三章 第1話 魔王領へ
魔王領へ入った日のことは、よく覚えている。
空が低かった。雲が低いのではない。空そのものが、地上へ押しつけられているように見えた。遠くの山は黒く、木々は葉を落とし、地面には灰色の砂が薄く積もっている。風が吹くたび、その砂が足元でさらさらと鳴った。生き物の気配は少ない。鳥の声も、虫の音もない。音がないというより、音が生まれる前に何かに吸われているような場所だった。
エスカは境界石を越えた瞬間、顔色を変えた。
「帰りませんか」
彼女は小さな声で言った。
クラウスが呆れたように振り返る。
「ここまで来てか」
「ここまで来たからです。ここで帰れば、まだ帰れます」
「魔王領を前にして帰る勇者一行があるか」
「勇者一行にも命はあります」
エスカは真顔だった。
俺は少し笑った。笑うような場所ではないのに、笑ってしまった。エスカはいつもこうだった。怖いものは怖いと言う。嫌なものは嫌だと言う。勇者一行の一員だから、英雄だから、魔王討伐の旅だからといって、自分の恐怖を飾らない。
最初は、それが情けなく見えた。
だが、旅が長くなるにつれ、俺はエスカの恐怖を信じるようになった。彼女が怖がるとき、そこにはたいてい何かがある。罠。魔物。地形の崩れ。人の気配。俺たちは何度も、彼女の「怖いです」に助けられてきた。
「帰るのは無理だ」
俺は言った。
「ただし、怖がるのはやめなくていい。お前が怖がる場所は、だいたい危ないからな」
エスカは少しだけ目を丸くした。
「褒めてますか」
「褒めてる」
「ものすごく嫌な褒め方ですね」
「お前に合ってる」
エスカは不満そうに口を尖らせたが、それ以上は言わなかった。
セレナが地図を広げる。古い羊皮紙に、魔王領の地形が荒く記されていた。もちろん、正確ではない。魔王領へ入って戻った者は少なく、戻った者も深部までは知らない。地図には空白が多かった。むしろ、空白こそが魔王領の本体のように見えた。
「この先、三日ほどは人間側の斥候が確認した道があります」
セレナは言った。
「ただし、その先は魔族の監視圏です。補給も期待できません」
「水は」
「魔力汚染の少ない流れを選べば、浄化して使えます。ただし、私の魔力を多く使うことになります」
「温存したいな」
「ええ」
セレナは短く答えた。
彼女はいつも無駄な言葉が少ない。真面目で、理屈を重んじ、記録を残す。俺が勇者として旅を始めた頃、彼女は俺をかなり冷静に見ていた。王からあてがわれた仲間の一人。神託を受けた勇者を支える魔術師。それ以上でも以下でもない。
だが、旅の途中で、少しずつ変わった。
俺が無理をすると眉をひそめるようになった。怪我を隠すと怒るようになった。夜、焚き火の前で地図を見ていると、黙って隣に座るようになった。いつからそうなったのかは、よく分からない。俺たちの間に、はっきりした境目はなかった。ただ、死に近い旅の中で、気づけば互いの呼吸の近さを知っていた。
それが嬉しかった半面、怖くもあった。
セレナの信頼が深くなるほど、俺の嘘は重くなる。彼女が俺を勇者としてだけでなく、ユリスという人間として見るほど、俺はアルスの死を思い出した。
俺は本物ではない。そう思っていた。
それでも、彼女は俺の隣にいる。
その事実が、救いのようでもあり、裁きのようでもあった。
「ユリス」
クラウスが声をかけた。
彼は前方を見ていた。鎧は旅のために軽くしてあるが、それでも騎士らしい姿だった。背筋がまっすぐで、剣と盾の位置に無駄がない。最初に会った頃、俺はクラウスが苦手だった。あまりに正しく、あまりにまっすぐだったからだ。
俺のような男には、まっすぐなものは眩しすぎる。
「どうした」
「この先の隊列だ。エスカを前に出すにしても、単独では危ない」
「エスカは前方三十歩まで。見通しが悪くなったら十五歩。クラウスは俺の右、セレナは中央。俺が左を見る」
「お前が左か」
「魔王領の地形は悪い。盾持ちを端に置くより、動きやすい方が対応できる」
クラウスは少し考え、うなずいた。
「分かった」
旅の初めなら、ここでひと悶着あったかもしれない。クラウスは騎士団式を重んじ、俺は自分が偽物だと悟られないよう、必要以上に強く出ることがあった。だが今は違う。クラウスは俺の判断を聞く。俺もクラウスの意見を聞く。互いに何度も命を預けた結果、形式よりも実際に生き残ることを優先できるようになっていた。
