一章 第3話 二つの感情
神託のあと、村の空気は変わった。
いや、村そのものは変わっていない。畑は相変わらず畑で、朝になれば鶏が鳴き、牛は餌を欲しがり、川辺の水は冷たかった。
変わったのは、人々の目だった。
アルスを見る目。彼はもう、ただの村の若者ではなかった。神に選ばれた者。勇者。村の誇り。そう呼ばれるたび、周囲の人間は少しずつ距離を取った。昨日まで気軽に声をかけていた者が、急に頭を下げる。年上の男たちが道を空ける。女たちが水場で噂をする。子どもたちが遠くから見つめる。
アルスは、その距離を少しだけ怖いと思った。
勇者と呼ばれることは、思っていたほど心地よいものではなかった。いや、心地よさもあった。村人たちの視線が自分へ集まる。父が誇らしげに胸を張る。神官たちが丁重に扱う。自分が何か特別なものになったような感覚は、確かにあった。
けれど同時に、逃げ場がなくなっていく気もした。
正しい息子。正しい兄。正しい村の若者。そこに、正しい勇者という役割が加わった。アルスはますます、光の中へ押し込まれていった。
その光の外に、ユリスがいた。
ユリスの暮らしは、以前と変わらないように見えた。朝になれば畑へ出る。荷を運ぶ。水を汲む。家畜の世話をする。神託の日のあとも、彼の手の傷は減らなかった。爪の間の土も消えなかった。
だが、アルスへの態度だけは少し変わっていた。
アルスを見ても、膝をつくことはない。勇者様と呼ぶこともない。その意味では、ユリスは以前のユリスのままだった。だが、少し距離を置き、返事は前より短くなった。
アルスは、それが寂しかった。
ユリスにだけは、今まで通りでいてほしかった。
だが同時に、ユリスを今までの場所に置いておきたくなかった。
その感情は矛盾していた。ユリスには変わらずいてほしい。だが、ユリスを村から連れ出したい。自分を特別なものとして見てほしくない。だが、自分が勇者になったことでユリスをそばに置けるなら、その立場を使いたい。
アルスは、その矛盾の理由を探そうとはしなかった。
理由を見つけてしまえば、自分の中にあるものが友情だけではないと認めなければならなくなる。
「ユリス、本当に一緒に来てくれないか」
村の外れ、川沿いの道で、アルスはそう言った。
ユリスは肩に薪を背負っていた。アルスは旅装の採寸を終えた帰りで、きれいな上着を着ていた。並んで歩くと、その差は嫌でも目立った。片方は勇者として王都へ向かう準備をしている。もう片方は、今日も家のために薪を運んでいる。
アルスは、その差を埋めたいと思っていた。
ユリスは、その差を見せつけられていると思っていた。
「俺が行って何をする」
ユリスは言った。
「何でも。俺は剣は習ったけど、王都のことも旅のこともよく分からない。ユリスは頭が回るし、俺が見落とすことに気づくだろ」
「農民の知恵が王都で役に立つか」
「役に立つ。俺がそう思う」
ユリスの顔がわずかに歪んだことにアルスは気づいた。だがその理由までは分からなかった。
自分は褒めているつもりだった。必要だと言っているつもりだった。ユリスの価値を、自分だけは分かっているつもりだった。
だが、その言葉そのものが、ユリスにとって耐えがたい屈辱であるとは思わなかった。
お前には価値がある。
それはユリスに向けた、誠実な言葉だった。
だがユリスにとっては、上から差し出される手のように見えた。神に選ばれた者が、選ばれなかった者へ向ける、施しのように聞こえた。
「俺は家の仕事がある」
ユリスは言った。
「それは、俺からおじさんに話してもいい」
「やめろ!」
強い声にアルスは驚いた。
ユリスは薪の束を背負い直した。
「俺の家のことに、お前が口を出すな」
「ごめん」
アルスはすぐに謝った。踏み込みすぎたと思ったからだ。
けれど、ユリスはその謝罪さえ嫌そうに受け取った。謝ってほしいわけではない。近づいてほしいわけでもない。かといって、ただ拒まれているだけだともアルスには思えなかった。
