四章 第1話 魔王なき世界
魔王の死は、神殿の伝令魔術と王国軍の早馬によって各地へ広がっていた。
王都へ戻るまでに、いくつもの町や村を通った。
道中の町にはすでに祝福の旗が掛けられ、人々は俺たちを見つけると家から飛び出してきた。老人が膝をつき、子どもが手を振り、女たちが泣きながら祈りの言葉を唱えた。
勇者様。
勇者ユリス様。
その声を聞くたびに、俺の体の奥で何かが熱くなった。
喜びではない。恐怖でもない。二つが混ざった、どうしようもないものだった。
俺は、ずっとこの声を欲しがっていた。
農村の泥の中で、アルスの背中を見ていた頃から。アルスが神託を受け、人々に囲まれ、祝福されていたあの日から。いや、もっと前からかもしれない。俺はずっと、誰かにそう呼ばれたかった。自分が特別であると認められたかった。生まれが悪くても、金がなくても、汚れた手をしていても、それでも何かになれるのだと信じたかった。
そして今、人々は俺を見て泣いている。
勇者と呼んでいる。
俺は魔王を倒した。
嘘ではない。
俺は確かに、世界を救った。
それでも、その声は俺の胸にまっすぐ入ってこなかった。どこかで必ず、アルスの顔にぶつかる。あいつはもういない。俺が殺した。俺はあいつが歩くはずだった道を奪い、ユリスという自分の名前でその道を歩き、魔王を倒した。
なら、今の歓声は誰のものなのか。
俺のものか。アルスのものか。それとも、勇者という空席に向けられたものか。
分からなかった。
分からないまま、俺は笑った。手を振った。怪我を押して馬に乗り、民衆の前では背筋を伸ばした。クラウスは隣で誇らしげに胸を張り、セレナは少し疲れた顔で人々に応え、エスカはいつものように人混みに怯えながらも、小さく頭を下げていた。
王都の門が見えたとき、クラウスは珍しく黙った。
城壁の上には王国旗が並び、神殿の鐘がいくつも鳴っていた。門前には兵士が整列し、貴族や神官、商人、市民が道の両側を埋めている。あまりの数に、エスカが俺の後ろへ隠れかけた。
「すごい人ですね」
彼女は小さく言った。
「ああ」
俺は答えた。
「怖いです」
「魔王よりか?」
「種類が違います」
エスカらしい返事だった。俺は少し笑った。笑えたことに、自分でも少し驚いた。
クラウスがこちらを見た。
「堂々としていろ。お前は魔王を討った勇者だ」
その言葉に、胸の奥がかすかに軋んだ。
勇者。
クラウスは迷いなくそう言った。旅の初めから、あいつは俺を勇者として扱った。王に任じられたからではない。神託の証を見たからでもない。戦いの中で俺を見て、認めてくれた。融通の利かない男だったが、だからこそ一度信じたものには強かった。
そのクラウスが、今は俺をまっすぐに見ている。
俺は目を逸らした。
「疲れただけだ」
「なら、なおさら背を丸めるな。民は勇者の疲れた顔など見たくない」
「厳しいな」
「当然だ」
クラウスはそう言って、口元だけで笑った。
セレナが少し咳をした。
俺は振り返った。
「大丈夫か」
「ええ。魔力の戻りが遅いだけです」
彼女はいつものように冷静な声で答えたが、顔色は悪かった。魔王戦の後から、セレナは何度か体調を崩していた。吐き気があるのか、食事の量も減っている。本人は疲労と魔力枯渇だと言い張った。実際、彼女は最終戦で限界以上に魔術を使った。魔王の結界を破ったのも、最後の隙を作ったのも、セレナだった。体調が悪くても不思議ではない。
俺は、そう納得した。納得してしまった。
「無理はするな」
俺が言うと、セレナは少しだけ目を細めた。
「あなたに言われるとは思いませんでした」
「俺は無理をするのが仕事だ」
「そういうところが、昔からよくありません」
昔から。
その言葉が、妙に柔らかかった。
セレナとは、旅の途中で関係が変わった。恋と呼ぶには、俺にはその言葉が眩しすぎる。だが、ただの仲間でもなかった。死が近い旅では、夜が人を弱くする。どちらからともなく寄りかかった。明日死ぬかもしれないという恐怖と、互いに生きている体温を確かめたい気持ちが、静かに混ざった。
彼女は真面目な女だった。
だから、軽い出来事として扱うことはなかった。俺も、そのつもりはなかった。少なくとも、そう思っていた。
ただ、俺は怖かった。
誰かと深くつながるほど、自分の根にある嘘が大きくなる。セレナが俺を見る目が優しくなるほど、俺はアルスの死を思い出す。クラウスの信頼も、エスカの依存も、セレナの静かな好意も、全部が俺にとって救いであり、同時に首を絞める縄だった。
王都の門が開く。
歓声が爆発した。
