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勇者の首が落ちる朝 ~魔王を倒した男は、なぜ処刑されたのか~  作者: たま8


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最終話 最初の嘘

 アルスは、すぐには死ななかった。


 崖から落ちた体は、そのまま谷底まで落ちたわけではなかった。途中に突き出した岩棚へ背中から叩きつけられ、肺の中の空気が一度に抜ける。


 視界が白く弾け、音が遠ざかった。自分が叫んだのか、叫べなかったのかも分からない。しばらくはただ、体のあちこちから別々の痛みが遅れて戻ってくるのを、他人事のように感じていた。


 右足はおかしな方へ曲がっていた。肩からは血が流れている。肋骨の奥が熱く、息を吸うたびに胸の内側を鋭いものがこするようだった。指を動かそうとしても、思った通りに動かない。落ちた剣は見当たらず、握り慣れた柄の感触だけが、まだ手の中に残っている気がした。


 崖の縁にはユリスがいた。


 朝日を背に受けているせいで、顔はよく見えない。それでも、こちらを見下ろしていることだけは分かった。助けようとしているようには見えなかった。叫ぶわけでもなく、手を伸ばすわけでもなく、ただそこに立っていた。


 その姿を見たとき、アルスは落とされたのだと改めて理解した。


 魔物に押されたのではない。足を滑らせたのでもない。崩れた石に巻き込まれたのでもない。背中に触れた指の感触は、まだ残っている。


「ユリス……」


 声は、喉に血が絡んでうまく出なかった。


 言いたいことは、いくつもあった。


 なぜ、と言いたかった。どうして、と言いたかった。助けてくれ、とも思った。そんな言葉が頭の中でばらばらに浮かび、どれも口まで届かない。痛みのせいだけではなかった。


 アルスの中には怒りもあった。悲しみもあった。けれど、それより深い場所で、もっと別の何かが静かに開いていくのを感じていた。


 それは理解だった。


 なぜ、その瞬間にだけそんなものが訪れたのか、アルスには分からない。死に近づいた意識が、普段なら届かない場所へ触れたのかもしれない。神託というものが、終わりの間際にだけ本来の意味を明かすのかもしれない。あるいは、壊れかけた心が都合よく見せた幻だったのかもしれない。


 それでも、アルスは分かった。


 自分の胸に現れた光は、勇者そのものの徴ではなかった。


 それは、勇者を照らすための光だった。


 だが、だからユリスを求めたのだ、と言い切ることはできなかった。アルスはユリスを愛していた。泥にまみれて働く姿を美しいと思い、刺すような目に惹かれ、そばに置きたいと願った。あの感情は、神託に命じられて生まれたものではない。もっと身勝手で、もっと熱く、もっと人間臭いものだった。


 そして、そのさらに奥に、与えられていた役割もあった。


 ユリスを連れて行きたい。隣に立たせたい。自分の旅の中へ入れたい。そう願った理由の奥底で、アルスは勇者を見つけていた。自分でも知らないまま、泥の中で自分の徴を見失っている者の隣に立とうとしていた。


 その意味が、遅すぎるほど遅く、ようやく形を持った。


 勇者は、崖の上にいた。


 泥にまみれ、血に汚れ、今まさに自分を突き落とした少年。


 見上げた先で、ユリスの胸元がかすかに滲んで見えた。


 服の下に、何かがあった。アルスの胸に浮かんだ白い光とは違う。眩しくもなく、清らかでもなく、むしろ泥の下に沈んだ古い痣のような、鈍い線だった。それでもアルスには分かった。あれは傷ではない。汚れでもない。


 徴だ。


 そう理解した瞬間、ユリスの奥底にあったものも、少しだけ見えた気がした。


 神は、最初からユリスに刻んでいた。


 ただ誰も、それを見なかった。


 ユリス自身でさえ。


 理解は、救いではなかった。


 むしろ、あまりにも残酷だった。


 なぜ今なのか。なぜ、すべてが壊れたあとで知らされるのか。


 もっと早く分かっていれば、何かが違ったのか。


 神託の日、あの白い光の意味を自分が正しく読めていたなら、ユリスの胸元に沈んでいた鈍い徴へ目を向けていたなら、彼の嫉妬も、怒りも、惨めさも、別のものに変えられたのか。


