エピローグ 処刑のあと
ユリスの首が落ちたあと、広場にはしばらく声が残っていた。
歓声ではなかった。罵声でも、祈りでも、泣き声でもない。それらが混ざり、形を失った、人の群れの音だった。
誰かが終わったと言い、誰かが当然だと言い、誰かが黙って目を伏せた。魔王を倒した男の死にしてはあまりにも冷たく、仲間を殺した罪人の死にしては、どこか割り切れない空気が残っていた。
処刑台の上で、リーネは剣を下ろしたまま立っていた。
その佇まいには、十七の少女が持つには重すぎる静けさがあった。
親を失い、村を失い、兄も帰らなかった。兄に何が起きたのかを知るまでにも、長い時間がかかった。
そのあいだに、彼女は生き延びるためのことを覚えすぎた。飢えをしのぐために盗み、雨風を避けるために、見知らぬ天井を見上げ続けた日もあった。
一滴、二滴、刃から血が落ちる。その滴が、ここに至るまでの日々を、一つ一つ数えているようだった。
彼女は泣かなかった。怒鳴りもしなかった。ただ、兄の仇を討った女としてそこにいた。王国はそれを裁きと呼び、神殿は罪の清算と呼び、民衆は報いと呼ぶだろう。実際、それは間違いではなかった。
ユリスはアルスを殺した。
クラウスを殺した。セレナを殺した。セレナの腹にいた命も殺した。エスカを殺そうとした。神託を偽り、勇者の名を騙り、王国と神殿と民を欺いた。
彼が魔王を倒したことも、確かに事実だった。救われた町もある。生き延びた子どももいる。焼かれずに済んだ砦もある。ユリスがいなければ、もっと多くの命が失われていたかもしれない。
リーネも、それを否定するつもりはなかった。
ユリスという男が、勇者として成したことはあった。偽りの紋章を掲げていたとしても、剣を振った腕まで偽物だったわけではない。魔王の前に立った足まで嘘だったわけではない。彼の働きによって救われた命があるなら、それは認めなければならない。
けれど、それは兄を返さなかった。
ユリスがどれほど多くを救っていたとしても、アルスはあの朝に死んでいた。清らかで、優しく、誰からも愛され、妹の頭を撫でて「すぐ帰ってくるよ」と笑った兄は、もう帰ってこなかった。
リーネにとって、アルスは最後までそういう人だった。
泥の中にいる友人へ手を差し出し、勇者として選ばれてなお怖いと言えるほど正直で、それでも前に進もうとした人。自分のためではなく、誰かのために光の中へ立った人。
ユリスを友として信じ、その裏切りの果てに、最後には呪いの言葉を言い残した人。
リーネは、その言葉を兄の傲慢だとは思わなかった。
死に際に、兄はようやくユリスの本質を言い当てたのだと思っていた。ユリスは兄を殺し、兄の光を奪い、勇者の名を騙った。けれど結局、アルスという光がなければ何者にもなれなかった男なのだと。兄は最後の最後に、それを突きつけたのだと。
むしろ、その言葉さえも、裏切られた兄が残した正しい裁きのように聞こえていた。
リーネは、それ以上のアルスを知らない。
アルスの胸の奥にあった想いを知らない。親友という言葉で覆われていた愛も、独り占めしたいという醜い願いも、ユリスを救いたいと言いながら自分のそばに置きたがった独善も知らない。
リーネの中のアルスは、清廉なままだった。
処刑台の片付けが始まる。兵士たちが遺体を覆う布を持ってくる。罪人として晒される時間は短かった。王国は、必要以上にユリスの死体を弄ぶことを避けた。魔王討伐の功績を完全に消すこともできず、かといって丁重に葬ることもできない。その中間の、ひどく人間らしい処理だった。
首と体は別々に包まれた。
勇者の証は、すでに剥がされていた。
神殿の検分によって、ユリスの胸から肩にかけて刻まれた偽の紋章は、処刑の前日に削り取られていた。裏通りの彫師によって作られた偽物。それが公的な結論だった。
誰も、その下をよく見なかった。
いや、見た者はいた。
神官の一人が、偽紋章の下に古い痣のようなものがある、と記録には残した。農作業による外傷痕。魔術彫りの際に上書きされた古い皮膚変色。そう整理された。
それだけだった。
当然だろう。
人は、分かりやすいものを見る。
白く輝く紋章。清らかな顔。裕福な家の子。誰からも好かれ、まっすぐに笑う少年。アルスは勇者として、あまりにも分かりやすかった。だから神官も、村人も、アルス自身も、自分が勇者なのだと思った。
ユリスでさえそう思った。
泥にまみれた自分ではなく、光っているアルスが選ばれたのだと信じた。自分の胸に沈んでいたものなど見ようともしなかった。見たところで、ただの痣だと思っただろう。汚れた体に神が何かを刻むなど、彼自身が一番信じなかった。
もし、アルスがあの日、父について農地へ行かなければ。
もし、泥にまみれて働くユリスを見なければ。
