三章 第2話 偽物の強さ
俺には、天から与えられた力などなかった。
だがアルスは違った。神託の日、あいつの胸には明るい紋章が浮かんだ。村の小さな神殿を満たすほどの光だった。神官は泣き、村人は膝をつき、アルス自身は少し困ったように笑っていた。あの光を見れば、誰だって分かる。あれは選ばれた者の光だった。
俺には、そういうものはなかった。
俺の手は、鍬と縄と荷物で荒れていた。指には豆が潰れた痕があり、腕には痣と擦り傷が絶えなかった。体のどこかが痛むのは当たり前で、それを特別だと思ったことはない。自分の体に神聖なものが宿るなど、考えたことすらなかった。
だから俺は奪った。偽の紋章を刻み、勇者の席に座った。
だが、偽物として座っただけでは生き残れない。魔物は、こちらの事情を汲んでくれない。盗賊も、疫病も、魔王軍も、俺が本物か偽物かなど気にしない。勇者として前に出れば、最初に狙われる。民は俺を見る。仲間は俺の判断を待つ。王国は成果を求める。
だから俺は、努力した。努力だけはした。
朝は誰より早く起き、剣を振った。夜は地図と記録を読み、魔物の習性を覚えた。クラウスから盾の使い方を学び、セレナから魔術師を守る立ち位置を聞き、エスカから足跡の読み方や罠の避け方を教わった。恥を忍んだ。知らないことを知らないと言い、できないことをできるようになるまで繰り返した。
最初は、ただばれないためだった。
勇者らしく見えるため。偽物だと悟られないため。アルスの代わりに立っていることを誰にも疑わせないため。
だが、いつからか、理由は少しずつ変わっていった。
助けた子どもが泣きながら俺の手を握った。焼けた村の老人が、ありがとうと何度も頭を下げた。俺の判断が遅れれば死ぬ人間がいる。俺が逃げれば壊れる町がある。そういうものを見てしまうと、偽物だからできない、では済まなくなった。
俺は本物ではない。だからこそ、本物以上にやるしかない。
そう思うようになった。
魔王領に入って二日目、俺たちは最初の大きな戦闘に遭った。
黒い犬のような魔物だった。ただし大きさは馬ほどあり、皮膚の下で煤のようなものが動いていた。目は赤く、口からは煙が漏れている。三体。岩場の影から音もなく現れ、まず前に出ていたエスカを狙った。
「来ます!」
エスカの声が裏返った。
彼女は即座に後ろへ跳んだ。臆病だから反応が早い。魔物の牙が空を噛む。その瞬間、クラウスが盾を構えて前に出た。
「ユリス!」
「右を抑えろ。左は俺が取る。セレナ、中央の足を止めろ!」
「了解」
返事と同時に、セレナの詠唱が始まる。
魔王領の魔物は速く、強い。人間側の支配地域に生息するものとは別物だ。力任せに突っ込んでくるだけではない。こちらの弱い位置を狙い、魔術の気配を避け、足場の悪さを利用する。
俺は左の一体へ走った。
正面からぶつかれば負ける。力では勝てない。神託に選ばれた者なら当然のように振るうのだろう奇跡も、俺にはない。あるのは、鍛えた足と、覚えた剣筋と、相手の動きを読む頭だけだ。
魔物が低く跳ぶ。
俺は踏み込まず、半歩引いた。牙が目の前を通る。肩をかすめた。熱い痛み。だが浅い。俺は剣を逆手に近く握り、魔物の首下へ叩き込んだ。硬い。刃が半分で止まる。魔物が暴れ、俺の腕ごと振り払おうとする。
剣を無闇に抜かず、刺さったままのそれを支点に体を横へ逃がし、腰の短剣を抜く。目。耳の後ろ。顎下。事前に記録で読んだ弱点を探す。魔物の口から黒い煙が吐き出される。
吐き出された煙で視界が曇る。それを吸い込まないよう息を止める。左目の下、薄く皮膚が割れている部分が見えた。
そこに短剣を差し込むと、魔物が絶叫した。
俺は転がるように離れた。剣はまだ刺さっている。魔物が暴れるたび、柄が揺れる。抜く余裕はない。俺は腰に差したもう一振りの剣を抜いた。
クラウスは右の一体を盾で押さえていた。真正面から受けている。馬ほどの魔物の突進を、片膝を沈め、盾の角度だけでいなしている。あれは俺にはできない。クラウスの鍛錬と体格と、騎士としての長年の積み重ねがあるからできることだ。
セレナの術が中央の魔物の足元に絡みつく。
黒い地面から、青白い鎖のような光が伸びた。魔物の足を止める。だが拘束は長く続かない。魔王領では魔術が乱れる。彼女の額に汗が浮かんでいた。まずは中央を片づけるしかない。
そのために、今俺が引き受けているこいつを外す。
「エスカ!」
俺は叫んだ。
「背後を取れ。崖下へ誘導しろ!」
「無茶です!」
「できる!」
「できますけど嫌です!」
「やれ!」
エスカは泣きそうな顔で走った。
彼女は恐怖で足が止まることがある。だが、命令が具体的なら動ける。逃げ道を探す能力は、一行で一番だ。エスカは岩陰を利用し、傷ついた左の魔物の注意を引いた。短剣を投げ、石を蹴り、ぎりぎりの距離で走る。
