終章 第2話 勇者の妹
処刑台に立つ前、俺は一度だけ面会を許された。
正確には、許されたというより、向こうが望んだのだろう。俺にはもう、誰かと会う権利など残っていなかった。牢の扉が開き、兵士が無言で顎をしゃくったとき、俺は最初、いよいよ処刑場へ連れていかれるのだと思った。夜はとっくに明けていた。小さな格子窓から差し込む光は薄く、石の床は冷えきっていた。眠れなかったせいで、頭の奥が鈍く痛んでいる。
俺は立ち上がろうとして、足に力が入らなかった。
情けない話だ。魔王の前に立ったときでさえ、膝はここまで震えなかった。あのときは、後ろに仲間がいた。前には倒すべき敵がいた。剣を握ってさえいれば、何かをしている気になれた。だが今は違う。俺の手は縛られ、腰の剣は取り上げられ、残っているのは、これから死ぬという事実だけだった。
廊下は長かった。
王城の地下にある牢は、石と鉄でできている。七年前、俺が初めてこの城に来たとき、こんな場所があることなど知らなかった。俺は神託を受けた勇者として、表の門から迎え入れられた。いや、神託を受けたと偽った勇者として、だ。広間には赤い絨毯が敷かれ、王と神官と貴族たちが並び、俺はそこで膝をついた。偽の紋章は魔術の光を帯びていた。裏通りの彫師に刻ませた粗末なものだったが、その時点では誰も疑わなかった。
誰も、ではない。
俺自身は知っていた。
俺だけが、それを偽物だと知っていた。
それでも俺は顔を上げ、ユリスと名乗った。勇者ユリス、と呼ばれて否定しなかった。アルスの名前を名乗ったわけではない。俺は俺の名で、アルスが歩くはずだった道に足を置いた。奪ったのは名前ではなかった。もっと根の深いものだった。
俺は、それを七年かけて本物にしようとした。
そう思いたかった。
廊下の奥に、小さな部屋があった。面会室というより、尋問に使うための部屋だろう。石壁に窓はなく、机と椅子が二脚だけ置かれている。兵士が扉を開けた。俺は押し込まれるように中へ入った。
そこに、リーネがいた。
アルスの妹。
彼女は机の向こう側に座っていた。まだ若い。いや、もう若いと言い切るには、顔に刻まれたものが重すぎた。俺の記憶の中のリーネは、いつもアルスの後ろにいた。明るい兄を追いかけ、小さな手で服の裾をつかみ、俺が来ると少しだけ照れたように挨拶する子どもだった。
だが、今のリーネは俺を見ても少しも怯えなかった。
兵士が俺を椅子に座らせる。両手は縛られたままだ。扉の外には二人、部屋の中には一人。逃げられるはずがない。逃げるつもりもない。そう自分に言い聞かせたが、体のどこかはまだ逃げ道を探していた。
死にたくない男の体は、最後まで醜く働く。
「久しぶりね」
リーネが言った。
声は静かだった。怒鳴られると思っていた。唾を吐かれるか、泣きながら罵られるか、少なくとも俺を見る目にはもっと剥き出しの憎悪があると思っていた。だがリーネは静かだった。静かすぎて、かえって何を考えているのか分からなかった。
「……ああ」
俺はそれだけ答えた。
「最後に会ったのは、兄が神託を受けた日の少し後だったと思う」
リーネは視線を落とした。机の上には、何も置かれていない。水も、紙も、刃物もない。ただ、彼女の手だけがそこにあった。白い手だった。農具を握って育った俺の手とは違う。
だが、その指には剣だこができていた。俺がアルスを殺してから、彼女も剣を取ったのだろう。理由は考えるまでもない。
俺を殺すためか。
そう思った瞬間、胸の奥が冷えた。
「あなたは、兄と一緒に王都へ行くはずだった」
リーネは言った。
俺は答えなかった。
その通りだった。アルスは俺に言った。一緒に来てくれ、と。お前がいれば心強い、と。あいつは本気でそう言った。
俺を見下したわけではない。農家の息子だからと笑ったわけでもない。金がないからと遠ざけたわけでもない。アルスは、俺を友人として見ていた。
