終章 第1話 罪人ユリス
本作は、終章から始まり、第四章、第三章、第二章、第一章へと遡っていく構成です。
すでに最後まで書き上げており、各章5話構成+エピローグで全26話・約9万5千字ほどの中編になります。
投稿後に、表現の気になる部分などを多少修正することはあるかもしれません。
明るい話ではありません。
バッドエンド寄りで、罪や後悔を扱う内容です。
そのあたりが苦手な方はご注意ください。
興味のある方にお読みいただければ嬉しいです。
王都の広場は、人で埋まっていた。
魔王が倒された日の凱旋よりも、ひどい数だった。石畳の上に靴音が重なり、家々の窓からも人が身を乗り出し、屋根の上にまで子どもが座っている。兵士たちは何重にも柵を作っていたが、それでも群衆の熱は押し寄せてきた。祝祭の日と似ていた。いや、似ているのは人数だけだ。あの日、広場に満ちていたのは歓声だった。今日は違う。
今日は、俺の首が落ちる日だった。
処刑台の木は新しかった。わざわざこの日のために組まれたのだろう。荒く削られた板の匂いが、冷たい朝の空気に混じっていた。湿った木の匂い。鉄の匂い。人いきれ。遠くで誰かが吐いた罵声。それらがひとつになって、喉の奥に貼りついてくる。
俺は両手を後ろで縛られ、台の上に立たされていた。
逃げられない。
当たり前だ。足元には兵士がいる。周囲には魔術師がいる。首には封じの環が掛けられていて、体の奥を流れる力が鈍く締めつけられている。もっとも、俺は本物の勇者のような神聖な力など持っていない。だから封じられているのは、俺が血を吐くほど鍛えて得た身体の勘と、戦場で覚えた殺し方と、七年分の悪あがきだけだった。
それでも、逃げられないという事実は重かった。
死にたくない。
俺は、死にたくない。
その言葉だけが、朝からずっと頭の中を回っていた。処刑が決まった夜も、牢の中で眠れなかった。最後くらい潔く、などと何度も思った。俺はもう十分逃げた。もう十分奪った。ここで首を差し出せば、少しはましな死に方になるのかもしれない。そんなことを考えた。だが夜が明け、足音が近づき、兵士が牢の戸を開けた瞬間、胸の奥から湧いてきたのは覚悟ではなかった。
怖い。
まだ終わりたくない。
俺はまだ、生きていたい。
その感情は、あまりにもみっともなかった。けれど、みっともないからといって消えるわけではない。世界を救った男でも、人を殺した男でも、首を落とされる直前にはただの肉の塊になる。血が流れ、息が止まり、視界が暗くなる。それが怖くないはずがなかった。
「偽勇者!」
群衆のどこかから声が飛んだ。
ひとつ投げ込まれた石のような声だった。それを合図に、周囲から別の声が続く。
「人殺し!」
「仲間殺し!」
「本物の勇者を殺した!」
そして。
「腹の子まで殺した外道!」
その声に、広場が一瞬ざわめいた。知っている者と、今初めて聞いた者が混じっているのだろう。俺は顔を上げない。上げれば、誰かと目が合う。俺を憎む顔。俺を見下す顔。かつて俺に向けられたものとは逆の顔。そういうものを見るだけで、胸の奥が嫌な形に縮む。
腹の子。
その言葉は、何度聞いても慣れなかった。
セレナの腹にいた子のことだ。俺の子だった。そう言われている。たぶん、そうだったのだろう。俺は、その子の顔を知らない。声も知らない。名もない。名をつける前に、命として数えられる前に、俺が殺した。
いや、正確には、俺が殺したのはセレナだ。セレナを殺した結果、その子も“死んでしまった”のだ。
自分の犯した罪の意識を少しでも軽くするための、卑しい分け方だった。直接刃を向けた相手はセレナだ。腹の子を狙ったわけではない。知らなかった。あのとき俺は知らなかった。だから、だから何だというのだろう。知らなければ殺していいのか。知らずに踏み潰したものは、踏み潰した数に入らないのか。
そんなはずはない。
分かっていた。分かっているのに、心のどこかでまだ言い訳を探している。俺は最後まで、そういう男だった。
処刑台の下に、告知役の役人が立った。白い髭を整えた男で、式典で王の命を読み上げるのを何度か見たことがある。魔王討伐の報告のときにも、同じような声で俺の名を呼んだ。あのときは、勇者ユリス、と呼んだ。今日は違う。
「罪人ユリス」
彼は、広場によく通る声で言った。
勇者という言葉はなかった。
「汝は神託を偽り、勇者の証を騙り、神託を受けし者アルスを殺害した。また、虚偽の身分をもって王国を欺き、魔王討伐の任に就き、その後、罪の露見を恐れて騎士クラウス、魔術師セレナを殺害。さらに斥候エスカをも殺害しようとした」