 支えたかった。


 導きたかった。


 お前ならできる、と言ってやりたかった。


 お前は選ばれなかった男ではないのだと、教えてやりたかった。


 そして、愛していたのだと、言いたかった。


 けれど、アルスもまた人間だった。


 落とされた怒りがあった。裏切られた悲しみがあった。自分が信じていた親友に、疲弊し、弱さをさらした、その瞬間に突き落とされたという絶望があった。さらにその底には、自分の光が自分自身のためのものではなかったことへの悔しさもあった。ユリスを照らすために選ばれていた。そう理解した瞬間、アルスの中にはたしかに救いのようなものが生まれたが、同時に、どうしようもない嫉妬も生まれた。


 善意だけでは、死ねなかった。


 きれいな祈りだけを残すには、アルスは傷つきすぎていた。


「俺がいないと……」


 血が喉に絡み、言葉は途切れた。


 崖の上で、ユリスが身じろぎしたように見えた。


「お前は……何者にも、なれない」


 本当は、こう言いたかったのかもしれない。


 俺は、お前の隣に立つために選ばれていた。俺がいれば、お前は自分を見失わずに済んだ。お前は何者にもなれない男なんかじゃない。最初から、神はお前に徴を刻んでいた。だから、俺を掴め。俺を使え。俺を連れて行け。お前は勇者として立てる。


 だが、口から出た言葉は歪んだ。


 痛みと怒りと愛情と嫉妬が混ざり、呪いに似た形になった。


「あ……」


 違う、と言おうとした。今のは違う。お前を見下したわけではない。俺がいなければ駄目だと言いたかったのではない。俺はお前のための光だったのだと、そう言いたかった。


 だが、声はもう続かなかった。


 岩棚がかすかに崩れる音がした。落下の衝撃で割れていたのだろう。アルスの体が少しずつ滑り、背中の下で小石が零れていく。


 上からはユリスが見下ろしている。彼は動かなかった。助けを呼ぶことも、身を乗り出すこともない。


 アルスは崖の上へ手を伸ばした。助かるためではなかった。最後に、ユリスに触れたかった。触れられたかった。


 最後の願いは叶わないまま、アルスの体は谷底へ落ちていった。




 森を抜けたとき、ユリスは一人だった。


 朝はすでに明けていた。木々の間を抜ける光は白く、昨夜の恐怖など最初からなかったかのように、葉の上で静かに揺れている。ユリスの服は裂け、腕と頬には血がついていた。どれが自分の血で、どれが魔物の血で、どれがアルスのものなのか、もう判別できなかった。


 足は何度ももつれた。


 それでも止まらなかった。止まれば、崖の縁へ戻ってしまう。背中に触れた指の感触を思い出してしまう。岩棚から聞こえた掠れた声を、思い出してしまう。


 俺がいないと、お前は何者にもなれない。


 その言葉だけが、何度も頭の中で繰り返された。まるで、ずっと昔からそう言われ続けていたような気がした。アルスは最後の最後で本音を吐いたのだ。友だと言い、必要だと言い、王都へ連れて行くと言いながら、結局は自分をそう見ていたのだ。アルスがいなければ何者にもなれない男。光に照らされなければ、誰にも見えない泥の中の人間。


 違う。


 ユリスは歯を食いしばった。


 俺は何者かになる。


 お前がいなくても。


 神殿へ向かう道は、途中で外れた。アルスを迎えるはずだった神殿へ、一人で行けるわけがなかった。そこで何を言うのか。勇者は死にました。自分が押しました。そう言えばすべてが終わる。


 言わずに済ませようとしても、神官たちは必ず問い詰めるだろう。同行者はどうした。勇者はどこだ。なぜお前だけが生きている。


 答えられるはずがなかった。


 ユリスは、王都へ向かった。


 王都なら、まだ形を作れる。王都には人が多い。噂も、書状も、神官も、兵士も、それぞれ別の方向を向いている。そこに紛れ込めば、何かを作れるかもしれない。何をどう作るのかまでは分からなかった。ただ、神殿へ向かうよりはましだった。


 その途中、宿場町で村の噂を聞いた。


 北西の村が魔物に襲われたらしい。神託があった村だ。王都から来ていた神官たちも巻き込まれた。生存者はいないらしい。魔王側が神託に反応したのではないか。選ばれた者を殺すために、魔物が差し向けられたのではないか。


 そんな話が、酒場の隅で囁かれていた。


 ユリスは、手にしていた匙を落とした。


 父は。


 母は。


 弟は。


 リーネは。


 アルスの家は。


 神託の日に、あの場にいた神官たちは。


 頭の中に、村の顔が次々と浮かんだ。土の匂い。家の軒。水場。神殿の石床。アルスの家の白い壁。小さなリーネが兄の後ろをついて歩く姿。そういうものが一度に押し寄せ、ユリスは息ができなくなった。


