四章 第5話 読まなかった続き
死体の間で、俺はまだ自分の未来を探していた。
そんなものが、どこに残っているというのか。
クラウスは床に倒れていた。首元から流れた血が、鎧の隙間を伝って黒く広がっている。腹の傷はひどかった。裂けた肉の奥で、赤黒いものが外へ押し出され、血とは違う、生臭く重い臭いが部屋に混じっていた。
セレナも動かなかった。壁際に崩れたまま、腹へ伸ばした手だけが半端な位置で止まっている。白い服は胸から腹まで赤く染まり、手帳のページにも血が飛んでいた。
床に落ちた手紙が目に入った。
クラウスの字だった。几帳面で、まっすぐな字。血が端を汚している。俺はそれを拾った。読もうとしたのではない。ただ、そこに置いていけなかった。置いていけば、すべてがすぐに終わる気がした。
セレナの手帳も拾った。
開いたままのページに、薬草の名と日付が見えた。意味を考えかけて、俺はすぐに閉じた。今は読むな。読めば、もっと戻れなくなる。そう思った。
もう戻れないくせに。
俺は手紙と手帳を懐へ押し込んだ。
そして、部屋を出た。
廊下の向こうから、兵士の声が聞こえた。
エスカがたどり着いたのだろう。あるいは、廊下の血を見た誰かが異変に気づいたのかもしれない。どちらでも同じだった。
終わったと思った。もう駄目だと分かっていた。
それでも、俺の足は逃げる方へ動いた。
勇者として何度も通された王城の中を、今度は罪人として逃げている。使用人用の階段、奥の通路、古い倉庫へ続く廊下。俺はそれらを知っていた。王城に迎えられ、案内され、信頼されていたからだ。その信頼まで、俺は逃げ道に使った。
古い倉庫に転がり込んだ。
埃と黴の匂いがする。遠くで警鐘が鳴っていた。兵士たちの声が響く。王城全体が動き出している。
俺は壁にもたれて座り込んだ。
手が震えていた。服にはクラウスとセレナの血がついている。自分の血も混じっている。それが乾き始めて、布が肌に張りついていた。
俺は吐いた。
胃の中のものを全部吐いた。魔王の前では吐かなかった。魔物の死骸の中でも吐かなかった。だが今、俺は吐いていた。
殺した。
クラウスを殺した。セレナを殺した。エスカを殺そうとした。
なぜだ。
守るためだ。
何を。
自分を。
俺が築いたものを。名声を。地位を。金を。勇者として見られる目を。救ってきた人々の記憶を。セレナが向けた柔らかな目を。クラウスが置いてくれた信頼を。エスカが頼ってくれた背中を。
それらを守るために、俺はそれらを壊した。
笑えるほど、愚かだった。
しばらくして、懐に押し込んだ手紙の感触に気づいた。
クラウスの手紙だった。
血がついている。端が破れている。それでも、冒頭の数行だけは読めた。
――勇者ユリスの証には疑義がある。
――神殿による正式な検分を願いたい。
――アルスの死についても、再調査の必要がある。
そこで、俺は読むのをやめた。やはり、告発状だった。クラウスは俺を王と神殿に差し出すつもりだった。そう思った。そう思うことにした。
その下にまだ続く文字があることは分かっていた。クラウスの字は、血の染みの向こうにも続いていた。だが俺は読まなかった。そこに何が書かれていても、俺が終わることに変わりはないと思った。
いや、違う。読めば、何かが変わってしまう気がした。
クラウスが本当に俺を売ろうとしていたのなら、憎める。敵にできる。殺したことに、ほんの少しだけでも理由をつけられる。
だが、その続きに別の言葉があったなら。
読めなかった。
俺は手紙を握り潰した。
それでも捨てられなかった。
次に、セレナの手帳を開いた。
血で湿っている。ページはところどころ貼りついていた。そこには、薬草の名前と日付が書かれていた。月の記録。体調の変化。短い走り書き。
確定ではない。まだセレナ自身も確かめている途中だったのかもしれない。
だが、読めば分かった。
腹の子。
俺の手から、手帳が落ちた。
息ができなくなった。
あのとき、セレナが言おうとしていたこと。
ユリス、私、あなたに言わなきゃいけないことが――
俺は、黙れと言った。
そして俺は、彼女を黙らせた。
文字通りに。俺の手で。力づくで。
声が漏れた。
泣いたのかもしれない。叫んだのかもしれない。自分では分からなかった。倉庫の暗がりの中で、俺は握り潰したクラウスの手紙と、落ちたセレナの手帳を前にして、ただ体を丸めていた。
自首しろ。
どこかで声がした。
今からでも、行け。エスカは生きている。クラウスとセレナは戻らないが、もう逃げるな。
それが正しい。分かっていた。
だが、俺は立ち上がらなかった。
警鐘は鳴り続けている。王城中が俺を探している。外には兵士がいる。エスカはきっと証言する。王にも、神殿にも、民衆にも伝わるだろう。俺が守ろうとしたものは、もうどこにも隠せない。
俺は終わった。終わったのに、まだ終わりたくなかった。
やがて、足音が倉庫の前で止まり、何人もの気配が扉の向こうに並ぶのが分かった。息を殺したところで、もう意味はない。俺の服には血が染みつき、床には吐いたものの臭いが残り、懐には握り潰した手紙がある。隠せるものなど、もう何もなかった。
倉庫の扉が開いた。
差し込んだ光に、思わず目を細める。兵士たちは槍を構えたまま俺を囲む。血に汚れ、埃まみれになり、壁際に座り込んでいる俺を、彼らは勇者として見ていなかった。見られるはずもなかった。
逃げ道を探した。
右。左。積まれた木箱。閉じた窓。兵士の足元。どこにもない。それでも俺は、まだ探していた。終わったと分かっていながら、体のどこかはまだ生き延びる道を求めていた。
兵士たちが一斉に踏み込んでくる。
俺は立ち上がろうとした。逃げるためだったのか、抵抗するためだったのか、自分でも分からない。ただ、じっと捕まることだけはできなかった。だが次の瞬間には、肩を押さえられ、腕をねじ上げられ、床へ押し倒されていた。
顔が埃だらけの床にぶつかる。
痛みが走った。
俺は反射的にもがいた。膝を立てようとし、腕を引こうとし、背中に乗る重みを振り払おうとした。だが、兵士の膝が背中を押し潰し、別の手が俺の手首を後ろで縛った。体はまだ逃げようとしているのに、力はもうほとんど残っていなかった。
懐を探られる感触があった。
潰れた手紙が引き抜かれる。床に落ちていたセレナの手帳も、誰かが拾い上げた。俺の手は血と汗で汚れていて、指の間には乾き始めた赤黒いものが残っていた。
そこでようやく、少しだけ息が抜けた。ほっとしたのだと思う。
もう、逃げなくて済む。一瞬だけ、本当にそう思った。
けれどその安堵は、すぐに別の恐怖に塗り潰された。
逃げなくて済むということは、これから裁かれるということだった。裁かれるということは、俺がしたことを一つずつ明るみに出されるということだった。
そして、その先にあるものを、俺はもう分かっていた。
死にたくない。
皺だらけの手紙を手にした兵士が、それを広げようとする。血で汚れているのを見て、顔をしかめた。
「これは?」
俺は答えなかった。答えられなかった。
それは、俺が読まなかった続きだった。
俺は、最後までそれを知らないまま、裁きの場へ連れていかれることになった。