だから残酷だった。俺が欲しくてたまらなかったものを全部持っているくせに、あいつは俺に手まで差し伸べた。
その手を取ればよかったのだろう。
たぶん、そうすればよかった。
俺は取らなかった。
「兄はあなたを信じていた」
リーネは続けた。
その言葉は、何度聞いても体の奥に刺さる。
信じていた。
だから殺せた。
あのときアルスが俺を疑っていれば、俺はあいつを殺せなかったかもしれない。
警戒されていれば、押せなかったかもしれない。
剣を向けられていれば、俺は逃げたかもしれない。
だがアルスは、最後の瞬間まで俺を友人だと思っていた。
だから、俺の手が届くところにいた。
俺はその信頼を使って、あいつを殺した。
「兄を殺したとき、何を思ったの」
リーネの声に震えはなかった。
俺は息を止めた。
何を思ったのか。
そんなことを聞かれる日が来るとは、ずっと前から分かっていたはずだ。だが、いざ問われると、言葉が出てこなかった。嫉妬。羨望。劣等感。怒り。成り上がりたいという欲。生まれへの恨み。全部だ。
だが、あの瞬間の俺は、もっと単純だった。
今、押せば。
ただ、それだけだった。
今ここで少し腕を動かせば、アルスは落ちる。落ちれば死ぬ。死ねば、あの光は消える。俺の目の前から消える。俺を惨めにするものが消える。あいつに与えられたものが、空席になる。
その空席に、自分が座れるかもしれない。
思った。
思ってしまった。
そして体が動いた。
「……羨ましかった」
俺は言った。
あまりに小さな声だった。
リーネは黙っている。
「アルスは、何でも持っていた。家も、金も、剣を学ぶ時間も、人から好かれる性格も、神に選ばれるだけの何かも。俺には何もなかった。俺は、毎日泥の中で働いて、手を荒らして、背中を痛めて、それで終わるはずだった」
言いながら、自分の声が言い訳じみていることに気づいた。
いや、言い訳そのものだった。
生まれのせい。家のせい。神のせい。世界のせい。
俺はずっと、そうやって自分を保ってきた。あの日もそうだった。
俺が悪いのではない。俺をこんな場所に置いた世界が悪い。
アルスばかりに与えた神が悪い。
そんなふうに思わなければ、自分の中に湧いた黒いものを直視できなかった。
「だから殺したの?」
リーネが尋ねた。
俺は顔を上げられなかった。認めるしかなかった。
「……そうだ」
ここで、違う、と言うことはできた。魔物に追われていた。混乱していた。助けようとして間に合わなかった。そんなふうに嘘を重ねることも、まだできたかもしれない。だが、もう意味がなかった。俺の罪は暴かれている。エスカが証言した。クラウスの手紙が残っていた。セレナの調査もあった。神殿は偽の紋章を剥いだ。
それに、これ以上嘘をつく気力がなかった。
「俺はアルスを殺した」
口にすると、部屋の空気が少し重くなった気がした。
「名前を騙ったわけじゃない。俺は俺の名前で勇者になった。でも、その資格はアルスのものだと思っていた。あいつが歩くはずだった道を、俺が奪った」
リーネはしばらく何も言わなかった。
その沈黙の中で、俺は少しだけ期待していたのかもしれない。自分でもおぞましいと思うが、確かに期待していた。俺が正直に話せば、彼女の中にほんのわずかでも揺れが生まれるのではないか。俺が醜さを認めれば、少なくとも最後の言葉くらいは聞いてもらえるのではないか。
俺はまだ、許しの破片を探していた。
リーネは言った。
「それで、世界は救われた」
俺は目を上げた。
彼女は俺を見ていた。
「兄を殺したあなたが、兄が歩くはずだった道を奪って、その道の先で魔王を倒した。王都は救われた。国境の町も、焼かれずに済んだ。魔物の群れに怯えていた村も、あなたたちに助けられた。私はそれを知っている」
リーネの声は淡々としていた。
だからこそ、胸に響いた。
