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勇者の首が落ちる朝 ~魔王を倒した男は、なぜ処刑されたのか~  作者: たま8


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一章 第2話 神託の光

 男が男を想うことは、罪と呼ばれた。


 アルスがそれを知ったのは、神殿で教義を学ぶようになってからだった。神官は穏やかな声で、世界の秩序について語った。男と女。家と血筋。正しい結びつき。子を残すこと。神の祝福。そこから外れる感情は、迷いであり、誘惑であり、正されるべきものだと教えた。


 アルスは、その言葉を聞きながら、ユリスのことを考えていた。


 考えてはいけないと思った。


 けれど、考えた。


 最初は、ただ気になるだけだった。泥だらけの手。荷を運ぶ背中。こちらを見るときの、どこか刺すような目。自分の差し出した白いパンを、食べる口元。そういうものが、いつの間にか頭から離れなくなっていた。


 やがてそれは、昼のあいだだけでは済まなくなった。


 夜、灯りを消した部屋で、アルスは何度もユリスの姿を思い出した。思い出してはいけないと思いながら、思い出した。祈りの言葉を唱えても消えなかった。父から与えられた本を開いても、剣の稽古で体を疲れさせても、眠る前になると必ずユリスの姿が戻ってきた。


 アルスは、彼のことを思いながら自分を慰めるようになっていた。


 そのあとには、いつもひどい自己嫌悪が来た。


 神官の声が耳の奥で蘇る。男が男を想うことは罪。正されるべき迷い。神の秩序に背く誘惑。アルスは汗の冷えた体で寝台に横たわり、自分は正しい人間ではないのだと思った。


 それでも、翌日ユリスを見ると、同じことを繰り返した。


 罪だと呼ばれたところで、胸に生まれたものが消えるわけではなかった。むしろ罪と呼ばれるほど、その感情は隠す場所を求め、体の奥へ沈み、夜ごとに形を持った。


 アルスは誰にも言えなかった。


 父にも、母にも、妹のリーネにも、神官にも、もちろんユリスにも。


 だから彼は、その感情に別の名前を与えた。


 友情。


 親友。


 そう呼べば、まだ許される気がした。ユリスを目で追っても、ユリスに声をかけても、ユリスをどこかへ連れて行きたいと思っても、親友だからで済む。アルスはその言葉の内側に、自分の欲を押し込めた。


 それでも、時々思った。


 なぜ、人が人を想うことが罪でなければならないのか。


 なぜ、ユリスを見て胸が苦しくなることを、神は咎めるのか。


 その問いは、教義の中では許されなかった。だからアルスは黙った。黙ったまま、正しい息子の顔をし、正しい村の若者の顔をし、神官の教えにうなずいた。


 その頃、ユリスもまた、アルスを見ていた。


 ユリスにとって、アルスもまた眩しい存在だった。


 ただし、それはアルスがユリスに感じていた眩しさとは違っていた。


 裕福な家に生まれ、剣を学ぶ時間があり、神官から礼法を教わり、書物を読む余裕がある。白いパンの出る食卓があり、将来のために何かを積み上げることを許されている。泥と汗の中で一日を終えるユリスから見れば、アルスは最初から光の中に立っているように見えた。


 嫌いにはなれなかった。


 アルスは善人だった。そこが一番厄介だった。


 泥だらけのユリスが家の前を通れば、アルスは平気で手を振った。剣の稽古を終えたあと、畑の端で休んでいるユリスを見つければ、白いパンと水を持ってきた。


 だが、それだけでアルスをまっすぐ好きになれるほど、ユリスの中は単純ではなかった。


 ある時、ユリスが少し難しい計算を暗算で済ませると、アルスは本気で感心した顔をした。


「ユリスは本当に頭がいいな」


 そう言われるたび、ユリスは笑ってごまかした。


 頭がいいから何だ、と思っていた。


 頭がよくても、畑は勝手に耕されない。金は湧かない。王都の学校へ行けるわけでもない。剣を習う時間もない。ユリスがそうして考えを巡らせている間にも、アルスは師から剣を学び、神官から歴史を聞き、父から王都の商人との付き合い方を教えられていた。


