終章 第5話 首を落とす朝
処刑の朝、空は白かった。
晴れているわけではない。雲が薄く広がり、陽の光だけがぼんやりと王都の屋根を照らしている。冬ではなかったはずだが、空気は冷たかった。牢から出されたとき、俺は最初に自分の息が白いことに気づいた。どうでもいいことだった。だが、どうでもいいことばかりが目についた。
石畳の隙間に入り込んだ黒い土。兵士の鎧に残る磨き残し。処刑台へ続く道の端に落ちた、小さな花びら。群衆の中で泣き出した子どもを抱き上げる母親の手。
俺はこれから死ぬ。
その事実だけが大きすぎて、かえって周囲の細かなものが妙にはっきり見えた。
広場へ向かう道は、人で埋まっていた。兵士たちが作った通路を、俺は鎖につながれて歩かされた。罵声が飛ぶ。石も飛んだ。兵士の盾に当たり、乾いた音を立てる。誰かが唾を吐いた。誰かが泣いた。誰かが、魔王を倒してくれてありがとう、と小さく言った気もした。
俺は振り向かなかった。
振り向けば、その声に縋ってしまうと思った。
人は、最後まで都合のいい声だけを拾おうとする。
俺はそういう男だった。
処刑台が近づくにつれて、足が重くなった。鎖のせいではない。体が行きたくないと言っていた。死へ向かうことを、体は理屈で納得しない。罪があるとか、裁きだとか、法だとか、そんなものは体には関係ない。心臓は打つ。肺は息を欲しがる。喉は水を欲しがる。膝は逃げろと震える。
俺は、逃げたかった。
できるはずがないのに、周囲を見た。
左に兵士。右にも兵士。前には処刑台。後ろには槍。屋根の上には弓兵。広場の隅には神殿の魔術師。首には封じの環。手は縛られ、足元は不安定。逃げられるわけがない。分かっている。それでも、目は勝手に逃げ道を探した。
エスカなら、見つけたかもしれない。
そんなことを思って、すぐに打ち消した。
あの女は、俺から逃げた。そして逃げた先で、俺を裁きに戻した。
俺よりずっと臆病で、俺よりずっと正しかった。
処刑台の階段を上る。
木が軋んだ。
広場の音が一段低くなる。人々が俺を見る。ここからは、俺の顔がよく見えるのだろう。俺も、広場全体が見渡せた。
かつて凱旋したときも、同じ広場に立った。あの日、俺は高い馬に乗り、クラウスは隣で誇らしげに背筋を伸ばし、セレナは疲れた顔で、それでも少しだけ笑っていた。エスカは群衆の多さに怯えて、俺たちの後ろに隠れるように歩いていた。
王都は熱狂していた。
魔王が倒れた。世界は救われた。勇者ユリスが帰ってきた。
その歓声を、俺は忘れられない。
そして今、その同じ場所で、俺は死ぬ。
告知役が罪状を読み上げる。罪人ユリス。神託偽造。勇者詐称。神託を受けたアルス殺害。裏彫師殺害。騎士クラウス殺害。魔術師セレナ殺害。未出生の子の死。斥候エスカへの殺害未遂。王国および神殿への欺罔。
罪が多い。
読み上げられるうちに、他人の話のように聞こえてくる。そんな人間がいるなら、死刑でも仕方ない。そう思えるほどだった。
だが、それは俺だった。
全部、俺がしたことだった。
告知が終わると、リーネが現れた。
黒い服。腰の剣。白い顔。昨日の面会室で見た彼女と同じだったが、広場の光の中では、さらに遠く見えた。俺の知っている幼いリーネはもういない。俺が殺したアルスの妹も、七年の間に別のものになってしまった。
俺がそうした。
彼女は処刑台に上がると、俺の前で止まった。
兵士が俺の肩を押さえようとしたが、リーネが手で制した。
「逃げないわよね」
彼女が言った。
俺は答えられなかった。
逃げられるなら逃げたい。
そう思った。
だが、ここでそれを口にするほどではなかった。俺は何も言わず、膝をついた。逃げないのではない。逃げられないだけだ。彼女も分かっていたのだろう。それ以上は言わなかった。
処刑台の板に膝が当たる。
冷たい。
昨日まで何人がこの台を作ったのだろう。大工か、兵士か。俺の首を落とすための台を、誰かが朝から夕方まで木を切り、釘を打ち、板を並べた。人の死にも準備がいる。その当たり前の事実が、妙に嫌だった。
リーネが剣を抜いた。
広場が静まり返る。
その静けさの中で、俺は思った。
何か言うべきだ。
最後の言葉。
人は死ぬ前の言葉を覚える。アルスの言葉を、俺は七年覚えていた。
俺がいないと、お前は何者にもなれない。
あの言葉は、俺の人生の奥に刺さり続けた。であるなら、俺も何かを残すべきか。
だが、何を残す?