知らないでいてくれた方がよかった。俺が救ったものなど見ずに、ただ憎んでくれた方が楽だった。魔王討伐も、旅の苦しみも、仲間との戦いも、すべて偽物だと切り捨ててくれた方が、俺はもっと単純に罪人でいられた。
だが、リーネは知っている。
知ったうえで、俺を殺すために来ている。
「なら……」
俺は言いかけた。
なら。
なら何だ。
なら少しは。なら俺にも。なら死なずに済む道は。
そう続けようとした自分に気づいて、吐き気がした。
俺はまだ命乞いをしようとしている。
リーネは、俺の言いかけた言葉を待たなかった。
「でも、兄は戻らない」
その一言で、俺の言葉は消えた。
「クラウスさんも戻らない。セレナさんも戻らない。セレナさんのお腹にいた子も戻らない」
リーネは、ひとつひとつ名を置くように言った。
「あなたが救った人たちは、確かにいる。そこまで嘘だったとは言わない。けれど、あなたが殺した人たちも、確かにいる」
俺は唇を噛んだ。
血の味がした。
「殺した人より多く救えれば、殺した事実は薄まるの?」
リーネの問いは静かだった。
俺は答えられなかった。
ずっと、その計算をしてきた気がする。
一人殺した。なら十人救えばどうか。
十人では足りないなら百人。
百人で足りないなら国を。
国で足りないなら世界を。
俺は世界を救った。
それでも、アルス一人の死は消えなかった。
クラウス一人の死も、セレナ一人の死も、腹の子一人の死も、消えなかった。
命は数ではなかった。
そんな当たり前のことを、俺は最後まで受け入れられなかったのかもしれない。
「兄は、最期に何か言った?」
リーネが尋ねた。
俺は体をこわばらせた。
アルスの最期。
ずっと耳の奥に残っている声がある。
あいつは最期に俺を許さなかった。美しい神託者のまま、俺に赦しを与えてはくれなかった。血に濡れ、痛みに顔を歪め、俺を見て、言った。
その言葉を、俺は七年、呪いとして抱えてきた。
「……俺がいないと、お前は何者にもなれない、と」
リーネの目がわずかに揺れた。
「あいつは、確かにそう言った。最後まで俺を下に見ていた。自分がいなければ、俺は何にもなれない人間だと。友だと言って、必要だと言って、その奥では俺を哀れんでいた」
口にしているうちに、胸の奥に昔の怒りが蘇った。
あの言葉は、俺を支えた。
歪んだ形で。
俺はアルスなしでも勇者になれる。俺はお前に引き上げられなくても、人を救える。魔王を倒せる。そう証明したかった。七年間、どこかでずっとそう思っていた。
だが最後に、俺はクラウスとセレナを殺した。
アルスの言葉は、正しかったのかもしれない。
その考えが頭をよぎったが、俺は見ないふりをした。
リーネはゆっくりと目を伏せた。
「兄らしくない言葉ね」
「そうだな」
「でも、兄も人間だったから」
俺は何も言えなかった。
その通りだった。
アルスは神託を受けた。だが、神そのものではなかった。明るく、善良で、誰にでも優しかった。それでも、殺されれば憎む。裏切られれば呪う。その人間らしさが、今さらになって俺の胸を抉った。俺はアルスを光として見すぎていた。光だから憎んだ。光だから奪った。だがアルスも、ただの人間だったのだ。
俺と同じように、死にたくなかったはずだった。
「私は、あなたが世界を救ったことを忘れない」
リーネが言った。
俺は思わず彼女を見た。
「忘れない。兄を殺した男が、世界を救ったことも。多くの人を助けたことも。たぶん、あなたが途中から本当に勇者であろうとしたことも」
その言葉は、優しさに聞こえた。
一瞬だけ。
だが次の言葉で、すぐにそうではないと分かった。
「でも、それを覚えていることと、あなたを許すことは別よ」
リーネの目は冷えていた。
俺は口を開いた。
何かを言いたかった。
許してくれ。
死にたくない。
俺は本当に変わろうとした。
俺だって苦しんだ。
俺だって。
どれも、言葉にならなかった。
