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勇者の首が落ちる朝 ~魔王を倒した男は、なぜ処刑されたのか~  作者: たま8


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三章 第3話 欠けた何か

 魔王と初めて言葉を交わしたのは、城にたどり着く前だった。


 黒い谷を抜けた先に、古い祭壇のような場所があった。石柱が何本も倒れ、中央には円形の台座がある。人間側の神殿とは違う。装飾は少なく、文字のようなものが石に刻まれているが、セレナにも読めなかった。


「魔族の古い祈祷場かもしれません」


 彼女は台座を調べながら言った。


「ただ、魔力の流れが少し変です。壊されているというより、何かを待っているような……」


「待つ?」


「うまく言えません」


 セレナがそう言った瞬間、台座の上に黒い光が浮かんだ。


 クラウスが盾を構える。エスカはすでに岩陰へ下がっていた。俺は剣を抜いた。黒い光は人の形を取り、やがて長身の男の姿になった。いや、男と言っていいのか分からない。角があり、目は金色で、影そのものが衣のように揺れている。


 魔王。


 姿を見た瞬間、そう分かった。


 本体ではない。影か、遠隔の幻影だろう。それでも、魔王の気配は圧倒的だった。空気が重くなり、肺が押し潰される。エスカが小さく悲鳴を漏らした。クラウスの盾がかすかに震える。セレナは杖を握る手に力を込めた。


 俺は前に出た。足が震えそうになるのを、膝に力を入れて抑えた。


「魔王か」


 影の視線が、俺に向いた。それだけで、体の奥まで覗き込まれたような気がした。


「そう呼ばれている」


 声は低く、静かだった。


 俺は少し意外に思った。魔王というものは、もっと荒々しく笑い、人間を虫のように見下すものだと思っていた。だが目の前の影には、怒りよりも疲れがあった。長く続いた争いに倦んだ者の声だった。


「なぜここに現れた」


「確かめるため」


「何を」


「玉座へ至る者を」


 魔王の視線は、俺の胸元へ向いた。服の下にある偽の紋章を見透かされたように感じた。俺は思わず剣を握り直した。クラウスが隣に来る。セレナは後方で術式を構えた。


「俺が勇者だ」


 口にした瞬間、胸の奥がわずかに沈んだ。


 言い慣れたはずの言葉だった。王の前でも、民の前でも、魔物に怯える村人の前でも、何度もそう名乗ってきた。そう名乗るたびに、俺は自分をその形へ押し込めてきた。


 だが、この場所では違った。


 魔王の眼前で、俺の中身のなさだけが、声になって広がったように思えた。


 魔王の視線が、しばらく俺に留まる。沈黙は長くなかったはずだ。けれど、こちらの呼吸だけが遅れていくような時間だった。


「お前には、何かが欠けているように思う」


 俺は剣を握る手に力を込めた。


「何が欠けている」


「我にもよく分からぬ。ただ、お前は何かを持たぬまま、ここへ来たように見える」


 その答えは、予想と違っていた。


 魔王なら何かを知っているのだと思っていた。俺が偽物であることも、アルスの死も、勇者の証の真実も、すべて見抜いているのではないか。そんな恐怖があった。


 だが、魔王の声に確信はなかった。


 あいつは俺を裁いているのではない。見抜いているのでもない。ただ、目の前にあるものを見て、何かが足りないと感じているだけだった。


 それが、かえって深く刺さった。


「魔王のくせに、随分と曖昧なことを言う」


「曖昧なものを、曖昧なまま感じただけだ」


「なら、黙っていろ」


 声が荒れた。


 クラウスが隣でわずかに動いた。セレナの息を呑む気配がした。エスカは岩陰で身を縮めている。


 俺は、自分がなぜここまで苛立っているのか分かっていた。


 欠けている。


 その言葉が、俺の一番奥にあるものへ触れた気がしたからだ。


 俺はその感覚を振り払うように、剣先をわずかに上げた。


「俺たちは、お前を倒しに来た」


 声はまだ荒れていた。


「人間の領域を侵し、町を焼き、魔物を放ち、多くの人を殺した。その責任を取らせる」


 魔王はしばらく黙っていた。


 黒い影が、祭壇の上でゆらりと揺れる。風はない。それなのに、その影だけが薄い炎のように揺れている。目の奥にある金色だけが、やけに静かだった。


「それが、お前の答えか」


「他に何がある」


「分からぬ」


 魔王は再びそう言った。


 その返答に、また苛立ちが胸の奥で膨らんだ。


 分からない。


 それは、俺の言葉でもあった。


 なぜ俺は選ばれなかったのか。なぜアルスだったのか。なぜ俺は、あの瞬間に自分の醜さを選んだのか。


 いや、違う。分かっている。


 俺が選ばれなかったのは、こんな俺だからだ。アルスが選ばれたのもアルスだったからだ。そして俺はアルスを押した。魔が差したのではない。誰かに操られたのでもない。あの瞬間、俺は自分の手で、あいつを落とした。