勇者様。
魔王討伐の英雄。
世界を救った者。
俺は馬上で手を上げた。
民衆が泣き、叫び、花を投げた。花びらが鎧に当たって落ちる。青や白や黄色。血と灰ばかり見てきた目には、色が鮮やかすぎた。俺は笑わなければならなかった。勇者として。世界を救った者として。彼らの望む顔をしなければならなかった。
そのとき、耳の奥でまた魔王の声がした。
お前には、何かが欠けているように思う。
俺の手綱を握る指に力がこもった。
門の先、王城まで続く大通りは人で埋まっていた。祝福の鐘が鳴り続ける。王都全体が、魔王なき世界の始まりを祝っていた。
俺はその中心にいた。
いや、中心に立ってしまった。
もう戻れないところまで来たのだと、そのとき初めて本当に分かった。
あの日。アルスを押したあの瞬間から、俺はずっと逃げてきた。偽の紋章を刻み、王都へ入り、仲間を与えられ、戦い、救い、勝ち続け、魔王まで倒した。逃げ続けた先に、俺は世界の中心へ出てしまった。
ここで、すべて嘘でしたなどと言えるはずがない。
言えば、俺だけでは終わらない。俺を信じたクラウスも、俺に身を預けたセレナも、俺の後ろを歩いたエスカも、俺に救われたと泣いた人々も、全部が傷つく。俺が成したものも、救った命も、嘘の泥に沈められる。
だから言えない。
言えるはずがない。
そう自分に言い聞かせた。
だが、本当の理由はもっと浅ましかった。
俺は失いたくなかった。
名声も、金も、地位も、感謝も、勇者として見られる目も。七年前、欲しくて欲しくて、アルスを殺してまで手を伸ばしたものを、今さら返せるはずがなかった。
王城前の広場に着くと、王が待っていた。
祝辞があり、神官の祈りがあり、討伐の証として魔王の角が掲げられた。俺は膝をつき、王から言葉を受けた。勇者ユリス。王国の盾。世界の救い手。そう呼ばれるたびに、人々は沸いた。
クラウスは誇らしそうだった。
セレナは静かに目を伏せていた。
エスカは居心地悪そうに周囲を見ていた。
俺だけが、胸の奥に冷たい石を抱えていた。
式典が終わり、ようやく城内に案内されたとき、俺は長い息を吐いた。身体中が痛んでいた。傷ではない。もっと深いところが軋んでいた。
その夜、王城の一室で簡単な祝宴が開かれた。民衆向けの大宴ではなく、王族と主だった者たちだけの席だった。俺たちは疲れていたが、断ることはできなかった。
年代物の酒が出た。上等な肉が出た。綺麗に焼かれた白いパンが出た。
白いパンを見た瞬間、俺はアルスの家を思い出した。
あいつは昔、何でもないようにそれを俺へ渡した。俺の家では、白いパンなど特別な日でもなければ出なかった。あのとき俺は、うまいと言って笑った。アルスも笑った。リーネが横で、もっと食べるかと聞いた。
俺は、あの家からも奪ったのだ。
「ユリス」
セレナが隣で声をかけた。
俺ははっとして顔を上げた。
「顔色が悪いです」
「君ほどじゃない」
「私は魔力切れです」
「俺は勇者切れだ」
軽口のつもりだった。
セレナは少しだけ笑った。だが、すぐに真面目な顔に戻った。
「あとで、少し話があります」
俺の胸が跳ねた。
何の話だ。
そう聞こうとして、言葉が出なかった。セレナの目が、いつもより柔らかかったからだ。責める目ではない。疑う目でもない。何かを決めかねているような、怖がっているような目だった。
「今でなくていいのか」
「ええ。今は、人が多いので」
彼女はそう言って、視線を落とした。
俺は、その意味を考えなかった。
考えるべきだった。
クラウスは少し離れた席で、王国騎士団の連中に囲まれていた。珍しく酒を飲んでいる。エスカは隅で小さくなりながら、山盛りの皿を前に困っていた。平和だった。少なくとも、その場は平和に見えた。
俺たちは魔王を倒した。
世界は救われた。
これから先、俺は勇者として生きていく。嘘を抱えたままでも、いつかその嘘を超えるだけの何かになれるのではないか。そう思いかけた。
だが、祝宴の終わり際、城の神官が俺の前に来た。
「勇者ユリス様」
老神官は深く頭を下げた。
「明日、神殿にて討伐後の清めの祈りを執り行います。勇者の証にも、魔王の瘴気を払う祈りを捧げねばなりません」
俺は笑顔を保った。
だが、胸の奥が冷たく沈んだ。
勇者の証。
祈り。
魔王が残した、あの曖昧な言葉。
俺は、明日何が起きるのか分からなかった。だが、何かが近づいていることだけは分かった。七年間積み上げたものの下から、最初の死体が顔を出そうとしている。
俺は杯を握りしめた。
手の中で、銀の器がかすかに鳴った。




