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勇者の首が落ちる朝 ~魔王を倒した男は、なぜ処刑されたのか~  作者: たま8


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終章 第5話 首を落とす朝

 処刑の朝、空は白かった。


 晴れているわけではない。雲が薄く広がり、陽の光だけがぼんやりと王都の屋根を照らしている。冬ではなかったはずだが、空気は冷たかった。牢から出されたとき、俺は最初に自分の息が白いことに気づいた。どうでもいいことだった。だが、どうでもいいことばかりが目についた。


 石畳の隙間に入り込んだ黒い土。兵士の鎧に残る磨き残し。処刑台へ続く道の端に落ちた、小さな花びら。群衆の中で泣き出した子どもを抱き上げる母親の手。


 俺はこれから死ぬ。


 その事実だけが大きすぎて、かえって周囲の細かなものが妙にはっきり見えた。


 広場へ向かう道は、人で埋まっていた。兵士たちが作った通路を、俺は鎖につながれて歩かされた。罵声が飛ぶ。石も飛んだ。兵士の盾に当たり、乾いた音を立てる。誰かが唾を吐いた。誰かが泣いた。誰かが、魔王を倒してくれてありがとう、と小さく言った気もした。


 俺は振り向かなかった。


 振り向けば、その声に縋ってしまうと思った。


 人は、最後まで都合のいい声だけを拾おうとする。


 俺はそういう男だった。


 処刑台が近づくにつれて、足が重くなった。鎖のせいではない。体が行きたくないと言っていた。死へ向かうことを、体は理屈で納得しない。罪があるとか、裁きだとか、法だとか、そんなものは体には関係ない。心臓は打つ。肺は息を欲しがる。喉は水を欲しがる。膝は逃げろと震える。


 俺は、逃げたかった。


 できるはずがないのに、周囲を見た。


 左に兵士。右にも兵士。前には処刑台。後ろには槍。屋根の上には弓兵。広場の隅には神殿の魔術師。首には封じの環。手は縛られ、足元は不安定。逃げられるわけがない。分かっている。それでも、目は勝手に逃げ道を探した。


 エスカなら、見つけたかもしれない。


 そんなことを思って、すぐに打ち消した。


 あの女は、俺から逃げた。そして逃げた先で、俺を裁きに戻した。


 俺よりずっと臆病で、俺よりずっと正しかった。


 処刑台の階段を上る。


 木が軋んだ。


 広場の音が一段低くなる。人々が俺を見る。ここからは、俺の顔がよく見えるのだろう。俺も、広場全体が見渡せた。


 かつて凱旋したときも、同じ広場に立った。あの日、俺は高い馬に乗り、クラウスは隣で誇らしげに背筋を伸ばし、セレナは疲れた顔で、それでも少しだけ笑っていた。エスカは群衆の多さに怯えて、俺たちの後ろに隠れるように歩いていた。


 王都は熱狂していた。


 魔王が倒れた。世界は救われた。勇者ユリスが帰ってきた。


 その歓声を、俺は忘れられない。


 そして今、その同じ場所で、俺は死ぬ。


 告知役が罪状を読み上げる。罪人ユリス。神託偽造。勇者詐称。神託を受けたアルス殺害。裏彫師殺害。騎士クラウス殺害。魔術師セレナ殺害。未出生の子の死。斥候エスカへの殺害未遂。王国および神殿への欺罔。


 罪が多い。


 読み上げられるうちに、他人の話のように聞こえてくる。そんな人間がいるなら、死刑でも仕方ない。そう思えるほどだった。


 だが、それは俺だった。


 全部、俺がしたことだった。


 告知が終わると、リーネが現れた。


 黒い服。腰の剣。白い顔。昨日の面会室で見た彼女と同じだったが、広場の光の中では、さらに遠く見えた。俺の知っている幼いリーネはもういない。俺が殺したアルスの妹も、七年の間に別のものになってしまった。


 俺がそうした。


 彼女は処刑台に上がると、俺の前で止まった。


 兵士が俺の肩を押さえようとしたが、リーネが手で制した。


「逃げないわよね」


 彼女が言った。


 俺は答えられなかった。


 逃げられるなら逃げたい。


 そう思った。


 だが、ここでそれを口にするほどではなかった。俺は何も言わず、膝をついた。逃げないのではない。逃げられないだけだ。彼女も分かっていたのだろう。それ以上は言わなかった。


 処刑台の板に膝が当たる。


 冷たい。


 昨日まで何人がこの台を作ったのだろう。大工か、兵士か。俺の首を落とすための台を、誰かが朝から夕方まで木を切り、釘を打ち、板を並べた。人の死にも準備がいる。その当たり前の事実が、妙に嫌だった。


 リーネが剣を抜いた。


 広場が静まり返る。


 その静けさの中で、俺は思った。


 何か言うべきだ。


 最後の言葉。


 人は死ぬ前の言葉を覚える。アルスの言葉を、俺は七年覚えていた。


 俺がいないと、お前は何者にもなれない。


 あの言葉は、俺の人生の奥に刺さり続けた。であるなら、俺も何かを残すべきか。


 だが、何を残す?


