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勇者の首が落ちる朝 ~魔王を倒した男は、なぜ処刑されたのか~  作者: たま8


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一章 第4話 勇者の背中

 出立の朝、村はどこか浮き立っていた。


 まだ日が高いわけではない。けれど道の両側に集まった人々の顔には、祭りの日に似た高揚があった。神官の祈りの声が白い息のように流れ、村長は何度も胸を張り直し、子どもたちは大人に叱られながらも、勇者を見るために背伸びをしている。


 母は涙を浮かべていた。父はそれを堪えるように、口元を固く結んでいた。妹のリーネだけは、兄がどこか遠くへ行ってしまうことをまだ受け入れられず、アルスの腰にしがみついたまま離れようとしなかった。


「行かないで」


 小さな指が服を掴む。


 アルスはしゃがみ込み、リーネの頭を撫でた。


「すぐ帰ってくるよ」


 そう言うと、リーネは泣き止まないまま、それでも兄の言葉を信じようとするように小さくうなずいた。


 アルスは笑った。笑いながら、自分が本当に帰れるのかどうかは分からないと思っていた。


 勇者の道が、そんなに簡単に村へ戻る道であるはずがない。けれど、そう言わなければリーネは離れなかった。


 立ち上がったアルスは、少し離れた場所に立つユリスを見た。


「行こう」


 ユリスは短くうなずいた。


 同行するのは、ユリスの他に、アルスの家の使用人が一人、それから村の若者が二人だった。護衛というより、荷運びと道案内を兼ねた付き添いである。近隣の神殿までは一日半。そこで王都から来る正式な護衛と合流する予定だった。途中で森を抜け、古い採石場の跡を過ぎることになる。魔物が出ることもあるが、まだ王国の内側だ。大きな危険はないはずだった。


 そのはずだった。


 最初の異変は、森に入ってしばらくしてから訪れた。


 鳥の声が消えた。


 アルスが足を止めると、ユリスも同じように周囲を見ていた。彼も気づいている。そう思うと、アルスは少しだけ心強かった。


「静かだな」


 アルスが言うと、使用人の男が不安そうに辺りを見回した。


「少し急ぎましょう」


 アルスはうなずき、一行は足を速めた。だが、ほどなくして道の脇に鹿の死骸が見つかった。食われてはいない。ただ腹が裂け、黒い染みが周囲の草を焦がしている。村の若者の一人がこらえきれずに吐き、もう一人が顔色を失って後ずさった。


「魔物か」


 ユリスが言った。


「分からない。でも、普通じゃない」


 アルスの声は硬かった。


 怖かった。


 けれど、怖いと言うことはできなかった。少なくとも、今ここでは。使用人たちも、村の若者たちも、そしてユリスも、自分を見ている。勇者として選ばれた者を見る目で。なら、前に立たなければならない。


 森の奥から、低い音がした。


 獣の唸り声に似ているが、もっと濁っていた。使用人が荷物を落とし、若者たちが後ずさる。アルスは剣を抜いた。


「下がって」


 そう言い終えるより早く、森の暗がりから黒い影が飛び出した。


 最初に何が起きたのか、アルスには一瞬分からなかった。


 横で荷物が落ちる音がして、振り向いたときには使用人の男が喉を押さえて倒れていた。声は出ていない。出せなかったのだ。喉元に食らいついた狼に似た魔物が、男の体を地面へ引き倒す。散らばった薬草の上に血が流れ、村の若者の一人が遅れて悲鳴を上げた。


 その悲鳴に、別の影が反応した。


 剣を抜こうとした若者の手が震え、鞘に引っかかる。ほんの一拍だった。その一拍で腹を裂かれた。もう一人は森へ逃げ込もうとしたが、木々の奥から伸びた影に足を取られ、草の中へ消えた。短い悲鳴が、すぐに潰れる。


 人が死ぬのは、思っていたよりずっと早かった。


 アルスは息を呑んだ。


 魔物は一体ではなかった。三体。いや、森の奥にはさらに赤い目が揺れている。普通の狼より大きく、皮膚の下に黒い筋が走り、口からは腐ったような息が漏れていた。


 ユリスは短剣を抜いていた。手が震えている。


 アルスはそれを見た。


 ユリスも怖い。


 当たり前だった。彼は農村の少年だ。少し頭がよく、体力があり、短剣を使える程度で、魔物との戦いなど知らない。怖くて当然だ。


 けれど、アルスはそのユリスを死なせたくなかった。


「ユリス!」


 アルスは叫んだ。


「下がるな! 右から来る!」


 ユリスは反射的に横へ飛んだ。魔物の牙が、さっきまで彼の首があった場所を通り過ぎる。ユリスは短剣を振ったが、刃は魔物の鼻先をかすめただけだった。それでも魔物は一瞬ひるみ、そこへアルスが割って入った。


 剣が魔物の首に食い込む。血ではなく、黒い煤のようなものが噴き出した。魔物が暴れ、アルスの肩に爪が入る。焼けるような痛みが走ったが、アルスは歯を食いしばって剣を押し込んだ。


 一体目が倒れる。


 そこから先は、ひどく長かった。


 逃げ、戦い、また逃げた。森の中を転がるように進み、古い採石場の跡まで追い込まれた。魔物は執拗だった。アルスは何度もユリスの前に出た。ユリスも何度か短剣を突き刺した。


