終章 第3話 告発者エスカ
エスカは、いつも逃げることを考えている女だった。
斥候という役目には向いていたのだと思う。足音を殺すのがうまい。息を潜めるのもうまい。危険を察するのも早い。森の中では誰より先に獣の匂いに気づき、廃村に入れば誰より先に罠を見つけ、魔王領の黒い岩場では、遠くの魔物の影を見ただけで進むべき道と避けるべき道を判断した。
けれど、臆病だった。
戦いが始まる前には顔色を悪くし、強い敵が出れば真っ先に後ろへ下がり、休息中も少しの物音で肩を跳ねさせた。クラウスはそれをよくからかった。セレナは「臆病なのは長所でもある」と真面目に慰めた。俺は、笑いながら二人の間を取りなしたことがある。
あの頃の俺たちは、仲間だった。
たぶん、本当に。
少なくとも、俺はそう思っていた。思いたかった。嘘から始まった関係でも、長い旅の中で積み重ねたものはある。命を預け合い、夜を越え、死地を抜けた。魔王の爪が迫った瞬間、エスカは震えながらも俺の背後へ短剣を投げた。セレナの詠唱を守るために、クラウスは盾を砕かれても立ち続けた。俺も逃げなかった。
そういう時間は、確かにあった。
だからこそ、エスカが証言台に立つ姿を見たとき、俺の胸には奇妙な感情が湧いた。
恨みではなかった。
いや、恨みもあったのかもしれない。あいつが逃げたから俺はここにいる。あいつが告発したから、俺の嘘は終わった。そう思う自分がいないわけではない。だが、それ以上に強かったのは、恐れに似たものだった。
エスカは生きている。
俺が殺しそこねた証人が、生きている。
王都の裁判所は、広場ほど大きくはない。だが、その日、中には入りきらないほどの人が詰めかけていた。俺はすでに罪人として鎖につながれ、中央に立たされていた。王族の席、神官の席、貴族の席、そして傍聴を許された市民たち。誰もが俺を見ていた。魔王を倒した勇者としてではない。偽物として。人殺しとして。
俺はその視線に耐えながら、エスカが呼ばれるのを聞いた。
エスカは、ひどく痩せていた。
旅の頃から小柄ではあったが、裁判の日の彼女は、影のように細かった。頬はこけ、髪は短く切られている。あの夜、俺から逃げるために自分で切ったのだろう。首元にはまだ包帯が巻かれていた。俺の刃がかすめた傷だ。
彼女は証言台の前で足を止めた。
俺を見た。そして、すぐに目を逸らした。
その仕草が、やけに胸に刺さった。エスカは昔から俺を怖がっていた。いや、正確には、俺だけではなく、強い者や大きな声や、予測できない暴力を怖がっていた。だから俺は、旅の途中から彼女の前ではあまり声を荒げないようにしていた。夜番で交代するときは、わざと先に声をかけた。背後から近づくと本気で怯えるからだ。
俺は、それを覚えている。
覚えているのに、俺はあの夜、彼女を殺そうとした。
「証人エスカ」
裁判長役の神官が言った。
「あなたは、罪人ユリスとともに魔王討伐の旅に同行していましたね」
「……はい」
エスカの声は細かった。
だが、聞こえないほどではなかった。
「騎士クラウス、魔術師セレナともに、あなたは同じ一行であった」
「はい」
「その二名を殺害したのは誰ですか」
裁判所の空気が固まった。
エスカは黙った。指先が震えている。彼女の手は証言台の縁をつかんでいた。逃げたいのだろう。今すぐこの場から消えたいのだろう。裁判所の壁も、王都の群衆も、俺の視線も、何もかもが彼女には怖いはずだった。
それでも、エスカは逃げなかった。
逃げ続けてきた女が、この場からは逃げなかった。
「……ユリスさんです」
彼女は言った。
さん、がついた。
その癖が残っていることに、俺は少しだけ息を詰まらせた。
「ユリスさんが、クラウスさんを殺しました。セレナさんも……殺しました」
周囲がざわめいた。
知っていたことだ。すでに調書にも書かれ、物証も出ていた。だが、生き残った仲間の口から直接語られると、同じ事実でも重さが変わる。俺は鎖につながれた手を握った。金属が小さく鳴った。
「詳細を述べなさい」
神官が言った。
エスカは小さくうなずいた。
「あの日、私たちはユリスさんに話をしようとしていました。クラウスさんは、最初から責めるつもりじゃありませんでした。セレナさんもです。私も……怖かったけど、ユリスさんに、逃げないでほしかった」
逃げないでほしかった。
その言葉は、七年前の俺にも向けられているように聞こえた。
アルスを殺したときも、俺は逃げた。
彫師を殺したときも、逃げた。
クラウスとセレナを殺したときも、逃げようとした。
俺はいつも逃げていた。
逃げているのに、前へ進んでいるふりだけはうまかった。
「クラウスさんは、手紙を書いていました」
エスカが言った。
「王様と神殿に出すつもりだったんです。ユリスさんが本当の勇者ではないかもしれないこと。勇者の証におかしなところがあること。でも、ユリスさんが救ってきた人たちのことも、ちゃんと書いていました。死刑にしないでほしい、償う道を探してほしいって」
俺は目を閉じた。
見たくなかった。
だが、目を閉じても声は入ってくる。
「クラウスさんは、ユリスさんを売るつもりじゃなかったんです」
エスカの声が少し震えた。
「一緒に行こうって言うつもりでした。全部話して、それから一緒に償おうって。セレナさんも、そう言っていました」