 だが、その悲しみのすぐ下から、別の考えが浮かんだ。


 これで、知っている者はいなくなった。


 その考えに気づいた瞬間、ユリスは自分が恐ろしくなった。


 村が滅んだのだ。生まれた場所が。家族が死んだかもしれない。アルスの家族も、神託の日にそこにいた者たちも、皆。戻って知らせていれば、少しは逃げられたかもしれない。そう考えるべきだった。そう嘆くべきだった。


 それなのに、心のどこかで安堵した。


 証言者が消えた。


 その空白に、入り込める。


 そう思ってしまった。


 ユリスは酒場を出て、宿場町の裏へ回った。壁に手をつき、何度も吐いた。胃の中のものがなくなっても、まだ吐いた。涙が出た。家族のためなのか、アルスのためなのか、自分のあまりの醜さのためなのか分からなかった。


 裏通りに魔術彫りを扱う男がいると聞いたのは、安宿の食堂だった。盗品や偽造品の話をしている連中の声に耳を澄ませ、ユリスは古い水路沿いにある店へ向かった。


 店というより、穴だった。低い天井。湿った壁。薄暗いランプ。棚には得体の知れない小瓶や針、黒い墨、乾いた皮の札が並んでいる。


 奥にいた男は、ユリスを見るなり歯を見せて笑った。


「何を彫る」


「勇者の証。神託紋だ」


 男の笑みが、少し深くなった。


「お客さん、冗談が下手だな」


「冗談じゃない」


「神殿に殺されるぞ」


「本物に見えればいい」


 男はしばらくユリスの顔を見ていた。血と泥を落としきれていない若者が、神託紋を彫れと言っている。普通なら追い返すか、笑い飛ばすか、神殿に売るところだろう。だが裏通りの男は、そういうまともな判断から外れた場所で生きていた。


 ユリスは持っていた金のほとんどを出した。その中には、アルスの持ち物から抜いた路銀も混じっていた。旅のために持たされていた金だ。誰の金でも同じだ。もう友人を殺している。村を見捨てている。今さら金の出どころを気にしても仕方がない。そう自分に言い訳をした。


「形は分かるのか」


 ユリスは紙に描いた。


 神託の日、アルスの胸に現れた光。線の入り方。左右の曲線。胸の中心から肩へ流れる枝のような文様。何度も頭の中でなぞった形だった。完全ではないかもしれない。だが、十分だと思った。


 焼いた針が肌へ入るたび、熱い虫が皮膚の下を這うようだった。ユリスは声を出さなかった。出せば負ける気がした。何に負けるのかは分からない。ただ、耐えることで自分が何かに近づいている気がした。


 男は途中で手を止めた。


「ここ、変な痣があるな」


 ユリスは目を開けた。


「痣?」


「ほら、線の下だ。昔の打ち身か、傷跡か。妙な形をしている」


「農作業の傷だ」


 ユリスは即答した。


 体の傷など、いちいち覚えていない。荷縄で擦れた跡。牛に蹴られた痣。材木を担いだ跡。農家の体は、いつもどこかしら汚れて傷ついている。そんなものに意味があるはずがなかった。


「このまま彫ると線が混ざる。削るぞ」


「好きにしろ」


 ユリスは短く答えた。


 焼いた刃が皮膚を薄く削った。古い痣のように沈んでいた線が、血と一緒に曖昧になっていく。


 その上に、偽の神託紋が刻まれる。ユリスは歯を食いしばった。痛みで汗が浮かぶ。胸の奥では、アルスの言葉がまだ残っていた。


 俺がいないと、お前は何者にもなれない。


 黙れ。


 ユリスは心の中で言った。


 俺は勇者になる。


 お前がいなくても、俺は何者かになる。


 彫り終わる頃には、夜が明けかけていた。男は魔術墨を塗り、簡単なまじないをかけた。紋章は淡く光った。本物ほど明るくはない。だが、薄暗い部屋で見るには十分だった。


 胸に、勇者の証があった。


 偽物だ。分かっている。


 それでも、ユリスはしばらく目を離せなかった。


 男は後ろで笑っていた。


「似合ってるじゃないか、勇者様」


 ユリスは振り返った。


「このことは誰にも言うな」


「そりゃあもちろん。俺は口が堅い」


 男は笑った。


「ただ、口の堅さにも維持費がいる」


 その言葉を聞いた瞬間、ユリスは理解した。


 これは今日だけでは終わらない。王都で勇者として認められれば、この男はその秘密を握る。首に縄をかけたまま、何度でも金をせびるだろう。酒場で喋るかもしれない。神殿へ売るかもしれない。