謝罪か。
すまなかった。その言葉は、あまりに遅い。
弁明か。
俺は世界を救った。それはもう言った。言ってしまった。そして、それでは何も変わらなかった。
恨みか。
神よ、なぜ俺を選ばなかった。生まれが違えば、俺は。
そこまで考えて、俺はまた自分が何かのせいにしようとしていることに気づいた。
アルスのせい。
神のせい。
生まれのせい。
世界のせい。
俺はずっと、そうやって逃げてきた。だが最後に俺の手を動かしたのは、俺だった。アルスを押したのも、彫師の喉を切ったのも、クラウスを刺したのも、セレナに刃を向けたのも、エスカを追ったのも、俺だった。
俺以外の誰でもない。
それでも、俺は死にたくなかった。
どうしようもなく、生きたかった。
心の奥で、誰かが叫んでいた。
助けてくれ。
誰か止めてくれ。
俺を牢に戻してくれ。
死刑でなくてもいいはずだ。
償わせると言ったではないか。
クラウスは手紙を書いていたではないか。
俺は働く。戦う。二度と勇者を名乗らなくてもいい。
どこかの国境で、名前を奪われたまま魔物と戦って死ぬまで働いてもいい。
だから今、この場で首を落とさないでくれ。
声には出なかった。出せば、さらに惨めになると分かっていたからだ。
惨めでないと思っているのか、と心のどこかで笑う自分がいた。もう十分惨めだ。偽の紋章を剥がされ、仲間殺しとして罵られ、神託者の妹に首を落とされようとしている。それでも俺は、最後の一線だけは保とうとしていた。
俺は、本当に愚かだった。
「ユリス」
リーネが言った。
俺は顔を上げた。
「目を閉じてもいい」
優しさではない。事務的な言葉だった。だが、その分だけ胸に刺さった。彼女は俺に苦痛を与えるために、必要以上に残酷になろうとはしていない。殺すために来ている。復讐でもある。自分のためでもある。だが、俺を嬲るつもりはない。
俺はうなずいた。
目を閉じかけて、やめた。
閉じれば、アルスの顔が見える気がした。クラウスの手紙。セレナの言いかけた言葉。エスカの逃げる背中。そういうものが一斉に押し寄せる気がした。
だから、俺は目を開けたままにした。
広場の向こうに、神殿の尖塔が見えた。白い石で作られた、高い塔だった。その上に、空があった。雲の切れ間から、わずかに光が落ちている。
神は、見ているのだろうか。
見ているのなら、何を思うのだろう。
俺を笑うのか。哀れむのか。ようやく裁かれたと頷くのか。あるいは、何も思わないのか。神にとって、人間の罪や後悔など、石畳の隙間の土と同じなのかもしれない。
俺は、神に選ばれなかった。
そう思って生きてきた。
選ばれなかったから、奪った。選ばれなかったから、偽った。選ばれなかったから、アルスを殺した。その考えは、俺の中でずっと言い訳として使われてきた。だが、最後の最後になっても、それを完全には捨てられない。
神よ。
俺は心の中で言った。
俺は、どうしても許されないのか。
返事はなかった。
リーネが剣を構える。
その姿に、少しだけアルスの面影があった。兄妹だから当然だ。足の置き方、肩の角度、剣を握る手。あいつも、きっとこういうふうに剣を構えただろう。王都で学び、神殿で祈り、魔王の前に立ち、世界を救っただろう。
あの日、魔王は最期に、俺に何かが欠けていると言った。
俺には、今でもその意味が分からない。分からないまま、ここまで来た。
リーネが息を吸う。
広場が息を止める。
その瞬間、喉の奥から何かがせり上がってきた。
謝罪でも、弁明でもない。もっと単純な言葉だった。
死にたくない。
あれだけ考えた。あれだけ罪を数えた。自分が何をしたのかも分かっていた。アルスは戻らない。クラウスは戻らない。セレナも、腹の子も戻らない。エスカの恐怖も、リーネの七年も消えない。俺の首が落ちることは、たぶん正しい。
正しいのだろう。
