二章 第5話 偽りの名で救えるもの
王都の東に、川沿いの町がある。
石橋と水車で知られる小さな町だった。周囲の村から麦が集まり、水車で粉にされ、王都へ送られる。戦略的に重要というほどではないが、そこが止まれば周辺の食料事情に影響が出る。魔王の影が濃くなり始めた頃、その町を魔物の群れが襲った。
俺たちが着いたのは、夕方だった。
町の外壁は低く、あちこちが壊れていた。川沿いの倉庫は焼け、煙が上がっている。町の人々は中央広場へ集まり、兵士と自警団が周囲を守っていた。魔物は一度引いたが、夜にはまた来るという。
町長は俺を見るなり、縋るように言った。
「勇者様、どうか町をお救いください」
その声に、以前ほど胸は浮かなかった。
代わりに、重さを感じた。
この人々は、俺を信じている。俺が本物かどうかなど知らない。ただ、勇者が来たという一点に縋っている。俺が失敗すれば、彼らは死ぬ。俺が逃げれば、町は落ちる。俺の紋章が本物か偽物かに関係なく、その夜、俺の判断で人が死ぬ。
俺は町長の肩を支えた。
「できる限りのことをする」
勇者らしい台詞ではなかった。
必ず救う、と言うべきだったのかもしれない。だが、俺は軽々しく言えなかった。救えるかどうかは分からない。敵の数も不明。町の防備も薄い。こちらは四人。王国軍の増援は間に合わない。
それでも、逃げる選択肢はなかった。
俺は町の地図を見た。川、橋、倉庫、広場、低い外壁。魔物はおそらく水辺から来る。橋を落とせば時間は稼げるが、町の物流は死ぬ。倉庫を捨てれば被害は大きいが、人命は守れる。中央広場に集めるだけでは、囲まれたら終わる。
考える。
昔の俺は、自分が頭がいいと思っていた。農村にいるにはもったいないと、本気で思っていた。だが、頭の良さなど、使い方を知らなければただの不満の種だ。今は違う。考えた分だけ、人が生きる可能性が上がる。
「橋は落とさない」
俺は言った。
クラウスが眉を上げた。
「防衛線としては危険だぞ」
「分かってる。だから橋の手前に油を撒く。火は最後まで使わない。煙で町人が混乱する。倉庫は捨てる。ただし粉袋を移せるだけ移せ。川沿いの水車は守れない。中央広場へ全員集めるが、逃げ道を二つ残す」
セレナが地図に印をつける。
「私の結界は広場全体を覆うには足りません。区画を絞る必要があります」
「子どもと老人を結界内へ。動ける者は外側で運搬と消火。クラウスは橋側。俺は川沿い。エスカは逃げ道の確保と敵数の確認」
「またですか」
エスカが青い顔で言った。
「お前しかできない」
「そう言われると断りづらいです」
「断るな」
「分かってます」
エスカは震えながらもうなずいた。
夜、魔物は川から来た。
最初に聞こえたのは、水音だった。
川面が不自然に膨らみ、黒い波が岸へ寄せる。月明かりを受けた水の下で、何かが幾つも蠢いていた。次の瞬間、鱗に覆われた腕が岸の石を掴み、濡れた獣の体がずるりと這い上がってくる。
狼型ではない。大きな蜥蜴のような体に、魚のようなエラがある。爪は長く、濡れた石の上でも滑らない。水から上がったばかりの体はぬめり、松明の火を受けて黒く光っていた。
一体ではない。川沿いの闇そのものが、魔物の群れになって押し寄せてくるようだった。
町人たちの悲鳴が上がる。
「火はまだ使うな!」
俺は叫んだ。
橋側でクラウスの盾が鳴った。
重い衝突音が、石橋の上に響く。魔物の突進を真正面から受けた音だった。セレナの術が広場で白く広がり、町人たちを包む結界が立ち上がる。エスカは屋根の上に上がっていた。瓦の上で身を低くし、震えながら川辺を見下ろしている。
「多いです! かなり多いです! 帰りたいです!」
「数を言え!」
「数えたくないです!」
それでも彼女は数えた。
俺は川沿いを走り、倉庫へ向かう魔物を斬った。陸へ上がったばかりの体は重く、動き出すまでにわずかな遅れがある。そこを狙った。正面から受けない。川へ戻らせない。町の奥へ入れない。
斬るたびに、水と血の混じったものが跳ねた。足元の石畳が濡れ、踏み込むたびに滑る。魔物の爪が壁を裂き、粉袋が破れ、白い粉が夜の空気に舞った。倉庫の中で誰かが叫ぶ。まだ逃げ遅れた者がいる。
「右の倉庫を捨てろ! 人だけ出せ!」