それを魔物が追う。
俺はクラウスの方へ向かった。
「中央を先に落とす!」
「こいつを空けるのか!」
「俺が一旦代わる! 中央へ行け!」
クラウスは舌打ちしながら盾を傾けた。俺はその隙間を抜け、右の魔物の脇へ入る。クラウスの役目を完全に代わることはできない。盾がない分、受けずに避けるしかなかった。牙。爪。煙。俺は後退しながら魔物を引きつける。
その間に、クラウスが中央へ走った。
拘束が解けかけた魔物へ、盾ごと体当たりする。セレナの術が緩む寸前、クラウスの一撃で魔物の姿勢が崩れる。セレナはすぐに次の術へ移った。火ではない。風でもない。岩場の砂を巻き上げ、魔物の視界を潰す術。
そこへ俺が戻る。
クラウスの剣が中央の魔物の前脚を断ち、俺が喉を突いた。
血ではなく、黒い煤のようなものが噴いた。
だが、まだ終わらない。
俺が引きつけていた右の一体が、すぐ横まで迫っていた。
「右!」
叫ぶより早く、クラウスが動いた。
盾が魔物の顎を跳ね上げる。セレナの短い詠唱が足元を縛る。完全には止まらない。だが、一瞬でよかった。
俺は身を沈め、魔物の喉元へ剣を突き上げると、黒い煤が噴き、二体目が倒れた。
残る一体は、エスカに誘導されて崖際まで来ていた。
エスカは本当に泣いていた。だが、走りは正確だった。逃げているだけに見えて、魔物の進路を少しずつずらしている。崖の縁は脆い。セレナが小さく詠唱し、地面の一部を崩す。
魔物の足元が抜けた。
落ちる。
その瞬間、エスカも足を滑らせた。
「エスカ!」
俺は走った。
考えるより先に体が動いた。魔物の落ちた崖の縁へ飛び込み、エスカの腕を掴む。彼女の体は半分外へ出ていた。下は黒い霧で見えない。落ちれば終わりだ。
「重い!」
「失礼なこと言わないでください!」
「暴れるな!」
「暴れたくて暴れてるわけじゃありません!」
エスカが叫ぶ。
俺の足元も崩れかける。クラウスが後ろから俺の腰を掴んだ。さらにセレナが補助の風を入れる。四人の重さと力が、ぎりぎりで釣り合う。
エスカを引き上げた瞬間、全員が地面に倒れ込んだ。
しばらく誰も動けなかった。
俺は仰向けになり、低い空を見た。肩から血が流れている。腕も痺れている。息が苦しい。だが、生きている。
エスカが隣で泣いていた。
「死ぬかと思いました」
「いつも思ってるだろ」
「今回はかなり具体的に思いました」
クラウスが呆れたように笑った。
セレナは俺の肩の傷を見て、眉をひそめた。
「無茶をしすぎです」
「助かっただろ」
「助かったことと、無茶であることは両立します」
彼女は応急処置の魔術をかけた。温かい感覚が傷を塞いでいく。完全な治療ではない。セレナの魔力も温存しなければならない。だが、血は止まった。
「ありがとう」
俺が言うと、セレナは少しだけ表情を緩めた。
「あなたに倒れられると困りますから」
「勇者だからか」
「それもあります」
それも。
その言葉に、俺は何も返せなかった。
戦いのあと、俺たちは魔物の死骸を調べた。魔王領の生物は、人間側の魔物とは構造が違う。セレナは記録を取り、クラウスは周囲を警戒し、エスカは崖からできるだけ離れた場所で膝を抱えていた。
俺は、自分が突き刺した剣を魔物の首から抜いた。
刃は黒く汚れていた。
俺は強くなった。そう思った。昔の俺なら、最初の一体にも殺されていた。農村で鍬を振っていた頃の俺では、何もできなかった。勇者として旅を始めたばかりの俺でも、きっと無理だった。
だが今は違う。俺は戦える。
天から与えられた力ではない。神聖な光でもない。才能でもない。汗と傷と、何度も死にかけた経験で得た力だ。
それだけは、本物だった。
だからこそ、余計に苦しかった。
もし努力でここまで来られるなら、俺はなぜ最初に奪ったのか。
もし勇者であろうとすることができたなら、なぜアルスを殺したのか。
答えは分かっている。
俺は、待てなかった。
自分の小さな可能性を信じるより、目の前の大きな光を奪う方を選んだ。アルスの歩く道を、自分のものにした。そうしてから、必死に走った。
俺は、勇者になるために努力したのではない。勇者を殺したあとで、勇者らしくなるために努力した。
魔王領の風が吹いた。黒い砂が足元を流れていく。
「ユリス」
クラウスが声をかけた。
「次の進路だが」
「ああ」
俺は剣を拭い、地図を広げた。
考えろ。次の戦い。次の道。次の夜営地。今はそれだけを見ればいい。過去を見るな。アルスを見るな。偽物か本物かを考えるな。
俺は勇者としてここにいる。なら、少なくとも今だけは、勇者として動け。
そう自分に命じながら、俺は地図の上に指を置いた。