名前が読み上げられるたび、俺の体のどこかが軋んだ。
アルス。
クラウス。
セレナ。
エスカ。
名前は厄介だ。数ならまだいい。二人殺した。三人殺した。そう数えれば、事実は乾いていく。だが名前があると、顔が戻ってくる。声が戻ってくる。手の感触が戻ってくる。
アルスが笑う顔。
クラウスがまっすぐに俺を見た目。
セレナが、何かを言いかけて閉じた唇。
エスカが血のついた床を這いながら、それでも逃げようとした背中。
俺は目を閉じた。
目を閉じても消えない。
「その罪、王国法および神殿法により、斬首をもって償わせるものとする」
広場がどっと沸いた。
歓声ではない。怒号だ。喜びでも、悲しみでもなく、人が人の死を見に集まったときの熱だった。俺はかつて、この熱を魔王に向ける側にいた。人々は魔王を憎み、魔族を恐れ、俺たちにすがった。救ってくれと叫んだ。頼む、勇者様、と泣いた。その声に応えるために、俺は戦った。嘘ではない。本当に戦った。何度も死にかけた。逃げずに剣を取った。誰かを庇った。傷を負った。夜中に震える手を押さえながら、次の戦いの作戦を考えた。
それは、なかったことになるのか。
その問いが、また胸の奥に浮かんだ。
俺は魔王を倒した。
これは事実だ。
俺がいなければ、あの戦いは勝てなかった。クラウスも、セレナも、エスカも、それを知っていた。王国も知っている。民衆だって知っているはずだ。俺が剣を振った。俺が前に出た。俺が最後に魔王の胸を貫いた。
それでも、俺はここにいる。
俺は思った。
なぜだ。
なぜ、なぜ、なぜ。
なぜ、救った命は俺を救ってくれない。
すぐに、もう一人の俺が答えた。
殺したからだ。
それで終わりだった。
何を積み上げても、その下に死体があれば、いつか崩れる。俺はそれを知っていた。知っていたはずだった。だからこそ、崩れないように必死だった。嘘を嘘で固め、罪を功績で覆い、偽物の名を本物に近づけるために努力した。剣を握った。血を流した。人を救った。勇者であろうとした。
それなのに、最後にはまた殺した。
クラウスを。
セレナを。
自分を救おうとした者たちを。
台の下で、人が動いた。兵士たちが左右に分かれる。そこから一人の女が歩いてくるのが見えた。
リーネだった。
アルスの妹。
俺が殺した、神託を受けた男の、残された家族。
彼女は黒い服を着ていた。喪服というほど重々しくはないが、祝祭用ではない。腰には剣がある。処刑人の大剣ではなく、よく手入れされた片手剣だった。俺はその剣を知っている。アルスの家にあったものだ。昔、アルスが見せてくれたことがある。ゆくゆくは父から譲られるものだ、と笑っていた。
なぜ、リーネがそれを持っている。
分かっている。
今日、俺の首を落とすのは彼女だ。
王は、それを許した。神殿も反対しなかった。神託を受けた兄を奪われた家に、最後の裁きを与える。そういう形にしたのだろう。政治的にも、民衆感情にも、都合がいい。俺はそういうことを考えてしまう。首を落とされる寸前にも、まだ物事の裏側を見ようとする。嫌になるほど、俺は俺だった。
リーネは処刑台に上がった。
近くで見ると、彼女の顔はひどく白かった。怒りで赤くなっているのではない。泣きはらして腫れているわけでもない。ただ、血の気がなかった。目だけが、静かに俺を見ている。
「ユリス」
彼女は言った。
勇者とは呼ばなかった。罪人とも呼ばなかった。
ただ、俺の名を呼んだ。
それだけで、胸の奥に妙な痛みが走った。俺は昔、彼女に何度も名前を呼ばれている。アルスの家に遊びに行けば、リーネはまだ幼く、兄の後ろから顔を出していた。ユリス兄ちゃん、と呼ばれたことさえある。俺はその家の台所で、白いパンをもらったことがある。自分の家ではめったに出ない柔らかなパンだった。アルスは何でもないことのようにそれをちぎり、俺に渡した。
俺は笑って受け取った。
そのとき俺は、アルスを殺すなど思っていなかった。
本当に、思っていなかったのか。
分からない。今となっては、自分の記憶さえ信用できない。嫉妬はいつからあったのか。憎しみはいつから膨らんでいたのか。最初から俺の中にあったものを、俺は親友という名前で隠していただけではないのか。
「何か、言うことはある?」
リーネが尋ねた。
広場が静かになった。誰もが俺の言葉を待っている。謝罪か。弁明か。命乞いか。あるいは、勇者らしい最期の言葉か。
俺は口を開いた。
喉が渇いていた。声が出ないかと思った。
「……俺は」
俺は何を言おうとしたのだろう。