ユリスの中には、アルスには読めない感情が複雑に絡んでいた。
そしてアルス自身の中にも、同じくらい複雑なものがあった。
「ただ、俺は」
「何だ」
「一人で行くのが怖いんだ」
アルスのその言葉で、ユリスは足を止めた。
アルスは少し笑って続けた。
「勇者なんて言われても、俺はまだ何もしていない。王都へ行って、魔王と戦えと言われるかもしれない。魔王どころか、本物の戦場だって知らない。だから、知っている顔が近くにいてくれたらと思った」
それは本音だった。
ただし、全部ではなかった。
怖いから、ユリスに来てほしい。
それは本当だ。
だが、怖くなくても、ユリスには来てほしかった。王都の道も、魔王の影も、神殿の命令も関係なく、アルスはユリスを自分の隣に置きたかった。あの泥の中から連れ出し、自分の旅へ組み込みたかった。
救いという形をした、所有だった。
アルスはそのことを、自分でも見ないようにしていた。
「勇者が怖がるなよ」
ユリスは言うと、アルスは苦笑した。
「怖いものは怖い」
「なら、断ればいい」
「断れないだろ」
「神に選ばれたからか」
「それもある。でも、たぶん誰かが行かなきゃいけない。だったら、選ばれた俺が行くべきだ」
ユリスは黙った。その沈黙の奥で何が動いたのか、アルスには分からなかった。
アルスは自分の言葉を正しいと思っていた。怖くても、選ばれたなら行く。誰かがやらなければならないなら、自分がやる。そこには勇者らしい決意もあった。
けれど、ユリスにはその言葉が眩しすぎた。それは選ばれた者の言葉だったからだ。選ばれなかった者に向けられた、あまりにも正しい言葉だったからだ。
その正しさを、認めざるを得なかった。
怖いと言いながら、それでも自分が行くべきだと言える。選ばれたことを、誇りではなく責任として受け取れる。そういうところが、アルスだった。
だが同時に、ユリスは思った。
なぜ怖がる。なぜ、そんな顔をする。
泥の中から這い上がる機会を与えられたのなら、自分ならもっと前を向ける。怖いなどと言わない。神に選ばれ、村に祝福され、王都への道まで開かれたのなら、そのすべてを掴んで離さない。
お前は、それだけのものを与えられてなお、怖いと言うのか。
ユリスの中にある一つの感情の輪郭が、また少し濃くなっていた。
数日後、アルスの出立の日が決まった。
王都から迎えの一団が来る前に、近隣の神殿まで移動し、そこで正式な護衛と合流する。村からそこまでは森と古い街道を抜ける。危険がないわけではないが、まだ王国の内側だ。
出立そのものについて、アルスはもう迷っていなかった。
怖くないわけではない。魔王など見たこともない。本物の戦場も知らない。けれど、神託を受け、村に見送られ、王都へ向かうことになった以上、自分が行くしかない。そういうものだと思っていた。勇者として選ばれたなら、勇者として進む。それはもう、アルスの中で決まっていた。
ただ、ユリスを村に置いていくことだけは、やはりどうしても耐えられなかった。
自分が王都へ行き、勇者としての務めを背負わされ、魔王だの神殿だの王国だのに囲まれているあいだに、ユリスはこの村で生きていく。畑を耕し、荷を運び、いつか名も知らない女と結婚し、子を作り、家を持ち、村の中で年を取っていく。
それは、まっとうな人生だった。誰にも責められるようなものではない。
ユリスの人生が、自分のいない場所で続いていく。自分の知らない誰かが、ユリスの隣に立つ。自分が勇者という役割に押し込められているあいだに、ユリスだけが自分とは関係のない日々を積み重ねていく。
その外側に、自分がいる。
そのことが、どうしようもなく辛かった。
自分はユリスを助けたいのだと、ユリスを泥の中から連れ出したいのだと、そう思った。
だが、その言葉の下には別のものがあった。ユリスを置いていきたくない。自分の知らない人生を歩かせたくない。自分の届かない場所で、誰かのものになってほしくない。