この信頼は、本物だった。
魔王領へ入って一日目、俺たちはほとんど戦わなかった。
代わりに、歩くだけで疲弊した。空気が重い。地面は柔らかい場所と硬い場所が不規則に混じり、何でもない平地に見えても足を取られる。時折、黒い霧のようなものが地面から湧いた。セレナはそれを魔力の滞留だと言った。吸い込むと吐き気や幻覚を起こすらしい。
夜は、岩陰で野営した。
火は小さくした。煙を嫌ったからだ。魔王領では、こちらの位置を知られることがそのまま死につながる。エスカは周囲に簡単な警戒線を張り、セレナは結界を薄く広げた。クラウスは黙って剣の手入れをしている。
俺は地図を見ていた。
地図というより、空白の中にいくつか線が引かれた紙だ。その空白のどこかに魔王がいる。俺たちはそこへ向かっている。
魔王。
人間の敵。世界を脅かす災厄。そう教えられてきた。だが、旅の中で聞いた古い記録には、少し違う話もあった。魔王とは、単なる破壊者ではない。魔族の王であり、人間とは別の秩序を持つ存在。神託の勇者は、魔王を討つ者である。神殿の記録はだいたいそこで止まっていた。
ただ、古い断片には奇妙な一文があった。
王座へ至る者は、王座の前で己を問われる。
セレナはそれを何度か読み返していた。意味は分からないと言っていた。王座とは魔王の玉座なのか、王国の玉座なのか、あるいは単なる象徴なのか。それすら分からない。
古い予言や神託というものは、たいてい曖昧だ。後からなら何とでも読めるし、前もって読もうとすれば役に立たない。俺は、その一文を気にしないようにした。
「眠らないんですか」
セレナが隣に来ていた。
「少ししたら寝る」
「いつもそう言って寝ません」
「勇者は忙しい」
「そういう言い方で誤魔化すところ、よくありません」
俺は小さく笑った。
「説教か」
「忠告です」
セレナは隣に腰を下ろした。少し距離が近い。クラウスは剣の手入れをしているふりをして、こちらを見ない。エスカは結界の縁で毛布にくるまりながら、すでに半分眠っている。
セレナは火を見つめていた。
「怖くはないんですか」
「怖い」
セレナが意外そうに俺を見る。
「そう言うとは思いませんでした」
「言わない方が勇者らしいか」
「いいえ」
彼女は首を振った。
「少し安心しました」
「俺が怖がると安心するのか」
「怖がらない人よりは」
セレナはそう言って、膝の上で手を組んだ。
「本当に怖いものを前にして怖がらない人は、どこか壊れています」
俺は返事に困った。
壊れている。俺は壊れているのだろうか。魔王が怖い。死が怖い。仲間を失うのが怖い。それは本当だ。だが、それ以上に怖いものがある。アルスの名前。偽の紋章。自分が何者でもない男に戻されること。
それを、俺は誰にも言えない。
「俺は怖いよ」
俺は火を見ながら言った。
「ただ、怖がっても前には行く」
「それが勇者ですか」
「知らない」
本当に知らなかった。勇者が何なのか、俺にはずっと分からない。神に選ばれた者のことなら、俺は違う。聖なる力を持つ者のことなら、俺は違う。魔王を倒す者のことなら、俺はこれからそうなるのかもしれない。誰かを救う者のことなら、俺は何度かそうであろうとした。
だが、どれだけ積み重ねても、最初の嘘に戻る。
俺は勇者ではない。
それでも、勇者としてここにいる。
「あなたは」
セレナが言った。
「少なくとも、逃げない人です」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
逃げない人。俺ほど逃げている男はいないのに。
魔王へ向かう道では逃げていない。確かにそうだ。俺は前に進んでいる。仲間を連れ、人々の願いを背負い、魔王領へ足を踏み入れた。だからセレナにはそう見えるのだろう。
けれど、俺はずっと逃げている。
アルスの死から。
偽の紋章から。
自分が何をしてここに立っているのかという事実から。
その夜、セレナは何も聞かなかった。
ただ、しばらく隣に座っていた。
火が小さくなり、魔王領の暗い風が岩陰を撫でる。遠くで、何か大きなものが地面を擦る音がした。エスカが毛布の中で震え、クラウスが剣に手をかける。俺も立ち上がった。
魔王領の夜は、まだ始まったばかりだった。
俺は剣を握った。
この手で、誰かを救うために。
この手が、最初に誰を殺したかを、思い出さないようにしながら。




