二章 第3話 最初に救った命
最初に俺が救った命は、名前も知らない子どもだった。
王都の南にある小さな村だった。森と川に挟まれ、畑は狭く、家も少ない。魔王の影響で魔物が増え始めてから、こういう村ほど危なかった。王国軍は主要な街道や砦を優先する。辺境の村は、勇者や冒険者、傭兵に頼るしかない。
俺たちに依頼が来たのは、初任務からしばらく経ってからだった。
内容は、村近くに出没する魔物の討伐。数は不明。家畜が襲われ、夜には森の方から奇妙な声がするという。王国の担当官は、俺たちに試験的な巡回任務として割り当てた。
俺は、その頃には少し慣れていた。
勇者としての扱いに。
仲間への指示に。
自分が偽物であることを、胸の奥へ押し込めることに。
慣れるというのは、恐ろしいことだ。
最初は息が詰まりそうだった嘘も、毎日抱えていれば少しずつ体に馴染んでいく。偽の紋章も、今では元からそこにあったもののようにすら思えてしまう時があった。
クラウスは俺を勇者殿と呼び、セレナは俺の判断を記録し、エスカは俺の後ろに隠れる。王都では、俺を見て頭を下げる人間が増えた。
俺は、その目に慣れていった。
自分が望んでいたものだからだ。
村へ着いたとき、俺はまず地形を見た。森が近い。川は浅いが、雨の後は増水する。家々は木造で、乾いた藁屋根が多い。火が出ればすぐに広がるだろう。村長は白髪の老人で、俺たちを見るなり何度も頭を下げた。勇者様、どうか村を、と言った。
勇者様。
俺はその言葉に、もういちいち動揺しなくなっていた。
「被害のあった場所へ案内してくれ」
俺が言うと、村長はすぐにうなずいた。
襲われた家畜小屋には、黒い爪痕が残っていた。柵は内側へ折れている。外から突き破ったのではなく、一度中へ入り、暴れながら出たように見えた。地面には足跡がいくつもある。泥の深さも、向きもばらばらだった。エスカがしゃがみ込み、眉を寄せる。
「数、多いです」
「どれくらいだ」
「分かりたくないです」
「分かれ」
「たぶん、八体以上」
クラウスが剣の柄に手を置いた。
「村の規模に対しては多いな」
「ああ。襲撃場所を絞るしかない」
俺は周囲を見た。
集会所。家畜小屋。井戸。森への道。川沿いの小屋。逃げ遅れる者が出れば終わる。戦力は少ない。
まず村の外周に、紐と木片で作った簡単な鳴子を張る。魔物が触れれば、音で位置が分かる。そのうえで村人を全員集会所へ集め、セレナの結界で守る。クラウスが正面を押さえ、俺は横へ回る魔物を斬る。エスカには鳴子の確認と、逃げ道の確保を任せる。
考えれば考えるほど、勇者らしくないと思った。
本物の勇者なら、きっともっと単純に解決するのだろう。剣を掲げ、敵をまとめて討ち払い、人々を安心させるのだろう。
俺にはできない。だから、できることを積むしかなかった。
その夜、魔物は来た。
最初に鳴子が鳴った。乾いた木片の音が、村の暗闇にばらばらと散る。集会所の中で誰かが息を呑み、子どもが小さく泣いた。森の暗がりから、赤い目がいくつも浮かぶ。ひとつ、ふたつ、三つ。数えようとして、俺は途中でやめた。
エスカの予想より多い。
「多いですね」
エスカが震えた声で言った。
「見れば分かる」
「帰りたいです」
「今帰ったら村がなくなる」
「そういう正論、嫌いです」
クラウスが盾を構えた。
「来るぞ」
魔物は柵を破り、家畜小屋へ向かい、何体かは集会所を狙った。セレナの結界が光る。薄い膜のように広がった光が、魔物の爪を受けるたびに軋んだ。村人たちの悲鳴が中から聞こえる。クラウスは正面を押さえ、俺は左右を回り込む魔物を斬った。エスカは罠を使って足止めし、短剣で目を狙った。
俺は、その頃には戦い方を覚え始めていた。
真正面から力で勝つ必要はない。相手の足を止め、味方の射線を作り、盾と魔術の間に敵を誘導する。俺には奇跡の力など備わっていない。なら、頭を使うしかない。戦場全体を見るしかない。
魔物の数は、少しずつ減っていった。
だが、そのうちの一体が柵の外側へ逸れ、村の裏手へ回り込んでいく。
「一体抜けました!」
俺はエスカが叫んだ方向を見た。
裏手には、集会所に入るのが遅れた家があった。老人夫婦の家だと思っていた。すでに避難したはずだ。そう思った瞬間、家の中から子どもの泣き声がした。
小さい声だった。
だが、確かに聞こえた。
俺の足が止まった。