リーネは立ち上がった。
椅子の脚が石床を擦る音がした。兵士が少し動く。面会の終わりだった。
「今日、私が剣を振る」
リーネは言った。
「王は、私にそれを許した。兄のためだと言われたわ。クラウスさんのため、セレナさんのため、あの子のため、あなたに殺された人たちのためだとも」
彼女はそこで一度、言葉を切った。
「でも本当は、私のためよ」
俺は眉を動かした。
「私が、あなたを殺さなければ終われないから」
その声に、初めて感情が混じった。憎しみだけではない。悲しみでもない。もっと疲れた、すり減ったものだった。
「兄は戻らない。あなたを殺しても、誰も戻らない。そんなことは分かっている。それでも私は、あなたが生きている世界で、これからも兄のことを思い出し続けるのが、嫌なの」
リーネは俺を見た。
「だから、私はあなたを殺す」
正直な言葉だった。
裁きだとか、神の意思だとか、王国の法だとか、そういう綺麗な布をかぶせていない。ただ、自分のために殺すと言った。
その瞬間、俺は初めてリーネを少しだけ理解した気がした。
俺も同じだった。
俺はアルスが生きている世界で、自分の惨めさを思い出し続けるのが嫌だった。だから殺した。リーネは、俺が生きている世界で、兄を奪われたことを思い出し続けるのが嫌だと言う。だから殺す。
同じではない。
同じにしてはいけない。
それでも、人が人を殺すときの理由は、驚くほど小さく、醜く、個人的なのかもしれなかった。
「……そうか」
俺はそれしか言えなかった。
リーネは扉へ向かった。
その背中に、俺は思わず声をかけた。
「リーネ」
彼女は振り返らなかった。
「俺は……」
謝るべきだった。
今度こそ。
だが、喉の奥から出かけた言葉は、また別のものだった。
「俺は、死にたくない」
リーネの肩が、ほんの少しだけ動いた。
兵士が俺を睨んだ。罪人が何を言っているのか、という顔だった。俺自身もそう思った。なぜ今そんなことを言う。なぜ最後まで、自分の命の話をする。アルスに。クラウスに。セレナに。腹の子に。俺は死にたくなかったなどと、言える立場ではない。
それでも、言葉は出てしまった。
「死にたくない。俺は、まだ……」
まだ何だ。
まだ償える。
まだ生きて苦しめる。
まだ何かできる。
そう言えば、少しはましだったのかもしれない。
だが本当は違う。
ただ生きたかった。
どんな形でもいいから、明日が欲しかった。
リーネはゆっくりと振り返った。
その目には、涙はなかった。
「兄も、そうだったと思う」
それだけ言って、彼女は部屋を出ていった。
扉が閉まる。
重い音がして、俺は椅子の上に残された。
しばらく、何も考えられなかった。
アルスも、死にたくなかった。
その当たり前の事実が、今さら俺の胸に落ちてきた。俺はあいつを神託を受けた者として見ていた。選ばれた者として見ていた。俺と違う場所にいる光として見ていた。だから、あいつも死を怖がる人間だということを、都合よく忘れていた。
俺が押したとき、アルスは死にたくなかった。
クラウスも。
セレナも。
腹の子は、死にたくないとすら言えなかった。
そして俺も、死にたくなかった。
兵士が近づいてきた。俺を立たせる。足に力が入らず、よろめいた。兵士は無言で腕をつかんだ。廊下へ出ると、朝の光がさっきより少しだけ強くなっていた。
処刑の時刻が近い。
俺は歩きながら、リーネの最後の言葉を何度も思い返した。
兄も、そうだったと思う。
何の救いにもならない言葉だった。
むしろ、俺の中に残っていた言い訳を、ひとつずつ剥がしていく言葉だった。神託を受けたから。光の側の人間だから。自分とは違う場所にいたから。そんな理由で、アルスの死をどこか物語の出来事のように扱っていた自分がいた。
違う。
あいつは人間だった。
俺が殺したのは、人間だった。
その事実を抱えたまま、俺は処刑台へ向かう階段を上った。




