一章 第1話 光の檻
アルスは、何不自由なく育った。
そう言われれば、彼はたぶん否定しなかっただろう。屋根のある家があり、冬でも暖炉には火が入り、食卓には白いパンが並んだ。父は村でもそれなりに名のある家の主で、王都の商人とも付き合いがあった。母は読み書きができ、神殿の祈りの言葉も正しく覚えていた。アルスには剣を教える師がつき、礼法を教える神官がいて、書物を読む時間もあった。
村の子どもたちから見れば、それは恵まれた暮らしだった。
いや、実際に恵まれていた。
アルス自身も、それは分かっていた。飢えを知らず、雨漏りを知らず、明日の食事を心配することもない。朝起きれば服が用意され、昼には勉強があり、夕方には剣の稽古がある。怪我をすれば薬があり、熱を出せば母が看病し、失敗をすれば父が叱った。
妹のリーネは、アルスをよく慕っていた。剣の稽古から戻ると、彼女は小さな足音を立てて兄の後をついて回り、母はそれを見て微笑んだ。父は、良い兄であれと言った。良い息子であり、良い跡取りであり、良い兄であれと。
アルスはリーネを可愛く思っていた。家族を嫌っていたわけではない。父の期待も、母の微笑みも、妹の無邪気な好意も、彼を縛るためだけにあるものではなかった。そこには確かに愛情があったし、守られている実感もあった。
それでも、時々息苦しくなった。
与えられるものには、いつも意味がついていた。剣は将来のため。礼法は家のため。学問は王都との付き合いのため。神殿での祈りは正しい人間であるため。食卓での姿勢も、言葉遣いも、笑い方も、誰かに見られている。アルスは愛されていたし、期待されていた。だからこそ、そこから外れることは許されなかった。
彼の家には、鍵のかかる檻などなかった。
だが、アルスはときどき、自分が柔らかな檻の中にいるような気がした。
その日、アルスは父に連れられて農地へ出ていた。
父は畑の出来を見て回り、働く者たちに声をかけていた。アルスはその後ろを歩きながら、父の言葉遣いを覚えようとしていた。誰にどう声をかけるか。どこで褒め、どこで釘を刺すか。父はそれも勉強だと言った。
春の終わりだった。
土は湿り、風には草の匂いがあった。畑では大人たちが働き、少し離れた場所では子どもも手伝っていた。アルスはその中に、同じ年頃の少年を見つけた。
泥だらけだった。
粗末な服を着て、腕も足も日に焼け、手には小さな傷がいくつもあった。少年は大人に混じって荷を運んでいた。体はまだ小さいのに、足の運びはしっかりしている。重さに負けてふらつくことはあっても、すぐに立て直す。誰かに言われる前に次の荷へ手を伸ばし、声をかけられれば短く答えた。
アルスは、その少年から目を離せなかった。
かわいそうだとは思わなかった。
最初に浮かんだのは、そんな感情ではなかった。
眩しい、と思った。
泥にまみれているのに。
汗を流し、肩で息をしているのに。
アルスには、その少年が自分よりずっと強く見えた。清潔な服を着て、父の後ろを歩き、正しい言葉を覚えさせられている自分より、土の上に立っているその少年の方が、ずっと確かな形を持っているように見えた。
「ユリス」
誰かが呼ぶと、少年が振り返る。
それが、彼の名だった。
ユリス。
アルスは心の中で、その名を繰り返した。
その後も、アルスはユリスを見るようになった。神殿の祈りの日。収穫物を村の広場に運ぶ日。祭りの準備。水場。大人たちの用事で家の外へ出るたび、アルスはユリスの姿を探した。
話す機会は、何度かあった。
最初は神殿だった。
子どもたちが祈りの言葉を教わる日、ユリスは一番後ろにいた。服は古く、手は荒れていた。神官が簡単な文字を板に書かせると、ユリスは他の子どもより早く覚えた。計算も速かった。神官が少し驚き、アルスも驚いた。
「ユリスは頭がいいんだな」
祈りのあと、アルスはそう声をかけた。
ユリスは一瞬、嫌そうな顔をして言った。
「頭がよくても、畑は勝手に耕されない」
そんなふうに言われるとは思っていなかった。褒めたつもりだった。だが、ユリスの声には、褒められた者の喜びがなかった。むしろ、踏まれた場所を見られたような不機嫌さがあった。
「でも、すごいと思った」
アルスが言うと、ユリスはじっと彼を見た。
その目は、アルスが普段向けられる目とは違っていた。大人たちのように遠慮があるわけでも、子どもたちのようにただ目を輝かせているわけでもない。測るような、疑うような目だった。
「そう」
ユリスはそれだけ言って、神殿の外へ出ていった。
アルスは、その背中を見ていた。
拒まれたのに、嫌な気はしなかった。むしろ、その短い返事が胸に残った。
次にまともに話したのは、収穫物を町へ売りに出す日だった。アルスの父が商人と話しているあいだ、ユリスは荷車のそばで縄を結んでいた。結び方が早く、無駄がない。アルスは近づき、しばらくそれを見ていた。
「何」
ユリスが言った。
「それ、どうやるのかと思って」
「見れば分かるだろ」
「分からない」
ユリスは少しだけ眉をひそめたが、手を止めて縄を解いた。
「ここを通して、こう締める。荷が揺れても緩まない」
説明は短かった。けれど分かりやすかった。アルスは真似をしたが、うまくいかなかった。ユリスはため息をつき、もう一度見せた。
「手がきれいすぎるんだよ」
ユリスは言った。
アルスは自分の手を見た。
剣だこはあった。だが、確かにユリスの手とは違った。ユリスの手は、年齢に似合わないほど硬く、傷が多かった。
「痛くないのか」
「痛いよ」
ユリスは当然のように答えた。
「でも、痛いからやらないってわけにはいかない」
その言葉は、彼の中に深く残った。
痛いからやらないわけにはいかない。
自分にも稽古はあった。礼法も、学問も、神官の退屈な説教もある。嫌だと思うことはある。逃げたいと思うこともある。だが、ユリスの言うそれとは違う気がした。アルスの苦しさは、柔らかい布で包まれている。ユリスの苦しさは、土と汗の中にそのまま置かれている。
その違いに、アルスは惹かれた。
ユリスは、自分とは違う場所に立っている。
そして、そう思うたびに、アルスはユリスへ近づきたくなった。
実際、二人は少しずつ親しくなった。アルスが水を持っていけば、ユリスは迷惑そうにしながらも受け取った。アルスが木剣の稽古に誘えば、ユリスは時間があるときだけ来た。ユリスが計算を助ければ、アルスは本気で感心した。アルスの家の白いパンを半分渡したこともある。ユリスは受け取るたびに、少し困った顔をしながらも、それを食べた。
アルスは、それが嬉しかった。
だが、アルスの中にある感情はもう、友情という名前の内側には収まらなくなっていた。
ユリスが他の子どもと話していると、胸がざわついた。ユリスが自分の差し出したものを拒むと、悔しかった。ユリスが何かを一人でやり遂げると、誇らしい気持ちと同じくらい、置いていかれるような不安があった。
それは、尊敬とも憧れとも少し違っていた。
もっと別の、ずっと熱を持った感情だった。
それには、もっとふさわしい名前があった。
けれど、その頃のアルスはまだ、その名前を知らない。
後になって、それが罪と呼ばれるものだと知るまでは。
ただ、泥だらけの少年を、美しいと思った。
そして、その美しいものを、自分の手の届く場所に置きたいと思った。
それはたぶん、アルスが初めて覚えた欲望だった。