 生まれが違う。


 ただ、それだけだった。たったそれだけで、人生の形は違った。


 村の子どもたちは、よくアルスの家の裏手で遊んだ。広い庭があり、古い木の下には小さな的が吊るされていた。アルスは木剣を持ち、楽しそうに振っていた。ユリスも何度か混ざった。だが、いつも途中で呼び戻された。薪を割れ。水を汲め。牛を見ろ。弟の面倒を見ろ。そういう用事が、ユリスを現実へ引き戻した。


「今度、またやろう」


 アルスは、そんなユリスにそう言った。


 また。


 アルスにとっては、またがあった。


 ユリスには、またはなかった。


 その日できなかったことは、そのまま消えていく。次の日も仕事がある。さらに次の日も。その積み重ねの先に、何か大きなものが待っている気はしなかった。


 父は、ユリスによく言い聞かせていた。


 アルス様がよくしてくださるのは、俺たちを哀れに思っているからだ。持っている人間は、ときどき気まぐれに持たない人間へ手を伸ばす。それで自分が良い人間だと思えるからだ。ありがたく受け取れ。だが、勘違いはするな。


 その言葉は、ユリスの中に染みついていた。


 アルスが水を差し出すたび、パンを分けるたび、優しい言葉をかけるたび、ユリスは嬉しさより先に身構えた。これは本当に善意なのか。それとも、恵まれた者の余裕なのか。金持ちの子どもが、貧しい家の子へ手を伸ばして、自分の心地よさを確かめているだけではないのか。


 もちろん、アルスはそんなことを考えてはいなかった。


 ユリスも、それを分かっていた。分かっていたから、余計に苦しかった。


 嫌な奴ならよかった。持っていることを鼻にかけ、持たない者を笑うような男なら、ただ憎めばよかった。


 アルスは、恵まれていて、なお善良だった。自分が欲しくても手に入らないものをいくつも持ちながら、それを当然のように分けようとする。


 だが、強すぎる光は、近くにいる者の目を焼く。


 ユリスは何度も考えた。もし自分がアルスの家に生まれていたら。剣を学ぶ時間があり、本を読む余裕があり、明日の食事ではなく未来のことを考えられる場所に生まれていたら。


 俺なら、もっと上手くやれたのではないか。


 その考えは口に出せないほど惨めだったが、そう思わずにはいられないだけの違いが、確かに二人の間にはあった。


 憧れは羨望へ、羨望はさらに醜い感情へと、少しずつ姿を変えつつあった。


 その時のユリスは、まだそのことに気づいていなかった。


 そんな年の春、村に王都から神官が来た。


 魔王の影が濃くなっている、という噂はすでに広まっていた。北の砦が襲われたとか、東の街道で魔物が増えたとか、商人たちが不安げに話していた。神は勇者を選ぶ。もし魔王が本当に現れるなら、必ず勇者が立つ。神官はそう言った。


 村の若者たちが神殿に集められた。


 小さな村の神殿は、普段より人の息で満ちていた。粗末な石造りの部屋に、若者たちが並ぶ。窓から差し込む光には埃が舞い、神官の白い衣だけが場違いなほど清潔に見えた。村人たちは外で息を潜めている。誰もが神託など本当にあるのかと思いながら、同時に、自分たちの村から勇者が出るかもしれないという夢を捨てきれずにいた。


 アルスは神殿の中で、ユリスの姿を探した。


 ユリスは後ろの方に立っていた。


 服は洗ってあったが、袖口の擦り切れまでは隠せない。爪の間には、落としきれなかった土が残っている。手の甲には古い傷がいくつもあり、腕には荷縄の痕が薄く残っていた。


 アルスは、その手を美しいと思った。


 ユリスにとっては、それは美しさではなかった。どれだけ洗っても落ちきらない土と、働くたびに増えていく傷は、自分がどこに属しているのかを示す印のようなものだった。


 神託など、自分には関係ない。とでも言わんばかりの表情でユリスは、ただそこにいた。


 実際には違った。


 この日を、どこかで待っていた。口に出せば笑われるような望みだと分かっていた。それでも、もし自分が選ばれれば、ここから抜け出せるのではないかと思っていた。畑から。家から。朝から晩まで働き、明日も同じ一日が続く場所から。この泥のような人生から。