もし、その姿を美しいなどと思わなければ。
もし、アルスがユリスをあれほど愛さなければ。
ただの友人の一人として、少し賢い村の少年として、遠くから笑って見ていられたなら。
もし、アルスの家がもう少し貧しければ。
あるいは、ユリスの家がもう少し豊かであったなら。
もし、ユリスがアルスの差し出す手を、救いとして受け取ることができたなら。
もし、アルスがその手に混じっていた欲を、もっと早く見つめることができたなら。
もし、神託の日、誰か一人でもユリスの胸に沈んだ鈍い徴を見ていたなら。
もし、白く輝くものだけを、勇者の証だと決めつけなければ。
もし、あの朝、アルスが崖の縁に立たなければ。
もし、ユリスが背中へ指を伸ばす前に、自分の胸にある黒いものの名を呼べていたなら。
どこかで、別の道はあったのかもしれない。
だが、すべては崖へ向かった。
誤解を抱えたまま、ユリスは七年を走った。
本物であることに気づかないまま、偽物になろうとした。
勇者として人を救い、勇者として称えられ、勇者として魔王を倒した。だが、その足元には最初の嘘があった。アルスを押した朝があった。偽りの紋章の下に、本当の徴を沈めたまま、ユリスは自分が偽物だと信じ続けた。
そして最後に、彼はまた自分を選んだ。
クラウスが差し出した償いの道を、彼は見なかった。セレナが告げようとした未来を、彼は聞かなかった。エスカの恐怖を、自分の保身で踏みにじろうとした。
だから首は落ちた。
それは仕方がない。
たとえ、彼が本物の勇者だったとしても。
広場の端に、一人の影が立っていた。
誰にも見えていなかった。
男とも女ともつかない姿だった。若いようにも、老いているようにも見える。衣は風に揺れているのに、足元に影はない。顔には微笑があった。優しさでも、憐れみでもない。遠くの雨を眺めるような、退屈した微笑だった。
「終わったか」
誰にも聞こえない声で、それは言った。
処刑台の上では、血を拭う音がしている。リーネは兵士に支えられながら、ゆっくりと台を下りた。彼女は兄の仇を討った。だが、兄は戻らない。
エスカはその背中を見ていた。彼女は告発者として生き残った。だが、仲間たちの声は戻らない。
クラウスの手紙は神殿に保管されるだろう。
セレナの手帳も、同じ場所へ置かれるだろう。
ユリスの名は、記録の中で割れる。
魔王討伐の功労者。
神託を偽った罪人。
勇者殺し。
仲間殺し。
世界を救った男。
処刑された偽勇者。
人々は都合に応じて、好きな名を選ぶ。
それでいい。
人間の記録とは、だいたいそういうものだ。
ただ、どの記録にも書かれないことがある。
アルスの光が、勇者そのものの徴ではなかったこと。
ユリスの泥の下に、本当の徴が刻まれていたこと。
アルスの愛が、清らかな友情だけではなかったこと。
ユリスの憎しみが、アルスの愛に混じった欲に触れるたび、少しずつ形を得ていったこと。
そして二人が、互いを見ていたようで、最後まで互いの奥底までは見られなかったこと。
それは、処刑台の下に残った血を眺めながら、少しだけ目を細めた。
風が吹いた。
広場の隅に落ちていた花びらが、石畳の上を転がる。
誰も、その声を聞かなかった。
ユリスは死んだ。
アルスも死んだ。
クラウスも、セレナも、名もない子も死んだ。
エスカとリーネだけが、死者の重さを抱えて明日へ残された。
それは、そこで初めて、少しだけ笑った。
何かを悼むようにも、何かを愉しむようにも見えない、薄い笑みだった。
ただ、少しだけ皮肉に。
「泥の下にも、徴は刻まれていた。選ばれなかった男など、最初からいなかったのだがな」
その言葉は、空へ溶けた。
広場にはもう、処刑台を片付ける木槌の音だけが響いていた。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
本作は、最初から「救いのない話」として考えていました。
一度書き終えたあとも、アルスやユリスの感情を掘り下げ、修正していった結果、より一層救いのない方向へ進んでしまいました。
嫉妬や羨望、劣等感、執着。
そのあたりは、自分がわりと捻くれた側の人間なので、書きやすかったですがやはり精神的にきついものではありました。
ですが、死を目前にした時のぐちゃぐちゃな感情や、初恋の相手に抱く、どうしようもない執着のような部分は、個人的にも気に入っています。
普段はもっと軽く読める、ギャグ寄りの話が好きなのですが、こういうネガティブな感情を書くのもやはり好きなので、またそのうち似た方向性のものを書くかもしれません。
その時はまたお読みいただければ大変嬉しいです。
改めて、最後までお読みいただきありがとうございました。




