よりも傷を負った。偽物ができることではないと思った。いや、そう思いたかった」
「なら、今もそう思えばいい」
「思いたいだけでは済まないところまで来た」
クラウスは、手に持っていた手紙を見下ろした。
「俺はこれを、王と神殿に出すつもりだった」
やはり。俺の中で何かが固まった。
「告発状か」
「違う」
「何が違う」
「読めば分かる」
クラウスは手紙を机に置いた。
封はまだされていない。端の方に、几帳面な字が見えた。
――勇者ユリスの証には疑義がある。
その一文だけで、頭の奥が白くなった。
「読む必要はない」
俺は即座に言った。
その先に何が書かれていようと、同じだった。疑義がある。正式な検分を願う。アルスの死を調べ直す。そんな言葉が王や神殿に届いた時点で、俺は終わる。クラウスがどんなつもりで書いたかなど、関係なかった。
「俺を売る紙だ」
「ユリス、違う。俺はお前を――」
「違わない」
俺は机の上の手紙を見なかった。見れば、そこにある文字が全部本当になってしまう気がした。
クラウスが苛立ったように息を吐いた。
「売るつもりなら、俺は昨日の神殿で声を上げている」
俺は黙った。
「俺は、お前を無罪にするつもりはない。もし本当に何か罪があるなら、それは明らかにしなければならない。だが――」
「黙れ」
俺は言った。
自分でも驚くほど冷たい声だった。
クラウスは目を細めた。
セレナが一歩前に出た。
「ユリス、聞いてください」
「お前もか」
「私も、知りたいんです」
「知ってどうする」
「一緒に償いましょう」
俺は彼女を見た。
セレナは手帳を閉じ、胸の前で握っていた。いつも冷静な彼女が、今はひどく不安そうだった。顔色が悪い。唇も白い。だが、それでも俺から目を逸らさなかった。
「あなたが何をしたのか、私たちはまだ全部を知りません。知るのが怖いです。でも、あなたがしてきたことも、私は知っています。あなたが人を救ったこと。逃げなかったこと。私たちを守ったこと。それまで嘘だったとは思いません」
思いません。
その言葉に縋りたくなった。なら、黙っていてくれ。そう言いたくなった。
俺が何をしたか知らないなら、知らないままでいてくれ。調べるな。手紙を書くな。神殿に行くな。俺を勇者のままでいさせてくれ。俺が救ったものを信じているなら、なぜ最初の罪まで掘り返そうとする。
セレナは一歩近づいた。
「逃げないでください」
俺の喉が詰まった。
「今なら、まだ間に合うかもしれません。全部が元に戻るわけではありません。でも、ここで逃げたら、本当に戻れなくなります」
「何から逃げると言うんだ」
俺は低く言った。声が自分のものではないようだった。
「俺は魔王から逃げなかった。お前たちを守った。王都を救った。なのに今さら、何から逃げるって言うんだ」
「過去からです」
セレナの放ったその言葉は、まっすぐ胸に刺さった。
「あなたは、何かから逃げています」
「知ったようなことを言うな」
「知りたいから言っています」
セレナは言った。
彼女は手帳を握る手に力を込めた。
「私、あなたに言わなければならないこともあります。だから、お願いです。ここで終わらせないでください」
それは、勇者の証の話ではない。
俺には分かった。だが分かりたくなかった。聞きたくなかった。
セレナが言おうとしていることを聞けば、俺はさらに動けなくなるかもしれない。俺を縛るものが増える。罪だけでなく、未来まで突きつけられる。そんな気がした。
エスカが、小さな声で言った。
「ユリスさん」
エスカは震えていた。いつもよりさらに青白い顔で、扉の近くに立っている。逃げたいのだろう。逃げたいのに、ここにいる。
「怖いです」
「何が」
「今のユリスさんが」
部屋が静まり返った。エスカは泣きそうな顔で続けた。
「でも、私も逃げたくないです。クラウスさんもセレナさんも、逃げないって言ってます。だから、ユリスさんも……今度だけは、逃げないでください」
今度だけは。
その言葉で、何かが切れかけた。
俺は机の上の手紙を見た。
クラウスの手紙。
冒頭には、俺の終わりが書かれていた。
セレナの手帳。
勇者の証の不整合と、おそらく彼女自身の言わなければならないことを書いた手帳。
エスカの震える手。
臆病者が、逃げずに俺の前に立っている。
彼らは、俺を救おうとしている。
だからこそ、俺は追い詰められた。
敵ならよかった。俺を断罪し、罵り、剣を向けてくる敵ならよかった。そうすれば俺は、自分を守るために戦える。俺が積み上げたものを奪いに来る者として、彼らを憎める。
だが、彼らは手を差し出している。
その手を取れば、俺は生きられるかもしれない。極刑は避けられるかもしれない。クラウスの言う通り、償いの道があるのかもしれない。
でも、その道は勇者ユリスとしての俺を終わらせる。
民衆の目も、王の褒賞も、魔王を倒した英雄としての名も、セレナの隣に立つ未来も、全部が変わる。俺は人々の前で、自分がアルスを殺したと認めなければならない。あの光を奪ったと、あの親友を押したと、勇者の道を盗んだと。
俺は、それに耐えられなかった。
「ユリス」
クラウスが一歩近づいた。
彼の手は剣に触れていなかった。
「一緒に行こう。俺も証言する。お前がしたことを、全部悪にして終わらせはしない」
その言葉は、たぶん本物だった。
クラウスは本当にそうするつもりだった。セレナも、エスカも。三人は俺を完全には捨てないつもりでいた。罪を明らかにし、それでも俺が成したことを守ろうとしてくれていた。
俺はその優しさを、裏切りとして受け取った。
いや、違う。
優しさだと分かっていた。分かっていたから、もっと恐ろしくなった。
俺は立ち上がった。
「少し、考えさせてくれ」
自分でも驚くほど静かな声だった。
クラウスの眉が動いた。
「逃げるつもりか」
「逃げない」
嘘だった。
いや、その瞬間はまだ分からなかった。俺は本当に考えるつもりだったのかもしれない。剣を置き、王の前へ行き、全部を話す未来を、ほんの一瞬だけ見たのかもしれない。
だが、その未来には俺の居場所がなかった。俺が欲しかったものが、何一つ残らなかった。
「ユリス」
セレナがまた言った。
彼女は、先ほど言いかけたことをもう一度言おうとしているようだった。
「私、あなたに――」
「黙れ」
部屋が凍った。
セレナの目が見開かれる。
俺は、自分の声があまりにも冷たかったことに気づいた。だが、もう戻せなかった。クラウスが一歩前へ出る。エスカが扉の横で身を固める。セレナはまだ俺を見ている。何かを言わなければならないという顔をしている。
聞いてはいけない。俺はそう思った。
これ以上、俺を縛る言葉を聞いてはいけない。償いだとか、一緒にだとか、真実だとか、そんな言葉を聞けば聞くほど、俺は逃げられなくなる。
だから、まだ間に合ううちに。
俺は机の上の手紙へ手を伸ばした。
それをクラウスが止めようとした。
その瞬間、俺の体はもう動いていた。