 謝罪か。


 すまなかった。その言葉は、あまりに遅い。


 弁明か。


 俺は世界を救った。それはもう言った。言ってしまった。そして、それでは何も変わらなかった。


 恨みか。


 神よ、なぜ俺を選ばなかった。生まれが違えば、俺は。


 そこまで考えて、俺はまた自分が何かのせいにしようとしていることに気づいた。


 アルスのせい。

 神のせい。

 生まれのせい。

 世界のせい。


 俺はずっと、そうやって逃げてきた。だが最後に俺の手を動かしたのは、俺だった。アルスを押したのも、彫師の喉を切ったのも、クラウスを刺したのも、セレナに刃を向けたのも、エスカを追ったのも、俺だった。


 俺以外の誰でもない。


 それでも、俺は死にたくなかった。


 どうしようもなく、生きたかった。


 心の奥で、誰かが叫んでいた。


 助けてくれ。

 誰か止めてくれ。

 俺を牢に戻してくれ。

 死刑でなくてもいいはずだ。

 償わせると言ったではないか。

 クラウスは手紙を書いていたではないか。

 俺は働く。戦う。二度と勇者を名乗らなくてもいい。

 どこかの国境で、名前を奪われたまま魔物と戦って死ぬまで働いてもいい。


 だから今、この場で首を落とさないでくれ。


 声には出なかった。出せば、さらに惨めになると分かっていたからだ。


 惨めでないと思っているのか、と心のどこかで笑う自分がいた。もう十分惨めだ。偽の紋章を剥がされ、仲間殺しとして罵られ、神託者の妹に首を落とされようとしている。それでも俺は、最後の一線だけは保とうとしていた。


 俺は、本当に愚かだった。


「ユリス」


 リーネが言った。


 俺は顔を上げた。


「目を閉じてもいい」


 優しさではない。事務的な言葉だった。だが、その分だけ胸に刺さった。彼女は俺に苦痛を与えるために、必要以上に残酷になろうとはしていない。殺すために来ている。復讐でもある。自分のためでもある。だが、俺を嬲るつもりはない。


 俺はうなずいた。


 目を閉じかけて、やめた。


 閉じれば、アルスの顔が見える気がした。クラウスの手紙。セレナの言いかけた言葉。エスカの逃げる背中。そういうものが一斉に押し寄せる気がした。


 だから、俺は目を開けたままにした。


 広場の向こうに、神殿の尖塔が見えた。白い石で作られた、高い塔だった。その上に、空があった。雲の切れ間から、わずかに光が落ちている。


 神は、見ているのだろうか。


 見ているのなら、何を思うのだろう。


 俺を笑うのか。哀れむのか。ようやく裁かれたと頷くのか。あるいは、何も思わないのか。神にとって、人間の罪や後悔など、石畳の隙間の土と同じなのかもしれない。


 俺は、神に選ばれなかった。


 そう思って生きてきた。


 選ばれなかったから、奪った。選ばれなかったから、偽った。選ばれなかったから、アルスを殺した。その考えは、俺の中でずっと言い訳として使われてきた。だが、最後の最後になっても、それを完全には捨てられない。


 神よ。


 俺は心の中で言った。


 俺は、どうしても許されないのか。


 返事はなかった。


 リーネが剣を構える。


 その姿に、少しだけアルスの面影があった。兄妹だから当然だ。足の置き方、肩の角度、剣を握る手。あいつも、きっとこういうふうに剣を構えただろう。王都で学び、神殿で祈り、魔王の前に立ち、世界を救っただろう。


 あの日、魔王は最期に、俺に何かが欠けていると言った。


 俺には、今でもその意味が分からない。分からないまま、ここまで来た。


 リーネが息を吸う。


 広場が息を止める。


 その瞬間、喉の奥から何かがせり上がってきた。


 謝罪でも、弁明でもない。もっと単純な言葉だった。


 死にたくない。


 あれだけ考えた。あれだけ罪を数えた。自分が何をしたのかも分かっていた。アルスは戻らない。クラウスは戻らない。セレナも、腹の子も戻らない。エスカの恐怖も、リーネの七年も消えない。俺の首が落ちることは、たぶん正しい。