 何も持っていないわけではない、という思いもあった。


 読み書きは早く覚えた。計算もできた。大人の話も、他の子どもより理解できた。体も弱くはない。剣を習ったことはなくても、働く中で身についた力はある。同じ年頃の子どもたちと比べて、自分が劣っているとは思っていなかった。


 ただ、試される場所がなかった。


 学ぶ時間も、剣を握る機会も、誰かに見出される場もなかった。だからこそ、神だけは違うのではないかと思ってしまった。人間の家柄や金や服ではなく、自分の中にある何かを見てくれるのではないか。


 それは、ユリスにとって最後の望みだった。


 ユリスは腕を組み、何でもない顔をした。期待していると思われたくなかった。選ばれなかった時に、惨めになるのが分かっていたからだ。


 けれど、心の奥では、待っていた。


 自分の名が呼ばれることを。自分の胸に、光が生まれることを。


 アルスは、その横顔を見ていた。


 ユリスが何を思っているのか、完全には分からなかった。ただ、何かを隠していることだけは分かった。いつもそうだった。ユリスは欲しいものほど欲しくない顔をする。傷つくことほど、何でもないように扱う。


 アルスは、できることなら、その強がりごとユリスを抱きしめたいと思った。


 神官が祈りを唱えると、神殿の中は静かになった。並んだ若者たちは緊張した顔で立っている。


 アルスは膝をついて胸の前で手を組み、神の前に立つ者として、祈りの姿勢を取った。そうしながら、心のどこかでユリスのことを考えていた。


 もしユリスが選ばれたら。


 それはきっと正しいことだ。ユリスは頭がいい。強い。泥の中でも折れずに立っている。アルスにはないものを持っている。彼が選ばれるなら、アルスは心から喜べるはずだった。


 けれど、怖かった。


 そうなったら、ユリスは遠くへ行ってしまうかもしれない。自分の手の届かない場所へ。自分の助けなど必要としない場所へ。アルスの知らない誰かと並び、アルスの知らない世界へ進んでいくかもしれない。


 それは嫌だ。


 アルスは、自分の醜さに気づいていた。


 祈りは続いた。そして、鐘が鳴った。誰も触れていない鐘が、ひとりでに鳴った。


 神官が息を呑む。


 光が生まれた。アルスの胸だった。


 白い光が服の上から滲み、やがて文様の形を取った。胸の中央から肩へ伸びる、枝のような、翼のような、剣のような紋章。村人たちが外でざわめく気配がした。神官たちは、最初の一瞬だけ顔を見合わせた。


「伝承に聞く形とは、少し……」


 誰かが小さく呟いたが、その先は聞こえなかった。別の神官が祈りを重ねると、白い光がさらに強くなったからだ。


 光はあまりにも清かった。


 小さな村の粗末な神殿を満たすには、強すぎるほど神々しかった。誰も、その光を疑わなかった。神に触れたものだと、誰もが思った。思わずにはいられなかった。


 アルス自身も、そう思った。自分が選ばれたのだと。


 しかし、最初に胸に浮かんだのは、使命ではなかった。恐怖でもなかった。


 ユリスを連れて行ける。ユリスを救うことができる。


 その思いが、白い光の内側で、ひどく不似合いに熱を持った。


 勇者になれば、ユリスを隣に置ける。王都へ行く。魔王を倒す。世界を救う。そうすれば、ユリスを村から連れ出せる。あの畑から。あの家から。朝から晩まで働き、頭がよくてもどこにも行けず、自分の価値を信じられないあの場所から。