 足を滑らせたユリスの襟を掴み、魔物の牙から引き戻したこともある。逆に、アルスの死角へ回り込んだ魔物の脚を、ユリスが短剣で払ったこともあった。二人の息が合っていたわけではない。ただ、生き残るために、互いの動きへ必死でしがみついていた。


 最後の一体を斬ったのは、夜明け前だった。


 アルスの剣が魔物の喉を貫くと、魔物は黒い息を吐いて地面に崩れた。アルスも膝をつき、ユリスはその隣に倒れ込んだ。しばらく、二人とも声を出せなかった。森には荒い息遣いだけが残り、その奥で、死んだ魔物の体から黒い煙のようなものが細く立ちのぼっていた。


 生きているのは、アルスとユリスだけだった。


 来た道の方には、落とした荷や裂けた布が点々と残っていた。使用人も、村の若者たちも、そこから先にはいない。血の跡だけが森の奥へ途切れ途切れに続き、それを追う力は、もう二人には残っていなかった。


 夜が薄れ、森の奥に残っていた黒さが少しずつほどけていった。古い採石場の崖の向こうから、朝日が顔を出そうとしている。木々の先がまず淡く染まり、次に崩れた岩肌が明るくなり、足元の血だまりに鈍い光が差した。


 世界は、人が死んでも朝を迎える。


 そのことが、アルスにはひどく残酷に思えた。


 それでもユリスは生きていた。肩で息をし、短剣を握ったまま、崖の手前に立っている。泥と血に汚れた顔は青ざめていたが、確かに生きている。その事実だけで、アルスの胸に残っていた重いものが少しだけ緩んだ。


「神殿へ行こう」


 声は掠れていた。


「このことを知らせないと」


 ユリスは答えなかった。


 アルスは崖の縁へ歩き、朝日を見た。光が横顔に触れる。肩の傷は熱を持ち、握った剣は重く、膝は今にも崩れそうだった。それでも立っていなければならないと思った。自分は選ばれたのだ。怖くても、疲れていても、生き残った者として、前を見なければならない。


 背後にユリスの気配があった。


「ユリス」


 振り返らないまま、アルスは言った。


「生きててよかった」


 本心だった。


 ユリスが生きている。


 それだけでよかった。


 その言葉を聞いたユリスは、しばらく何も言えなかった。


 朝日を受けたアルスは、血と泥に汚れているはずなのに、この上なく神聖なものに見えた。


 肩からはまだ血が落ち、剣を握る手にも力は残っていない。それでも、彼は崖の縁に立っている。皆が死んだ森の端で、魔物の前に立ち、最後まで剣を振り、そして今なおこちらを気遣う者として。


 その姿は、あまりにも勇者らしかった。


 ユリスは、それを見てしまった。


 神託の日と同じだった。人々が膝をつき、白い光がアルスの胸に宿ったあの瞬間と同じように、世界はまた当然のようにアルスを選んでいる。死体の転がる森の中でさえ、朝日は彼を照らす。自分はその後ろで、息を乱し、短剣を握ったまま立っているだけだった。


 生きててよかった。


 それは優しさだった。アルスにとっては、間違いなく。


 けれどユリスには、そう聞こえなかった。お前は俺がいなければ死んでいた。俺が前に立ったから、お前はまだ息をしている。そう言われたような気がした。


 違う。


 アルスはそんなことを言っていない。


 分かっている。分かっているのに、胸の奥で黒いものが膨らんでいく。神託の日から沈み続けていたものが、朝日に照らされた背中を見た瞬間、ようやく形を得た。


 なぜ、お前なのか。


 なぜ、いつもお前なのか。


 家も、金も、剣の師も、白いパンも、神託も、村人の祈りも、勇者の道も、全部お前のところへ落ちる。


 そのうえで、お前は俺まで救うのか。


 俺に、またお前のおかげで生きたと思わせるのか。


 アルスの背中は、崖の縁にあった。


 ほんの少し。


 ほんの少し押せば、それだけで落ちる。そう分かった。あまりにも簡単だった。魔物を斬るよりも、剣を振るよりも、息を吸うよりも簡単に見えた。


 殺したい、と思ったわけではなかった。


 ただ、神に選ばれ、朝日に照らされ、傷ついてもなお勇者に見えるこの男が、ここから消えれば何が変わるのか。その背中が自分の前からなくなれば、胸の奥で腐り続けているものは少しでも軽くなるのか。


 考えはそこで止まった。


 止まったはずなのに、指先だけが先に動いていた。


 力を込めたというほどのものではない。ただ、断崖の縁に立つ人間を落とすには、それで十分だった。


 落ちていく視界の中で、ユリスの顔だけが奇妙にはっきり見えた。


 そこにあったのは、怒りではなかった。勝ち誇った顔でも、長く溜め込んだ憎しみをようやく吐き出した顔でもなかった。むしろ、指先が何をしたのかを遅れて理解した人間の顔だった。


 ユリスが背中を押し、アルスが落ちる。


 その単純すぎる事実に、ユリス自身が追いつけていないように見えた。


 アルスは手を伸ばそうとした。


 助けを求めるためだったのか、ユリスを掴むためだったのか、自分でも分からなかった。ただ、体が落ちていく前に、もう一度だけあの少年へ手を伸ばそうとした。


 だが、届かなかった。


 朝日を背にした崖の縁が遠ざかり、ユリスの顔も光の中へ滲んでいく。


 朝日が、やけに眩しかった。

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