二章 第4話 勇者たる努力
村の子どもを助けた日から、俺は変わろうとした。
そう言うと、綺麗に聞こえすぎる。
実際には、もっと複雑だった。俺は急に善人になったわけではない。翌朝にはまだ、自分が称えられることに喜んでいた。王都へ戻って報告を受けた役人が感心した顔を見せると、胸の奥が満たされた。褒賞の金額を聞けば、まず使い道を考えた。勇者としての待遇が少し良くなると、これで農村のような暮らしには戻らなくて済むと思った。
俺は、そういう男だった。
だが、それだけではなくなっていた。
夜、眠る前に、あの子どもの顔が浮かぶ。魔物の牙の前で泣いていた顔。服の端を掴んだ小さな指。勇者様、と呼んだ声。もし俺があのとき動かなければ、あの子は死んでいた。俺は、助けられる命を助けた。
その事実が、俺の中で小さく光った。
アルスを殺した記憶とは違う場所に。
そして、その光は俺に努力を強いた。勇者のふりでは足りない。
そう思った。
ふりだけでは、次は間に合わないかもしれない。肩の傷がもう少し深ければ死んでいた。魔物がもう一体いれば、子どもごと食われていた。クラウスの盾が遅れれば、セレナの魔術が乱れれば、エスカが見落とせば、すべてが崩れる。
俺は弱い。
これは最初から分かっていた。
だが、弱いまま勇者の席に座り続けることの恐ろしさを、その日初めて実感した。
だから、鍛えた。
朝、まだ城下が薄暗いうちに起きる。王城の訓練場の片隅を借り、剣を振る。クラウスに型を見てもらう。最初、クラウスは遠慮した。勇者殿に自分が教えるなど、と言った。
俺は首を振った。
「俺は剣が下手だ」
そう言うと、クラウスは一瞬だけ黙った。
「勇者殿が、それを言うのか」
「言わなければ強くならない」
クラウスは俺をじっと見た。
その目に何があったのか、当時の俺には分からなかった。失望か。驚きか。あるいは、ほんの少しの感心だったのか。
やがて、彼はゆっくりとうなずいた。
「分かった。では、遠慮はしない」
本当に遠慮しなかった。
クラウスの稽古は厳しかった。足の置き方。盾の死角。剣の握り。敵を見る目。俺が体力に任せて振ると、すぐに叩き落とされた。農作業でついた力は役に立ったが、戦いの力とは違う。力を使う場所、抜く場所、息の仕方。何もかも学び直しだった。
何度も倒れた。何度も立った。
クラウスは倒れた俺に手を貸さなかった。
「立て」
それだけ言った。
腹は立たなかった。その厳しさはありがたかった。クラウスは俺を飾り物として扱わない。勇者だからと遠慮しない。戦場で死なせないために、必要なことを言う。
昼は、セレナの部屋で魔物や魔術の記録を読んだ。
王立魔術院の資料は難しかった。専門用語が多く、最初は何を言っているのか分からない。セレナは根気強く説明した。魔物の種類。魔力汚染の兆候。結界の構造。魔術師が詠唱中に弱くなる瞬間。俺が前衛としてどこに立てば、彼女の術が一番生きるか。
「あなたは魔術を使えません」
セレナははっきり言った。
「分かってる」
「だから、使える者を理解してください。知らない前衛ほど、魔術師にとって危険なものはありません」
「耳が痛い」
「痛くするために言っています」
セレナは真面目だった。
だが、その真面目さに俺は助けられた。彼女は俺を盲目的に称えない。できないことはできないと言う。知らないことは学べと言う。俺はそれを聞いた。聞かざるを得なかった。
夜は、エスカに付き合った。
彼女は最初、なぜ自分が勇者に教えるのか分からないという顔をしていた。だが、足跡の見方や罠の避け方に関しては、クラウスやセレナよりもずっと詳しい。臆病であることは、生き残る技術と結びついていた。
「逃げ道は、入る前に見ます」
「戦う前から逃げることを考えるのか」