その願いは、勇者のものではなかった。親友のものですら、なかったのかもしれない。
そして、その願いは思わぬ形で叶うことになった。
アルスの父が、家の者を何人か同行させると言った。勇者の旅立ちに、村から付き添いを出すのは当然だと村長も言った。荷運びと道案内を兼ねる者が必要で、年も近く、アルスと多少なりとも親しいユリスの名が、そこで自然に挙がったのだ。
ユリスの父は、それを断らなかった。勇者の旅の始まりに付き添うのは名誉だと村長は言い、家の仕事はどうにかすると父も言った。そうなれば、ユリスにはもう断る理由がなかった。
アルスは、それを喜んだ。
ユリスは嫌がっているかもしれないとは思った。いや、分かっていた。
分かっていながら、それでも嬉しかった。
ユリスが自分の旅に入ってくる。村の道を離れ、自分と同じ方向へ歩く。たとえ神殿までの短い道のりだとしても、その事実がアルスには嬉しかった。
自分は最低なのかもしれない。
そう思った。
ユリスの気持ちを分かっていながら、それでもそばに来ることを喜んでいる。彼が断れなくなった状況を、心のどこかでありがたいと思っている。親友を助けたいという顔をしながら、本当は自分の願いが叶ったことに安堵している。
それでも、手放す気にはなれなかった。
出立の前夜、アルスはユリスを神殿の裏へ呼んだ。
月が出ていた。村は静かで、遠くから宴の残りの声が聞こえた。アルスは胸元に手を当てていた。服の下には、あの紋章がある。神託の日から、そこはずっと熱を帯びているような気がした。
「ユリス」
「何だ」
「来てくれて、ありがとう」
「まだ神殿までだ」
「それでも助かる」
アルスは笑っていたが、ユリスは笑わなかった。
「王都へ行ったらさ」
アルスは続けた。
「ちゃんと頼んでみる。ユリスも勉強できるように。剣も学べるように。お前、本当は村に収まる人間じゃないと思うんだ」
そこでユリスの顔が変わった。
アルスはそれを見た。だが、その意味を取り違えた。
嬉しいのに、素直になれないのだと思った。照れくさいのだと思った。自分の価値を認められることに慣れていないのだと思った。
実際は違う。
ユリスは、救われることを屈辱だと思っていた。
特に、アルスに救われることを。
「余計なことをするな」
ユリスがそう言うとアルスは少し困った顔をした。
「余計かな」
「余計だ」
「ごめん」
ユリスは拳を握っていた。
アルスは、そこまで見ていたのに、まだ分からなかった。
「でも、俺は本気だよ。一緒に来てほしい。俺はお前が必要だと思ってる」
必要。
その言葉は、アルスにとっては誠実な告白に近かった。
もちろん、口にした意味は親友へのものだった。少なくとも、そういう形に整えた。けれど、その奥には別の熱があった。お前が必要だ。隣にいてほしい。自分の旅に、自分の未来に、お前がいないことを考えたくない。
ユリスは何も答えなかった。答えられなかったのかもしれない。
その言葉は、ユリスにとって救いにも聞こえた。誰かに必要だと言われることを、彼はずっと望んでいたのかもしれない。家でも、村でも、ただ労働力として数えられてきた彼にとって、必要だと言われることは本来なら喜びであったはずだった。
だが、それを言ったのがアルスだった。
神に選ばれた男。
すべてを持ち、最後の希望まで奪った男。
そのアルスに必要だと言われることは、ユリスには救いであると同時に屈辱でもあった。
アルスは少し寂しそうに笑った。
「まあ、明日また話そう」
明日。
それはアルスにとって、まだ続くはずの日だった。
ユリスにとっても、その時点ではそうだったのかもしれない。
だが二人の間には、もう言葉にならないものが積もっていた。
アルスはユリスを連れて行きたかった。
ユリスはアルスに連れて行かれたくなかった。
アルスはユリスを救いたかった。
ユリスはアルスに救われたくなかった。
どちらも相手を見ていた。
けれど、どちらも相手を正しくは見ていなかった。