自分の声が、思っていたより荒れていた。
魔物は次々に上がってくる。倒しても、止めても、川の中からまた別の影が現れる。俺たちは勝っているのではなかった。ただ、町が壊れる速度を少し遅らせているだけだった。
倉庫の一つに火がついた。
燃え上がる前に、町人たちが水桶を運ぶ。炎はまだ小さい。だが風向きが変われば、一気に広がる。セレナの結界が光を強めた。広場の内側から、子どもの泣き声が聞こえる。
魔物の群れが、広場へ回ろうとしていた。
「クラウス、下がれ! 橋側を油の上まで引け!」
「分かっている!」
クラウスは一歩ずつ下がった。盾で受けるのではなく、流す。流しながら、魔物の重さを橋の手前へ誘導していく。盾はもう何度も鳴っていた。金属の音が少しずつ鈍くなる。
まだだ。
まだ火は早い。
魔物の先頭が油を撒いた石畳に乗る。後続が詰まる。濡れた体が互いにぶつかり、川へ戻ろうとするものと町へ進もうとするものが重なった。
「今!」
セレナの火が走った。
炎は、油の上だけを舐めるように広がった。橋の手前で赤い壁が立ち上がる。魔物たちが甲高く鳴き、群れの形が崩れた。煙が上がる。町人たちが咳き込む。だが、広場までは届かない。ぎりぎりだった。少しでも火が強ければ、町が燃えた。少しでも弱ければ、群れは止まらなかった。
魔物の群れが割れる。その奥に、一体だけ大きな影が見えた。
他の魔物より一回り大きい。群れの中心。親玉か、変異体か。そいつを倒せば群れが崩れる。そう判断した。
「クラウス!」
「分かっている!」
クラウスが前へ出た。盾の縁が魔物の顎を跳ね上げる。セレナの風が俺の背中を押した。エスカが屋根から短剣を投げ、親玉の目をかすめる。
「怖いので早くしてください!」
「十分だ!」
親玉の爪が来る。避けきれない。左腕に衝撃が走った。痛みが遅れて来る。布と皮膚が裂け、腕の感覚が一瞬飛んだ。それでも止まらなかった。止まれば、次は胴を裂かれる。
俺は剣を両手で握り、喉元へ突き上げた。だが硬い。鱗に阻まれ、刃が浅く止まる。
その横から、クラウスの盾が入った。
魔物の体勢が崩れる。
セレナの術が剣に絡む。炎ではなく、刃を薄く押し込む風。刃先が、鱗の隙間へ沈む。
エスカがもう一本短剣を投げる。今度は目に入った。
魔物が叫ぶ。
俺は剣を押し込んだ。刃が喉の奥を抜けた感触だけが、手の中に残った。
クラウスが盾で押さえ、セレナの風が逃げようとする首を縛る。エスカが屋根の上で何か叫んでいた。聞き取れない。俺はただ、剣から手を離さなかった。
やがて、魔物の重さが前へ崩れた。
俺は巻き込まれるように膝をつく。
親玉は、もう動かなかった。
そこからは早かった。群れが乱れ、火を避けて逃げるもの。川へ戻るもの。混乱して互いにぶつかるもの。俺たちは追いすぎず、町へ入るものだけを討った。夜明け前、最後の一体が川へ消えた。
町は残った。
倉庫はいくつか焼けた。水車の一つは壊れた。怪我人も多い。だが、死者は出なかった。奇跡のようだった。
朝日が昇る頃、町の人々は広場に集まっていた。
誰かが俺の前で膝をついた。
次に、別の誰かが頭を下げた。
広場にいた人々が、少しずつ同じように頭を下げていく。老人も、子どもも、兵士も、自警団も。俺は血と泥にまみれ、左腕を布で吊り、立っているだけでやっとだった。
町長が泣きながら言った。
「勇者様、ありがとうございます」
その声は、以前の俺なら喜びだけで受け取っていただろう。
だが今は違った。
重かった。
頭を下げる町長の後ろには、焼け残った倉庫があり、泥と灰に汚れた町人たちがいた。泣いている子どもも、怪我人を支える女も、折れた槍を握ったまま座り込む自警団の男もいる。
町は傷ついていた。
それでも、残った。
この名で救えた。
偽りの名で、偽の紋章で、俺はこの町を救った。クラウスとセレナとエスカの力を借りて、それでも俺が勇者として立ったから、町は残った。
もし俺が王都へ行かなければ。もしあの席に座らなければ。
この人たちは、今ここで朝を迎えられただろうか。
そう考えた瞬間、胸の奥が嫌な形で軽くなりかけた。
俺が勇者になったから救えた命もある。そう考えれば、最初の罪が少し薄まるような気がした。俺がアルスを殺さなければ、この町は救われなかったかもしれない。