 答えは、恐ろしいほど早く出た。


 男はまだ笑っていた。


「まあ、最初はこれくらいで――」


 ユリスは短剣を抜いた。


 声が出る前に、喉へ刃を入れた。


 男の体が床に崩れ、血がランプの光を鈍く映した。


 また殺した。


 だが、この男は悪人だ。


 偽造を請け、脅しをかけ、裏で生きている男だ。善人ではない。放っておけば自分を売る。生きるためには仕方がなかった。仕方がない。仕方がない。仕方がない。


 何度もそう自分に言い聞かせた。


 死体を隠し、部屋を荒らし、金目のものを少し持ち出した。裏通りの水路に血を流し、表へ出たとき、朝の光が王都の屋根を照らしていた。


 偽の紋章が服の下で熱を持っている。


 ユリスは王城へ向かった。


 王城の門番は最初、ユリスを怪しんだ。無理もない。農村出身の若者が、王に会わせろと言っている。普通なら追い返される。だがユリスは胸元を開き、紋章を見せた。偽の光が、朝の下で淡く揺れた。


 人が自分を見る目が変わる瞬間を、ユリスはその時初めて知った。


 泥だらけの農家の息子を見る目が、神に選ばれた者を見る目へ変わる。疑いは畏れになり、邪魔者を追い払おうとしていた声は、道を開ける声に変わる。


 たった一つの印で。


 偽物の印で。


 ユリスは、初めて世界が自分のために動くのを見た。


 すぐに下級神官が呼ばれた。王城の門前にある小さな詰所で、簡単な検分が行われることになった。神官は若く、緊張していた。彼はユリスの紋章を見ると、息を呑んだ。


「いつ現れましたか」


「村の神殿で祈ったあと、胸が熱くなって」


「同行者は」


 一瞬だけ、ユリスの言葉が詰まりかけた。


「魔物に襲われました」


 そう言った。


「俺だけが、何とか逃げ延びました」


 嘘ではない。


 そう言い聞かせた。


 魔物に襲われた。自分だけが逃げた。それは事実だ。アルスを押したことを言っていないだけだ。事実の一部を切り取れば、嘘は真実の顔をする。ユリスはそれを、このとき初めて学んだのかもしれない。


 神官は痛ましそうな顔をした。


「それは……大変でしたね」


 ユリスはうなずいた。


 大変だった。確かに大変だった。


 胸の奥で、何かが笑った。


 神官は祈りを唱えた。偽の紋章が淡く光る。裏彫師の細工はうまく働いた。若い神官はそれを見て、疑うどころか顔を輝かせた。


「神託紋です」


 彼は言った。


 神託紋。


 偽物なのに。


 けれど、その祈りが胸に触れた一瞬、刻まれた線の奥で何かがかすかに滲んだ。


 ユリスはそれに気づかなかった。痛みだと思った。裏彫師に刻ませた傷が疼いただけだと思った。実際、胸はまだ熱を持っていた。布が触れるだけで痛んだ。


 その奥に、自分自身も知らないものが眠っているなど、思うはずがなかった。


 彼が見ていたのは、胸に刻んだ偽物だけだった。


 見破られれば終わる。それだけだった。


「お名前を確認してもよろしいですか」


 ここで、アルスと名乗る選択もあった。


 だが、ユリスはその名を口にできなかった。


 アルスになりたかったわけではない。


 いや、なりたかったのかもしれない。あいつに与えられたものが欲しかった。あいつの道が欲しかった。けれど、名前まで奪うことには、どこかで抵抗があった。最後の線だと思った。そこを越えなければ、まだ自分は自分でいられる気がした。


 馬鹿げている。すでにアルスを殺しているのに。


「ユリス」


 彼は答えた。


「ユリスです」


 神官は記録係にうなずいた。


 少しして、別の神官が詰所へ入ってきた。年若い神官よりは位が上なのだろう。白い衣の襟元に銀糸の刺繍があり、目元には疲れがあった。彼はユリスの胸元を見た。そこに刻まれた紋章を見た。


 偽の光は、まだ薄く揺れている。


 その下で、別のものが沈黙していた。


 神官は短く祈りを唱えた。


 そして、顔を上げた。


「あなたが勇者様なのですね」


 ユリスは短く答えた。


 ――それが、ユリスの最初の嘘だった。


 その嘘が真実に触れていたことなど、ユリス自身は知る由もない。


 こうして、七年にわたる勇者ユリスの物語が始まった。


 偽りの紋章を胸に刻み、本当の徴を傷の下に沈めたまま。

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