魔物が家へ向かう。藁屋根。薄い木戸。あの大きさなら、簡単に破れる。クラウスは遠い。セレナは結界維持で動けない。エスカは別の魔物を罠にかけている。
俺が行くしかない。
だが、俺の前にも魔物がいた。
一瞬、考えた。
子どもは一人。集会所には村人が大勢いる。ここで俺が持ち場を離れれば、防衛線が崩れるかもしれない。勇者として考えるなら、全体を見るべきだ。一人を救うために多数を危険にさらすのは間違いだ。そういう理屈が、頭の中に浮かんだ。
だが、その理屈の奥で、別の声がした。
助けられるのに、助けないのか。
子どもの泣き声が、もう一度響いた。
その瞬間、俺は走っていた。
目の前の魔物の牙を避け、肩で体当たりして進路をずらす。背中に爪がかすった。痛みは無視した。家へ向かう魔物の背後へ飛び込み、剣を振る。浅い。刃は皮膚を裂いただけで、骨までは届かなかった。魔物が振り返る。口が開く。黒い涎が飛ぶ。
間に合わない。
俺は剣を捨て、魔物の首に飛びついた。
力で押さえ込める相手ではなかった。体ごとぶつかった瞬間に分かった。魔物の首は太く、濡れた毛の下で筋肉がうねり、俺の腕など簡単に振りほどけそうだった。
それでも離せなかった。離せば、こいつは家へ入る。
次の瞬間、肩に牙が食い込んだ。熱い痛みが、頭の奥まで突き抜ける。悲鳴が漏れそうになったが、歯を食いしばって飲み込む。腕に力を込め、魔物の頭を無理やり引き寄せた。息が獣臭く、黒い涎が頬にかかった。
腰の短剣を抜く。 狙う余裕などない。暴れる頭を抱え込んだまま、硬い皮膚の隙間を探す。刃先が何度も弾かれた。手が滑る。肩の傷から血が流れ、指の感覚が薄れていく。
家の中で、子どもがまた泣いた。
その声で、もう一度力が入った。
俺は短剣を逆手に握り直し、魔物の顔の横へ押し込んだ。刃が何か柔らかいものを裂く感触があった。魔物が大きく身をよじり、俺はそのまま家の壁へ叩きつけられた。
息が潰れた。
視界が白く弾ける。腕がほどけそうになる。だが、短剣だけは離さなかった。離せば終わる。そう思うより先に、体が勝手にもう一度動いていた。
さらに深く、押し込むと、魔物の暴れ方が変わった。俺を振りほどこうとする力が、少しずつ乱れていく。爪が地面を掻き、後ろ脚が何度も土を蹴った。やがて、その重みが一気に俺の上へ落ちてきた。
支えきれず、地面へ倒れ込む。
しばらく、何も聞こえなかった。
魔物の体は、もう動いていなかった。
血が流れている。肩が熱い。腕が動かない。それでも、俺は立ち上がろうとした。家の中から、まだ泣き声がする。
戸を開けると、中には、小さな男の子がいた。たぶん五つか六つ。床に座り込み、膝を抱えて泣いている。逃げ遅れたのか、隠れていたのか。俺を見て、さらに泣きそうな顔になった。
「もう大丈夫だ」
俺の声は掠れていた。
「怪我は」
子どもは首を横に振った。
俺は膝をついた。体から力が抜ける。肩の傷がひどい。血が床に落ちる。子どもがそれを見て、震えながら俺に近づいた。
「勇者様?」
その声は、小さかった。
俺は答えられなかった。
子どもは俺の服の端を掴んだ。
小さな指だった。泥と涙で汚れていて、力も弱い。それでも、確かに俺を掴んでいた。俺が少し動くと、その指に力が入った。置いていかれると思ったのかもしれない。
俺は、動けなかった。
誰かに縋られることに慣れていなかった。勇者様と呼ばれることには慣れ始めていたのに、その小さな手が俺を必要としていることには、どうしていいか分からなかった。
そのとき、クラウスが駆け込んできた。
「ユリス!」
セレナも続いた。エスカは戸口で息を切らしている。
セレナが俺の肩の傷を見て、顔を強張らせた。
「無茶をしすぎです」
「助かっただろ」
「そういう問題ではありません」
彼女はすぐに治療を始めた。魔力の温かさが傷に流れ込む。痛みが少しずつ遠のく。俺は壁にもたれながら、子どもを見た。子どもはまだ泣いていたが、生きていた。
生きている。
それだけで、胸の奥に何かが落ちた。
俺は初めて、自分が勇者の名で得る名声ではなく、誰かを救ったという事実に触れた気がした。
偽の紋章でも、偽の勇者でも、その夜に伸ばした手だけは嘘ではなかった。
その事実は、俺を少し救った。
同時に、さらに縛った。
この名で救える命がある。
そう知ってしまったからだ。