違う。逆だ。
アルスなら、もっと多くの町を救えたかもしれない。少なくとも、誰も殺さずにここに立っていたはずだ。
俺が救った命は本物でも、俺が奪った命が消えるわけではない。
分かっている。分かっているのに、胸の奥のどこかで、俺は自分を許す材料を探していた。
クラウスが隣に立った。
「よくやった。お前は、勇者だ」
その言葉に、俺は息を詰めた。
セレナも近づいてきた。
「今回の判断は、正しかったと思います」
彼女にしては珍しい、最大級の褒め言葉だった。
エスカは疲れ切った顔で言った。
「生きているので、私も評価します」
俺は思わず笑った。
三人がいた。信じてくれる仲間がいた。
救われた町があった。
俺はもう、勇者という役目から降りられなくなった。
偽物だと告げれば、この人々はどう思うだろう。俺が救ったことまで嘘に見えるのではないか。クラウスの信頼はどうなる。セレナの言葉はどうなる。エスカが震えながらもついてきた理由はどうなる。
この名で救えるものがあるなら、まだ降りられない。
それは、半分は責任だった。もう半分は、欲だった。
それから、俺たちはいくつもの任務を受けた。
北境の砦では、雪の中で魔物の群れを迎え撃った。東川の町では、堤を壊された集落を守るために、夜通し土嚢を運んだ。灰谷の村では、疫病と魔力汚染が重なり、セレナが倒れる寸前まで結界を張り続けた。盗賊に襲われた商隊を助け、魔物に塞がれた街道を開き、焼けた村から生き残りを探した。
俺はそのたびに傷を増やした。
クラウスは盾を削り、セレナは記録の余白を埋め、エスカは怖いですと何度も言いながら、それでも誰より早く危険に気づいた。
俺たちは、少しずつ勇者の一行になっていった。
アルスのことを忘れた日はなかった。
忘れたかった日は、何度もあった。だが、完全に忘れることはできなかった。誰かに勇者様と呼ばれるたび、救われた者が俺の手を握るたび、胸の奥のどこかであいつの顔が浮かんだ。
お前ではなく、俺がここにいる。
その事実は変わらない。
けれど、だからこそ、俺は歩き続けなければならないのではないかと思うようになった。アルスが歩くはずだった道を奪ったのなら、その道を途中で投げ出すことだけは許されない。あいつが救ったはずの命を、俺が代わりに救い続けることができれば。
それは罪滅ぼしではない。殺した人間の代わりに善いことを積んだからといって、殺した事実が消えるわけではない。
分かっている。それでも俺は、そう思わずにはいられなかった。
その思いを胸に、俺は勇者として前に進み続けた。
七年が経とうとしていた。
偽の紋章は、まだ俺の胸にあった。
だが、その周りには、数えきれないほどの傷が増えていた。魔物の爪痕。刃の跡。火傷。治りきらなかった古傷。俺が勇者として歩いた時間は、確かにこの体に刻まれていた。
どれほど血を流しても、どれほど人を救っても、最初の罪が消えることはない。それでも俺は、この七年をただ逃げるためだけに使ったわけではなかった。
その頃には、魔王の影もまた、限界まで濃くなっていた。
北の砦は何度も襲われ、東の街道には魔物が溢れ、西の国境では魔物の軍勢が姿を見せ始めていた。王国軍と神殿は、七年をかけて魔王領へ至る道を調べ、補給の拠点を整え、瘴気を越えるための護符と結界具を揃えていた。
俺たちもまた、その間に変わっていた。
クラウスは俺の盾として何度も死線を越え、セレナは魔王領の魔力を読むための術式を組み上げ、エスカは誰よりも早く危険を嗅ぎ取る斥候になった。俺も、ただ偽の紋章を胸に刻んだだけの男ではなくなっていた。
王城の軍議の間で、王は俺たちを見渡した。
「準備は整った」
その声は重かった。
「七年をかけ、ようやく魔王領へ至る道が開いた。これ以上待てば、こちらが押し潰される。勇者ユリス。クラウス。セレナ。エスカ」
王は一人ずつ名を呼んだ。
「魔王領へ向かえ。魔王を討て」
誰も、すぐには答えなかった。
俺は胸の奥で、偽の紋章が熱を持つような錯覚を覚えた。
ついにここまで来た。もう引き返す道などない。
俺は膝をつき、頭を垂れた。
「必ず」
声は、自分でも驚くほど静かだった。
「魔王を討ちます」