セレナ。
彼女の名が出るたびに、胸の奥が冷える。
あの夜、セレナは何かを言いかけた。俺は覚えている。彼女は俺の名を呼んだ。いつものように、少しだけ眉を寄せて、真面目な顔で。戦術の誤りを指摘するときも、薬草の量を確認するときも、彼女はああいう顔をした。
ユリス、私、あなたに言わなきゃいけないことが――
俺は遮った。
黙れ、と言った。
聞いていれば、何か変わったのか。
もしあの場でセレナが腹の子のことを言っていたとしても、俺は止まれただろうか。俺はその言葉に縋って、思いとどまれただろうか。それとも、さらに追い詰められたと感じて、もっと早く刃を振っただろうか。
分からない。
分からないが、俺は自分を信じられない。
「セレナさんは、何かを言おうとしていました」
エスカは続けた。
「でも、言えませんでした。ユリスさんが、聞かなかったから」
裁判所の空気が変わった。
責める声はなかった。だが、沈黙の質が変わった。俺がセレナを殺したことは、すでに知られている。だが、彼女が言えなかったことが何であったかを、人々は想像したのだろう。
腹の子。
俺はその言葉から逃げたかった。
「あなたは、その場にいたのですね」
神官が問う。
「はい」
「ユリスが、二人を殺すのを見た」
「……はい」
「あなた自身も、殺されそうになった」
エスカは包帯の巻かれた首元に触れた。
「はい」
「どうやって逃げたのです」
エスカはしばらく黙った。
それから、少しだけ唇を噛んだ。
「怖かったからです」
裁判所が、わずかにざわついた。
エスカは続けた。
「私は、ずっと怖がりでした。魔王領でも、村の討伐でも、夜番でも、いつも怖かった。だから逃げ道ばかり見ていました。入口がどこか、窓がどこか、床が滑るか、相手の足がどっちを向いているか。そういうことばかり考えていました」
彼女は一度、俺を見た。
今度は、すぐには目を逸らさなかった。
「だから、逃げられました」
その声には、誇りはなかった。生き残ってしまった者の疲れだけがあった。
俺は、確かに言ったことがある。
エスカは逃げ道を見つける天才だ、と。
褒めたつもりだった。実際、それは事実だった。その才能に何度も助けられた。魔王領の谷で、崩れた橋を渡らずに済んだのも、エスカが別の道を見つけたからだ。毒沼の手前で足を止めたのも彼女だった。
そのエスカの臆病さが、最後には俺の罪を暴いた。
「あなたは、なぜ告発したのですか」
神官が尋ねた。
エスカはうつむいた。
「怖かったです」
また、それだった。
「ユリスさんが怖かった。王都も怖かった。証言するのも怖かった。今も怖いです」
彼女の声は震えていた。
「でも、クラウスさんが手紙を書いていたから。セレナさんが、最後までユリスさんを止めようとしていたから。私だけ逃げたのに、何も言わなかったら、二人が何のために死んだのか分からなくなると思いました」
エスカは、そこでようやく泣いた。
静かな涙だった。声を上げるわけでも、崩れるわけでもない。ただ、目から涙が落ちた。
「ユリスさんは、魔王を倒しました」
彼女は言った。
その場にいる全員が、息を止めたように思えた。
「それは本当です。私は見ました。ユリスさんは逃げませんでした。私たちを助けてくれました。何度も守ってくれました。怖いときに、前に立ってくれました」
俺は顔を上げた。
エスカは泣きながら、俺を見ていた。
「だから、私は分からないんです」
その言葉は、罵倒より重かった。
「どうして、あの人がクラウスさんを殺したのか。どうしてセレナさんを殺したのか。どうして私まで殺そうとしたのか。魔王の前で逃げなかった人が、どうして、あのときだけ逃げたのか」
答えは簡単だった。
魔王より、過去の方が怖かったのだ。
魔王は倒せば終わる。魔王は敵だった。殺しても誰も俺を責めなかった。むしろ称えた。あの黒い王座の前で剣を振るうことは、勇者の行為だった。
だが過去は違う。
アルスを殺したあの日に戻されること。偽の紋章を暴かれること。俺が積み上げた七年間を、最初の罪の延長として見られること。救った人々の目が変わること。クラウスとセレナに軽蔑されること。エスカに怯えられること。
それが、魔王より怖かった。
俺は、そこで逃げた。
そして、逃げるために殺した。
「証言を終えます」
神官が言った。
エスカは深く息を吐いた。足元がふらつき、近くの係官が支えた。彼女はもう俺を見なかった。そのまま退室するのかと思ったが、扉の前で一度だけ立ち止まった。
そして、振り返らずに言った。
「ユリスさん」
昔と同じ呼び方だった。
「私は、あなたが怖いです」
そう言って、少し間を置いた。
「でも、あなたに助けられたことも、忘れられません」
それは、俺にとって救いではなかった。
むしろ、さらに深い場所へ落とされた気がした。
完全な悪人として憎まれる方が楽だった。全部嘘だったと言われる方が楽だった。俺が救ったものまで否定されれば、俺はただの偽物として終われた。だがエスカは、それを許さなかった。
助けられたことを覚えたまま、俺を告発した。
救われた記憶を持ったまま、俺を裁きの場へ引きずり出した。
それが正しかった。
正しいから、俺は苦しかった。