それでも。
嫌だ。
死が、理屈ではなく目の前に来ている。リーネの剣がある。処刑台の板がある。俺の膝が震えている。首の皮膚が冷たい。喉がひきつる。息が浅くなる。心臓が、まだ生きていると叫んでいる。
死にたくない。
死にたくない。
死にたくない。
俺は、自分でも気づかないうちに体を引いていた。
ほんの少しだった。逃げられるはずもない。けれど体は勝手に逃げようとした。後ろへ。横へ。刃の届かない場所へ。そんな場所はどこにもないのに、俺の体はまだ生き残る道を探していた。
鎖が鳴り兵士が動いた。
肩を押さえられる。背中を押される。膝が処刑台の板に食い込む。誰かの手が俺の髪を掴み、首の位置を直した。粗い指だった。力が強かった。俺は息を漏らした。声にならない声だった。
「いやだ」
口から出た。出してしまった。
俺の言葉に広場がざわついた。俺はもう止まらなかった。
「死にたくない、死にたくない」
情けない声だった。
その様子を見て、リーネがふっと息を吐いた音が聞こえた気がした。
それが俺への蔑みなのか、失望なのか、それとも別の何かなのかは分からなかった。
いや、もうそんなことはどうでもよかった。
とにかく俺はまだ生きたかった。
死にたくなかった。
そのことしか、もう考えられなかった。
言葉は、喉の奥でなおも暴れた。誰に向けてなのかも分からない。リーネか。王か。神か。クラウスか。セレナか。その腹の中にいた、俺の子か。群衆の中から俺を見ているエスカか。俺が最初に殺したアルスか。
「助けてくれ。俺を、殺さないでくれ。助けてくれ。頼む、助けてくれ」
兵士の手がさらに強くなった。
リーネは剣を構えたまま、俺を見ているようだった。兄を殺された妹としての憎しみも、七年を奪われた女としての痛みも、そこには確かにあるはずだった。
けれど彼女は、それを俺にぶつけようとはしなかった。必要以上に嬲らず、必要以上に許しもせず、ただ俺の首を落とすために、そこにいる。
その沈黙で、ようやく分かった。何を言っても、誰に縋っても、もう止まらない。俺は今から、本当に殺される。
怖い。嫌だ。死にたくない。神様。まだ終わりたくない。助けてくれ。母さん。生きたい。
言葉になりきらないものが、頭の中でぐちゃぐちゃに膨れ上がった。
俺は最後まで、みっともなかった。
最後に、アルスの名が浮かんだ。
謝りたかったのか、助けを求めたかったのか、呪いたかったのか、自分でも分からない。
ただ、唇だけが動いた。
アルス。
その名が声になったかどうかも分からない。
代わりに、喉の奥から、言葉にならない声が漏れた。泣き声にも、叫びにも、祈りにもなりきらない、みっともない音だった。
リーネの剣が振り下ろされた。
痛みは一瞬だったのかもしれない。あるいは、痛みを感じる前に終わったのかもしれない。俺には分からない。ただ、世界が横にずれたような感覚があった。
空が傾き、処刑台の板が近づき、人々の足元が見えた。
最後に見えたのは、自分の手だった。
縛られたままの、傷だらけの手。
農作業で荒れ、剣で固くなり、人を救い、人を殺し、勇者の席を奪った手。
この手で、俺はアルスを押した。
この手で、俺は何度も剣を握った。
この手で、俺は救いも、罪も、自分のものにした。
けれど最後まで、その手は何も掴めなかった。
広場の声が遠くなる。
誰かが泣いている。
誰かが罵っている。
誰かが、もう終わった、と言っている。
終わった。
俺の人生は、ここで終わった。
だが、終わったからといって、何かが償われたわけではない。アルスは戻らない。クラウスは戻らない。セレナは戻らない。腹の子も戻らない。エスカの恐怖も消えない。リーネの七年も返らない。
俺の首が落ちても、奪ったものは戻らなかった。
ただ、この日、この朝。
勇者と呼ばれた罪人が、一人死んだ。