 正しいのだろう。


 それでも。


 嫌だ。


 死が、理屈ではなく目の前に来ている。リーネの剣がある。処刑台の板がある。俺の膝が震えている。首の皮膚が冷たい。喉がひきつる。息が浅くなる。心臓が、まだ生きていると叫んでいる。


 死にたくない。


 死にたくない。


 死にたくない。


 俺は、自分でも気づかないうちに体を引いていた。


 ほんの少しだった。逃げられるはずもない。けれど体は勝手に逃げようとした。後ろへ。横へ。刃の届かない場所へ。そんな場所はどこにもないのに、俺の体はまだ生き残る道を探していた。


 鎖が鳴り兵士が動いた。


 肩を押さえられる。背中を押される。膝が処刑台の板に食い込む。誰かの手が俺の髪を掴み、首の位置を直した。粗い指だった。力が強かった。俺は息を漏らした。声にならない声だった。


「いやだ」


 口から出た。出してしまった。


 俺の言葉に広場がざわついた。俺はもう止まらなかった。


「死にたくない、死にたくない」


 情けない声だった。


 その様子を見て、リーネがふっと息を吐いた音が聞こえた気がした。


 それが俺への蔑みなのか、失望なのか、それとも別の何かなのかは分からなかった。


 いや、もうそんなことはどうでもよかった。


 とにかく俺はまだ生きたかった。

 死にたくなかった。

 そのことしか、もう考えられなかった。


 言葉は、喉の奥でなおも暴れた。誰に向けてなのかも分からない。リーネか。王か。神か。クラウスか。セレナか。その腹の中にいた、俺の子か。群衆の中から俺を見ているエスカか。俺が最初に殺したアルスか。


「助けてくれ。俺を、殺さないでくれ。助けてくれ。頼む、助けてくれ」


 兵士の手がさらに強くなった。


 リーネは剣を構えたまま、俺を見ているようだった。兄を殺された妹としての憎しみも、七年を奪われた女としての痛みも、そこには確かにあるはずだった。


 けれど彼女は、それを俺にぶつけようとはしなかった。必要以上に嬲らず、必要以上に許しもせず、ただ俺の首を落とすために、そこにいる。


 その沈黙で、ようやく分かった。何を言っても、誰に縋っても、もう止まらない。俺は今から、本当に殺される。


 怖い。嫌だ。死にたくない。神様。まだ終わりたくない。助けてくれ。母さん。生きたい。


 言葉になりきらないものが、頭の中でぐちゃぐちゃに膨れ上がった。


 俺は最後まで、みっともなかった。


 最後に、アルスの名が浮かんだ。


 謝りたかったのか、助けを求めたかったのか、呪いたかったのか、自分でも分からない。


 ただ、唇だけが動いた。


 アルス。


 その名が声になったかどうかも分からない。


 代わりに、喉の奥から、言葉にならない声が漏れた。泣き声にも、叫びにも、祈りにもなりきらない、みっともない音だった。


 リーネの剣が振り下ろされた。


 痛みは一瞬だったのかもしれない。あるいは、痛みを感じる前に終わったのかもしれない。俺には分からない。ただ、世界が横にずれたような感覚があった。


 空が傾き、処刑台の板が近づき、人々の足元が見えた。


 最後に見えたのは、自分の手だった。


 縛られたままの、傷だらけの手。


 農作業で荒れ、剣で固くなり、人を救い、人を殺し、勇者の席を奪った手。


 この手で、俺はアルスを押した。

 この手で、俺は何度も剣を握った。

 この手で、俺は救いも、罪も、自分のものにした。


 けれど最後まで、その手は何も掴めなかった。


 広場の声が遠くなる。


 誰かが泣いている。

 誰かが罵っている。

 誰かが、もう終わった、と言っている。


 終わった。


 俺の人生は、ここで終わった。


 だが、終わったからといって、何かが償われたわけではない。アルスは戻らない。クラウスは戻らない。セレナは戻らない。腹の子も戻らない。エスカの恐怖も消えない。リーネの七年も返らない。


 俺の首が落ちても、奪ったものは戻らなかった。


 ただ、この日、この朝。


 勇者と呼ばれた罪人が、一人死んだ。

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