 救う、という言葉を使えば聞こえはよかった。


 本当は、アルスはユリスを自分の旅の中へ閉じ込めたかった。自分の隣に置きたかった。


 自分だけが、その価値を知っているのだと思いたかった。


 それは愛情だった。


 そして、所有欲でもあった。


 さらに、アルスは思った。


 もし世界を救えたなら。


 王が頭を下げ、神殿が祈りを捧げ、民が自分を称えるなら。


 そのとき、自分は教義にも手を伸ばせるのではないか。


 男が男を想うことは罪だという、あの祈りの言葉に。


 人が人を想うことの何が罪なのかと、問い返せるのではないか。


 神託の光を受けた瞬間、アルスはそこまで考えてしまった。


 一方で、ユリスはアルスの胸に生まれた光を見ながら、こう思っていた。


 ああ、やはりそうなのだ。持っている者のところへ、さらに光は落ちる。何も持たない者のところには、期待した自分の惨めさだけが残る。


 神だけは違うかもしれない。


 そう思った自分が、ひどく滑稽に思えた。


 神までお前を選ぶのか。


 アルスよ、最後の希望まで、俺から奪うのか。


 ユリスは拳を握った。爪の間に残った土が、皮膚へ食い込む。悔しいと思った。そして、恥ずかしかった。一瞬でも期待した自分が。神だけは自分を見つけてくれるかもしれないなどと考えた自分が。あまりに惨めで、笑いそうになった。


 そのとき、ユリスの胸元に微かな熱が走った。服の下で、古い痣のようなものが疼いた。細い線が、皮膚の奥に浮かんでいた。


 ユリスは一瞬だけ胸元に手をやり、すぐに離した。


 ただの痣だ。いつできたのかも覚えていない、農作業の傷だ。


 神はアルスを選んだ。自分ではなく。


 その事実だけで、ユリスの胸の奥はもう黒く塗りつぶされていた。


 村人たちが膝をつく。神官が震える声で叫んだ。


「神託だ」


 アルスは勇者に選ばれた。


 そう、誰もが思った。神官も、村人も、アルス自身も、そしてユリスも。


 ユリスは笑っていた。拍手していた。誰より遅れないように、村人たちに混じって。その目だけは笑っていなかった。


「ユリス」


 神官たちと村人に囲まれていたアルスが、ふいにユリスを見つけた。


 白い光を胸に宿したまま、人垣を抜けてこちらへ歩いてくる。その顔は笑っていた。けれど、ただ誇らしげな笑みではなかった。驚きが残っていて、少し困ったようで、それでいてどこか安心したようにも見えた。


 なぜ笑う。


 なぜ、そんな顔をする。


 なぜ、それを俺に向ける。


 ユリスの胸の奥で、さっきまで黒く沈んでいたものが、ゆっくりと形を持ち始めていた。


「一緒に来てくれ」


 その言葉はユリスにとっては、差し出された鎖だった。


 アルスに連れて行ってもらえば、確かに村からは出られるのかもしれない。


 だが、それを受け取ることは、ユリスにとって別の敗北だった。


 自分は選ばれなかった。神には見つけてもらえなかった。最後の望みは、目の前の男の胸に落ちた。そのうえで、今度はその男に手を引かれて外へ出るのか。


 お前は、俺の中に残った小さな自尊心すら殺すのか。


「王都に行くことになると思う。俺一人じゃ心細い。お前がいてくれたら、きっと助かる」


 それは嘘ではなかった。一人では怖い。ユリスが必要だ。彼の頭が、自分にない強さが、欲しかった。


 だが、それだけでもなかった。


「考えとく」


 ユリスは笑って短く返した。それがユリスにできる精一杯の抵抗だった。


 その笑顔は、アルスが望んだものではなかった。


 アルスは分かっていなかった。


 その言葉が、ユリスの中にどんな傷を作ったのか。自分の善意と欲が、どれほど惨めな形でユリスに届いたのか。


 この日の出来事は、アルスとユリスの中にあった感情を、それぞれ大きく膨らませた。


 ただし、その感情につけられる名は、二人の中でまるで違っていた。

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