四章 第2話 祈りに応えない紋章
翌朝、神殿の鐘は三度鳴った。
魔王討伐後の清めの祈りは、本来なら名誉な儀式だった。勇者が魔王の瘴気を払い、神の前で勝利を報告する。神官たちは白衣をまとい、聖水を捧げ、勇者の証に祈りを通す。民衆に公開されるわけではないが、王や主だった貴族、騎士団の代表が立ち会う。後に記録にも残る。
神殿の奥は静かだった。高い天井から薄い光が落ち、白い石壁には古い聖人たちの像が並んでいる。床は磨かれ、足音がよく響いた。俺はその中央に立っていた。連行されたわけではない。裁かれるために呼ばれたわけでもない。俺は魔王を倒した勇者として、神殿に招かれていた。
だが、体はそう感じていなかった。
肩から胸にかけて刻まれた偽の紋章が、服の下で妙に重い。
クラウスは俺の少し後ろに立っていた。儀礼用の鎧を着て、背筋を伸ばしている。セレナは神官たちの動きを注意深く見ていた。エスカは柱の陰に半分隠れるように立ち、しきりに出口を確認している。
「緊張していますか」
セレナが小声で言った。
「神殿の儀式は苦手だ」
「あなたは勇者でしょう」
軽い皮肉のようにも聞こえた。
俺は笑えなかった。
中央祭壇の前に、老神官が立った。昨日、祝宴で声をかけてきた男だ。彼は丁寧に頭を下げ、魔王討伐への感謝を述べ、神への祈りを唱え始めた。古い言葉だった。意味は分からない。だが、何度か聞いたことがある。俺が王都へ来た日も、似たような言葉を聞いた。
そのとき偽の紋章は、裏彫師の仕込んだ魔術で淡く光った。
今も光るはずだった。
そうでなければ困る。
俺は胸元に意識を向けた。偽の紋章には、光を返すための細工がしてある。神官の祈りそのものに反応するわけではない。周囲の魔力に触れれば、神聖な光に見えるよう調整されている。七年前はそれで通った。その後も何度か小さな儀式を受けたが、問題はなかった。
だが今回は、魔王討伐後の清めだ。
神殿の奥で、正式な神官たちがそろい、聖具と聖水を使う。今までとは違う。
老神官が俺の前へ来た。
「勇者ユリス様。証を」
俺はゆっくりと上衣を緩めた。
胸から肩にかけて、紋章が露出する。
周囲の空気が少し変わった。人々はそれを見るだけで、勝手に畏れを抱く。俺はその視線を何度も受けてきた。最初は怖かった。だが次第に慣れた。そしていつしか、それが欲しくなった。
神に選ばれた者を見る目。
俺は、その目に飢えていた。
老神官が聖水を指先につけ、紋章の中央に触れた。
祈りの言葉が重なる。
クラウスが息を整える音がした。セレナがわずかに身を乗り出す。エスカは、なぜか俺ではなく神官たちの足元を見ている。
紋章は、光らなかった。
俺は表情を動かさなかった。
老神官の指が止まる。
周囲の神官たちも、祈りの声を乱した。ほんの一瞬だった。だが、その一瞬をセレナは見逃さなかっただろう。クラウスも見たはずだ。
老神官はもう一度、祈りを唱えた。
聖水が紋章の線を伝う。
光らない。
いや、完全に光らないわけではなかった。裏彫師の仕込んだ魔術が、かすかに淡い光を返している。だがそれは、神官たちが期待していた反応ではなかったのだろう。神託紋なら、祈りに応じて奥から光が立ち上がると聞いたことがある。神の名に触れられたものが、答えるように。
俺の紋章は、表面だけが濡れたように光った。
薄い。浅い。
刻まれた線の一部だけ、表面の魔術とは違う滲み方をしたようにも見えたが、次の瞬間にはもう分からなくなっていた。
老神官の顔に、微かな困惑が浮かんだ。
「魔王の瘴気が、まだ残っているのかもしれません」
俺は先に言った。声は思ったより落ち着いていた。