 分かっているからこそ、立ち止まれなかった。立ち止まれば、その場で全部が追いついてくる。アルスの顔も、村の神殿の光も、あの日の谷底も、自分の手の感触も。


 そんなものに追いつかれるくらいなら、前へ進むしかなかった。


「終わらせ方なら決まっている」


 俺は剣を構えた。


「お前を倒す」


「お前が我を終わらせるのか」


「そうだ」


「そうか」


 魔王は否定しなかった。


 ただ、その声には落胆とも諦めともつかない響きがあった。何かを期待していたわけではない。何かを確認しているような声だった。


「何だ」


「いや」


 魔王は目を細めた。


「我にも、終わり方など分からぬ。ただ、お前が剣を選ぶなら、我もそれを受けるだけだ」


「当然だ」


「ならば、城で待とう」


 黒い影が薄れていく。


「勇者を名乗る者よ。お前に何が欠けているのか、我にも分からぬ」


 影はそこで、わずかに形を崩した。


「だが、欠けたまま来たとしても、我はそれを受けよう」


 言葉の意味を問い返す前に、影は消えた。


 祭壇には、重い沈黙だけが残った。


 しばらく、誰も動かなかった。


 倒れた石柱。読めない文字。黒い光の残滓。そこにあったはずの魔王の気配は薄れているのに、胸の奥に沈んだものだけは消えなかった。


 最初に口を開いたのはエスカだった。


「帰りませんか」


 誰も笑わなかった。


 クラウスは盾を下ろし、俺の横へ来た。


「気にするな。敵の言葉だ」


「ああ」


「お前を揺さぶろうとしただけだ」


 クラウスの声はまっすぐだった。


 いつもそうだ。あいつは疑うべき場面でも、まず信じる。信じた上で、間違っていれば正す。俺にはそれが眩しく、面倒で、そして何度も救いだった。


「お前が勇者であることは、ここまでの旅が証明している」


 その言葉は、まっすぐ俺に向けられていた。


 だが、胸の奥までは届かなかった。


 旅が証明している。


 それは、本当にそうなのだろうか。


 神託の証がなくても。魔王が認めなくても。人を救い、仲間を守り、ここまで来た事実があるなら、それで勇者と言えるのだろうか。


 クラウスは、そう思っているのかもしれない。


 セレナも、たぶんそう思いたがっている。


 エスカだって、怖がりながらも俺の指示に従ってここまで来た。


 だが、俺自身は知っている。


 旅の前に、俺はアルスを殺している。


 どれだけ旅が積み重なっても、その前にあるものは変わらない。


「ユリス」


 セレナが近づいた。


 彼女は俺の顔を覗き込むようにして、少し眉を寄せた。


「大丈夫ですか」


「大丈夫に見えないか」


「見えません」


「正直だな」


「今は嘘を言う場面ではありません」


 俺は少し笑った。


 セレナは笑わなかった。


「さっきの言葉に、心当たりがありますか」


 心臓が跳ねた。


「どの言葉だ」


「欠けている、という話です」


 胸の奥に、また冷たいものが落ちた。


 魔王は何も知らない。そう思うべきだった。あれは敵の揺さぶりだ。クラウスの言う通りだ。意味などない。あの影は、ただ俺を不安にさせるために曖昧なことを言っただけだ。


 そう思おうとした。


 だが、セレナの目は誤魔化せなかった。


 彼女は魔王の言葉そのものよりも、俺の反応を見ていた。


「あるわけないだろ」


 答えが早すぎた。自分でも分かった。


 セレナの目が、わずかに動いた。


「そうですか」


 彼女はそれ以上聞かなかった。


 それがかえって、胸に残った。小さな棘のようなものが、俺たちの間に刺さった。


 その後、俺たちは祭壇を離れた。魔王の幻影が残した魔力を避け、北側の岩道へ進む。セレナは何度か振り返り、祭壇を見ていた。クラウスはいつもより無口だった。エスカは、はっきり怯えていた。