すまなかった。
それが正しい。
アルスを殺してすまなかった。
クラウスを殺してすまなかった。
セレナを殺してすまなかった。
腹の子を殺してすまなかった。
エスカを殺そうとしてすまなかった。
王国を欺いてすまなかった。
世界を欺いてすまなかった。
そう言うべきだった。
けれど、舌の上に最初に乗ったのは、別の言葉だった。
「俺は、魔王を倒した」
言った瞬間、広場がざわめいた。
リーネの表情は変わらなかった。
俺は自分で自分の声を聞きながら、心底嫌になった。最後の最後まで、俺はこれを言うのか。俺はまだ、これを盾にするのか。分かっている。魔王を倒したから何だ。救ったから何だ。殺した者たちが戻るわけではない。そんなことは、誰よりも俺が分かっている。
それでも、言わずにいられなかった。
見てほしかった。
俺がしたことの全部を。
最初の罪だけではなく、その後の七年も。偽りの証の下で積み上げたものも。吐くほど鍛えたことも。眠れない夜も。救った村も。守った子どもも。魔王の前に立ったことも。
俺は、ただの詐欺師ではなかった。
そう思ってほしかった。
リーネは静かに言った。
「知っているわ」
その声は、思っていたよりも柔らかかった。
「あなたが魔王を倒したことは知っている。兄が歩くはずだった道を奪って、その道の先で世界を救ったことも知っている」
俺は息を呑んだ。
彼女は知っている。
知ったうえで、ここにいる。
「でも、兄は戻らない」
リーネは言った。
「クラウスさんも、セレナさんも、あの子も戻らない」
あの子。
まだ生まれていない子にまで、彼女はそう言った。
俺の胸の奥で何かが崩れた。叫びたくなった。違う、と言いたかった。何が違うのか分からない。全部その通りだ。彼女は何も間違っていない。間違っていないから、俺は反論できない。
「あなたが救った世界に、あなたの罪を消す場所はなかった」
リーネの言葉は、刃より先に俺を斬った。
俺は視線を落とした。
処刑台の板が真新しい。俺の血が、最初につくのだろう。妙なことを考える。どうでもいいことばかりが頭に浮かぶ。死にたくない。息をしたい。明日の朝を見たい。牢でもいい。鉱山送りでもいい。誰からも憎まれながらでもいい。生きていれば、いつか何かできるかもしれない。償えるかもしれない。いや、本当は償いなどではない。生き延びる理由を探しているだけだ。
俺は最後まで、命が惜しかった。
神よ。
そう思った。
神よ、俺はどうしても許されないのか。
生まれが違えば、俺は違ったのではないか。あの農村の泥の中で、毎日手を荒らし、背を曲げ、アルスの光を横目で見ていなければ、俺はここまで歪まなかったのではないか。俺だって努力した。俺だって変わろうとした。勇者であろうとした。そうであろうと努めてきた。
それでも、駄目なのか。
神は答えなかった。
当然だ。
今までだって、一度も答えなかった。
リーネが剣を抜いた。
刃が朝の光を受ける。曇っているはずなのに、その一瞬だけ白く光った。俺は膝をつかされる。首を置く台はない。斬首といっても、形式はいくつかある。俺は首を差し出す形で前に倒され、兵士に肩を押さえられた。
木の匂いが近い。
広場の音が遠くなる。
俺は口を開いた。
今度こそ謝罪を言うべきだった。
だが、出た言葉はまた違った。
「俺は……勇者に、なりたかっただけなんだ」
情けない言葉だった。
言った瞬間、自分でも分かった。そんなものは、殺された者たちには何の関係もない。なりたかったから何だ。欲しかったから何だ。選ばれなかったから何だ。欲しいものがあった人間は、奪っていいのか。
いいわけがない。
リーネは答えなかった。
それでよかった。
答えられていたら、俺はさらに何かを求めてしまったかもしれない。許しではなくても、同情でもなくても、俺の言葉に何らかの反応があるだけで、俺はそこに意味を探しただろう。最後まで自分を救うものを探しただろう。
剣が上がる気配がした。
俺は目を閉じようとした。
けれど、できなかった。
閉じれば、アルスの、最後まで俺を信じていた顔が浮かぶ気がした。
クラウスの、いつも俺の前にあった背中が浮かぶ気がした。
セレナの、言いかけたまま途切れた声が聞こえる気がした。
エスカの、怯えきった目が暗闇に残る気がした。
だから俺は、目を開けたまま、最後を待った。
手は、後ろで縛られていた。
この手が、最初にアルスの背中を押した。
それから七年、剣を握り、人を救い、仲間を殺した。
最後にこの手は後ろで封じられ、俺は首に落ちる刃を待っていた。