「最終戦で、証にも傷を受けた。昨日から、うまく力が通らない」
嘘は、すぐに口から出る。怖いくらい自然に。
七年も嘘の上を歩いていれば、足元が崩れたときに何を言えばいいか、体が覚えてしまう。
老神官は迷ったようにうなずいた。
「確かに、魔王の瘴気は勇者の証に影響を及ぼすことがあると聞きます。正式な検分は、後日改めて――」
「ならば、今は休ませていただきたい。魔王討伐直後です。ユリスは重傷を負い、証にも負担がかかっている」
クラウスが一歩前に出て言った。その声は、普段より低かった。
俺は、ほんの少しだけ息をついた。
クラウスは俺を庇った。そう思った。
だが、すぐに違和感が残った。
クラウスの言葉は、俺への信頼から出たものか。それとも、今ここで騒ぎにしたくないという判断からか。あいつの横顔は硬かった。俺を見ていない。老神官を見ている。
セレナは黙っていた。
それもまた、不自然だった。
セレナは、こういうとき必ず何か言う。術式の問題なら、もっともらしい説明を加える。魔力の流れや瘴気の残留について、神官たちにも分かるように整理する。だが、彼女は黙っていた。目は俺の紋章に向けられている。
魔術師の目だった。
仲間を見る目ではない。愛情を向ける目でもない。現象を観察する目。
「セレナ」
俺は声をかけた。
彼女はようやく顔を上げた。
「どう思う」
「……魔王の瘴気の影響は、ありえます」
ありえます。
それは肯定ではなかった。
老神官は結局、その場では儀式を中断した。後日、王と神殿で改めて協議するということになった。王族や貴族たちはざわめいたが、魔王討伐直後という事情もあり、大きな問題にはならなかった。
少なくとも、その場では。
神殿を出ると、外の空気が冷たかった。俺は上衣を戻しながら、石段を下りた。足元が少し揺れる。傷のせいではない。儀式の間、ずっと体の奥がこわばっていたせいだ。
クラウスが隣に来た。
「休め」
彼は言った。
「顔色が悪い」
「昨日からそればかり言われる」
「実際悪い」
「勇者の証が光らなかったからか」
俺はあえて軽く言ったが、クラウスは答えなかった。
「疑っているのか」
言わない方がよかったのかもしれない。だが、そう思った時にはすでに口から出ていた。
クラウスは少しだけ眉を寄せた。
「何をだ」
「俺が勇者かどうか」
クラウスはすぐには答えなかった。だが、それだけでクラウスの胸の内。それを察するには十分だった。
胸の奥が冷えた。昨日まで、魔王を共に倒した仲間だった。俺を勇者と呼び、肩を支え、前に立ってくれた男だった。そのクラウスが、今、答えを遅らせた。
「ユリス」
クラウスは低い声で言った。
「俺は、お前が成してきたことを見ている」
「質問の答えになってない」
「今はそれで足りる」
足りない。足りるはずがない。勇者であるかどうか。それだけを聞いているのに、クラウスは成してきたことなどと言った。証とは別のところで俺を見ようとしている。つまり、証について疑っているということに他ならない。
俺は唇を結んだ。
セレナは少し離れて歩いていた。彼女は神殿を出てから、一度も俺に話しかけていない。エスカはさらに後ろで、俺たちの様子を怯えた顔で見ている。
その日の午後、俺は部屋に戻され、しばらく休むことになった。
休めるはずがなかった。
王城の客室は広かった。窓から王都が見える。遠くには昨日俺たちを迎えた大通りも見えた。人々はまだ祝祭気分の中にいる。通りには花が残り、魔王討伐を祝う布が揺れている。
俺は椅子に座り、胸元の紋章に触れた。
偽物。
その言葉が頭の中で響く。