 俺も怖かった。


 魔王が怖いのではない。


 魔王の言葉が、どこかで本当だった場合が怖かった。


 欠けている。何が欠けているのか、魔王にも分からないと言った。


 だが俺には、分かってしまいそうだった。


 アルス。


 その名が浮かびかけて、俺はすぐに押し殺した。


 違う。違うはずだ。


 あいつはもういない。俺がここまで来た。俺が魔王領を進み、俺が仲間を率い、俺が人を救ってきた。ここにいない者のことを、今さら考えても仕方がない。


 俺は勇者としてここにいる。なら、勇者として進め。


 偽物か本物かを考えるな。選ばれたかどうかを考えるな。欠けているものなど見るな。


 剣を握れ。前へ進め。魔王を倒せ。


 それが、俺に残された勇者の形だった。




 魔王城は、城というより巨大な傷跡のようだった。


 黒い岩山の頂にあり、折れた尖塔が空へ突き刺さっている。壁面には赤い光が血管のように走り、ところどころで脈打つように明滅していた。門は開いている。俺たちを招いているのではない。待っているのだと、誰もが分かった。


 城の周囲に魔物の姿はなかった。見張りもいない。ただ、重い風だけが黒い石の上を這っている。


 エスカが青い顔で言った。


「罠です」


「だろうな」


「罠なら入らない方がよくないですか」


「入らないと終わらない」


「勇者の旅、だいたいそういうところが嫌です」


 あまりにいつも通りの言い方だったので、俺は少しだけ笑った。


「終わったら、しばらく休め」


「本当ですか」


「たぶん」


「たぶんは嫌です」


「なら、必ず休ませる」


 エスカは疑わしそうに俺を見た。


「約束ですよ」


「ああ」


 その約束が守れるのかどうかは分からなかった。けれど、口にした以上は守るつもりだった。少なくとも、ここを出るまでは。全員で生きて帰るまでは。


 魔王城の内部は、外よりも静かだった。


 足音だけがやけに大きく響き、壁に走る赤い光は、俺たちが近づくたびに少し強く脈打った。石の壁は冷たいはずなのに、近づくと内側に熱を持っているような気配がある。城そのものが生きているようだった。


 セレナは何度か立ち止まり、指先を壁に近づけて魔力の流れを調べていた。


「城そのものが、巨大な術式になっています」


「壊せるか」


「壊すだけなら。ただ、下手に壊せばこちらが巻き込まれます。魔王の力とつながっている。いえ、魔王の体の一部と言った方が近いかもしれません」


「魔王を倒せば、城も崩れるか」


「可能性は高いです」


 俺はエスカを見た。


 彼女はすでに周囲を見ていた。震えてはいるが、目だけは忙しく動いている。通路の曲がり方、柱の間隔、天井の亀裂、床のわずかな傾き。怖がっているときのエスカは、誰よりも危険に敏い。


「脱出経路は」


「覚えてます。でも崩れ方次第です。天井が落ちたら無理です。床が抜けても無理です。壁が閉じても無理です」


「つまり?」


「だいたい無理です」


「頼もしいな」


「現実的と言ってください」


 クラウスが小さく笑った。


 その笑いが、妙に懐かしく感じた。まだ終わっていないのに、もう思い出の中の音のようだった。


 玉座の間へ至る扉の前で、俺たちは立ち止まった。


 扉は黒い金属でできていて、表面には読めない文字が刻まれている。セレナは手を当て、しばらく目を閉じていた。張り詰めた沈黙の中で、彼女の指先から淡い光が広がり、すぐに消える。


「向こうにいます」


 短い言葉だった。


 クラウスが盾を構える。俺は三人を振り返った。


 ここまで来れば、もう長い言葉はいらない。けれど、確認だけはしておく必要があった。


「クラウスは正面で受けるな。魔王の力は盾で止まらない。角度をつけて流せ。セレナは結界破りを優先。攻撃はその後でいい。エスカは逃げ道の確保と、死角の確認。俺は前へ出る」


「いつも通りですね」


 エスカが言った。


「そうだ。いつも通りだ」


 俺は三人を見た。


「ここまで来られたのは、全員がいたからだ。誰か一人欠けても無理だった。だから、最後も全員で生きて帰る」


 クラウスがうなずいた。


 セレナは静かに俺を見ていた。


 エスカは泣きそうな顔で笑った。


「そういうことを言われると、逆に怖いです」


「我慢しろ」


 俺は扉へ向いた。


 押すと、重い扉は音もなく開いた。

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