「生きて帰る人はみんな考えています」
その言葉は、少し刺さった。
逃げること。
俺は逃げている。
アルスの死から。偽の紋章から。自分が何をしてここに立っているのかという事実から。
エスカの逃げ道は、生きて戻るためのものだった。
俺の逃げ道は、自分を守るためのものだった。
同じ言葉なのに、まるで違った。
「こういう枝は踏まない方がいいです」
「なぜだ」
「折れる音が大きいです。それに、下に穴があることがあります」
「よく分かるな」
「怖いので」
「便利だな、怖がり」
「褒め方が嫌です」
エスカはぶつぶつ言いながらも教えてくれた。
こうして、俺の一日は埋まっていった。
夜明け前に起き、剣を振る。指南書を片手に朝食を済ませ、その後はクラウスに叩き伏せられる。昼にはセレナの部屋で魔術式と魔物の記録を読み、夜はエスカに連れられて城外の林を歩いた。暗がりの中で足音を殺し、折れている枝の向きや土の沈み方を覚える。
眠る頃には、体のどこが痛いのかも分からなくなっていた。
農村にいた頃から、俺の手は硬かった。鍬を握り、荷を運び、縄を引いてきた手だ。爪の間には落ちない土が残り、指の節は太く、子どもの頃から柔らかい手とは無縁だった。
だが、勇者になってからの手は、それとは別の形で荒れていった。剣の柄に擦れて豆が潰れ、潰れた場所にまた豆ができる。血が滲んでも布を巻いて振り続けるうちに、手のひらはさらに硬く、ごつごつと変わっていった。
肩の傷は塞がりかけては開き、汗が入るたびに焼けるように痛んだ。足は腫れ、膝は笑い、背中にはクラウスの木剣の痕が残った。
それでも、休まなかった。
休めば、その分だけ嘘が透ける気がした。
俺は本物ではない。だからこそ、本物よりも上手くやらなければならなかった。本物なら、たまたまの失敗で済むことも、偽物がやればただの無能になる。嘘を本当に見せるには、真実よりも多くのものを積まなければならない。
やがて、積み重ねたものが少しずつ形になっていくのを感じ始めた。
この感覚は、俺にとって新しかった。
農村にいた頃も努力はした。誰より早く起き、畑を耕し、荷を運び、計算も覚えた。だが、その努力はどこにも届かないと思っていた。家が貧しければ学ぶ場はなく、身分がなければ上へ行けない。どれだけ頭が回っても、使う場所がなかった。
今は違う。
努力すれば、ただ体が強くなるだけではない。剣の入り方が変わる。判断が早くなる。クラウスの動きに遅れず反応できる。セレナの術を待つ間合いが分かる。エスカの「嫌な感じ」が、ただの怯えではないと読めるようになる。
それが嬉しかった。
同時に、腹立たしかった。
なぜ、最初からこの場所が与えられなかったのか。なぜ、俺はアルスを殺すまで、この努力を試す舞台に立てなかったのか。生まれさえ違えば、俺だって。
そう思ってしまう。その考えが醜いことは分かっていた。
だが、消えなかった。
そして、どれだけ努力しても、最初の歪みだけは消えなかった。
俺の勇者は、アルスを殺したところから始まっている。どれだけ剣を振っても、どれだけ人を救っても、その始まりだけは変えられない。
そのどうにもならなさを抱えたまま、俺は強くなっていった。
強くなるほど、周囲は俺を勇者として認めた。認められるほど、俺は真実を言えなくなっていった。
けれど、その頃の俺はまだ、少しだけ信じていた。
いつか、本当にそうなれるのではないかと。
偽の紋章から始まったとしても、積み重ねたものまで偽であるとは限らない。クラウスに叩き伏せられ、セレナに叱られ、エスカに逃げ道を教わりながら、俺はそんな都合のいいことを考えるようになっていた。
それは甘さだった。
だが、その甘さがなければ、俺はたぶん前へ進めなかった。