今さらだ。最初から分かっていた。俺は本物ではない。アルスを殺し、偽の紋章を刻み、勇者として王都に入り込んだ。そんなことは、誰よりも俺が知っている。
だが、七年が経っていた。
七年だ。
俺は遊んでいたわけではない。逃げ回っていたわけでもない。勇者として任務を受け、魔物を討ち、町を救い、村を守り、仲間と死線を越えた。血を吐くほど鍛えた。何度も傷を負った。最初は嘘だったとしても、俺は本当に勇者であろうとした。
それでも、証が光らなければ全部終わるのか。
あの崖でアルスを押した瞬間だけが、俺のすべてを決めるのか。
胸の奥に、黒いものが湧いた。
違う。
俺は変わった。俺はそうであろうと努めてきた。
魔王を倒した。世界を救った。
それでも許されないのか。
神よ、俺はどうしても許されないのか。
扉が叩かれた。
俺は反射的に体をこわばらせた。
「誰だ」
「セレナです」
声を聞いた瞬間、別の緊張が走った。
俺は少し迷ってから、入れと言った。
セレナは一人だった。いつもの魔術師の外套ではなく、簡素な服に着替えている。顔色はまだ悪い。手には小さな革の手帳を持っていた。
「体調は」
俺が聞くと、セレナは少し困ったように笑った。
「あなたが聞く側ですか」
「聞く側にもなる」
「なら、私は大丈夫です」
嘘だと思った。だが、追及できなかった。
セレナは椅子に座らなかった。机の前に立ち、手帳を胸に抱えたまま、しばらく黙っていた。
「神殿の反応について、調べたいことがあります」
やはり、それだった。
俺は椅子の肘掛けを握った。
「魔王の瘴気だろう」
「その可能性はあります」
「なら、それでいい」
「可能性があることと、それでよいことは違います」
セレナらしい言い方だった。
俺は苛立ちを押し殺した。
「俺を疑っているのか」
また同じ問いをした。
セレナは、クラウスよりも長く黙った。
「私は、事実を知りたいだけです」
それは最悪の答えだった。
疑っていると言われるより、ずっと怖かった。セレナは感情で責めるのではなく、事実へ向かう。そういう女だ。そしてその事実は、俺を殺す。
「事実ならある」
俺は言った。
「魔王は死んだ。俺たちは勝った。それ以上に何がいる」
「ユリス」
セレナの声が少し低くなった。
「あなたが何者であっても、あなたが魔王を倒したことは変わりません」
心臓が跳ねた。
何者であっても?
なぜ、そんな言い方をする。
「ただ、何かを隠しているなら、今のうちに話してください。クラウスも、たぶん同じことを思っています。エスカも怯えています」
「怯えているのはいつものことだ」
「そういう話ではありません」
セレナは少しだけ眉を寄せた。
彼女は何かを言おうとしていた。
勇者の証のことではない。もっと個人的な、もっと深い何か。俺はそれを感じた。だが、同時に怖かった。彼女が何を言うのか。俺のどこまで知っているのか。何を求めているのか。
「私、あなたに言わなければならないことが――」
その瞬間、廊下の向こうから足音がした。
クラウスの声が扉越しに響いた。
「ユリス。少しいいか」
セレナは口を閉じた。
俺は、ほっとした。ほっとしてしまった。
そのことを、後に何度も思い出す。
俺はあのとき、セレナの言葉を聞かなくて済んだことに安堵した。彼女が何を言おうとしていたのか、知ろうとしなかった。知れば、何かが変わったかもしれない。
だがその時の俺は、セレナが次の言葉を選ぶ、その短い沈黙にすら耐えられなかった。何を切り出されるのか分からない時間が、ただ怖かった。
俺は扉へ向かって言った。
「入れ」
クラウスが入ってきた。
手には一通の封じていない手紙があった。
俺はそれを見て、胸の奥がまた冷たくなったのを感じた。




