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かわいいかわいい

——それは、もはや神事でも奇跡でもなかった。


陣痛開始から、丸二日が経とうとしていた。


深夜、王宮の一室。白く清められた布が敷き詰められた真珠の私室が、即席の神域として静かに変貌していた。


香は簡略化された。

祝詞も短縮された。

衣装なんて着ている余裕もなかった。


真珠は、すでに何度目か分からない痛みに身を折り、天井を見つめながら、ただ静かに、深く、息を吐いていた。


眠れない。

食べられない。

水もろくに喉を通らず、冷や汗で衣が何度も取り替えられた。


初めはまだ喋れていた。少し笑ったり、「こんなの想像してなかった」と呟いたり。


でも今は、ただ——耐えている。


時間の感覚は、とっくにおかしくなっていた。


痛みの波は、容赦なく数分ごとに押し寄せてきて、そのたびに体の奥が裂けるような衝撃が走る。


「っ……ぁああああああッッ!!」


叫んでも、声はすぐに掠れる。息が追いつかず、頭がぼんやりしていく。


女官が冷やした布を首筋に当てる。誰かが手を握っている——でもそれが誰なのかも、もはや判然としない。ただ、唯一わかるのは、その手が、異様に熱いということ。


「真珠……」


低い声が、耳元で呼ぶ。それは、もう何十回も聞いた声。でも今は、どこか違って聞こえた。


「真珠、俺の声がわかるか」


「……ん……ぅ……」


「まだ産まれないのか」


その言葉に、誰かが鋭く睨んだのがわかった。


ウル。

 

あの冷静で傲慢で、何をされても動じないはずの王太子が——焦っていた。


助産師が静かに答える。


「子の頭はもう下がっています。ですが……時間が……」


気配が揺れた。ウルが、声を落として問う。


「命に、関わるか」


その言葉に、女官が目を伏せる。神官は祈りの言葉を重ねる。でも、誰も——誰も、「大丈夫」とは言わなかった。


「……最悪の事態に備えておけ」


低く、医師に告げる。それは万が一、母子が危険に陥った場合の最後の選択。言わずもがな、ウルの選択は最初から決まっている。彼は、真珠の耳元に顔を寄せた。


「……ここで、お前を失うわけにはいかん」


その声は震えてはいなかった。それでも、奥底に何か張りつめたものが滲んでいた。


真珠は、目を開けようとした。でも瞼が重い。指先も動かない。


(……眠い……でも……寝たら、たぶん、起きられない……)


意識が、削れていく。でも痛みだけは、最後の最後まで、手を抜かない。


「——ッ、うぁあああああああッッ!!」


叫ぶ。

泣き叫ぶ。

あらゆる品位も、神聖も、どうでもよくなる。


ただ、産みたい。

ただ、終わってほしい。

ただ、この子に会わせてほしい——


ウルの手が、強く真珠の手を握る。


「産め。生きて、産め」


「っ……い……た、い……」


「全部、終わったら……俺が、報いる。だから……」


声がかすれた。ウルが、喉の奥で何かを飲み込むような音を立てたのがわかった。いつも、命令しか口にしない男が。この夜だけは、祈るような声をしていた。


「……死ぬな、真珠……」


その言葉を、薄れゆく意識の中で聞いたとき——

真珠の目から、ぼろりと一筋、涙が落ちた。


「ウ、ル」


「……どうした」


――もう、限界だった。


痛い。痛い。息が吸えない。叫ぶ余裕もない。陣痛は終わることなく波のように押し寄せ、身体のすべてを引き裂こうとしていた。


「ひっ……あ、あっ、あああああ……っ!」


声にならない叫びが喉から漏れるたび、額からは滝のような汗。握りしめたシーツは湿り、唇は血が滲むほど噛んでいた。


それでも――脳裏には、彼の言葉がこびりついて離れない。


《俺の印は刻む》


(なんで今思い出すの!?)


いや、違う。思い出しているんじゃない。刻まれる予感が、痛みの中にねじ込まれてくるのだ。


――ウルならやりかねない。

――産んだ瞬間、気が緩んだ隙に“何か”を刻まれる。

――産んだ身体に、産まれた意味を、奴は“証”として残したがる。


真珠は、死ぬほど不安だった。


「ねぇっ」


今、会陰の裂けるような痛みの真っ只中。なのに、彼女は叫んだ。


「さっき言ってた……! 印って!!」


「な、なにを……?」と、医師たちの動揺を背に、真珠はほぼ絶叫する。


「変なことしないよね!? もうっ、私、耐えてんのに……っ、そんな、印とか……ッ!」


目は血走っている。唇は震え、息は乱れ、身体は激痛に晒されながら、彼女の心はそれ以上に追い詰められていた。


「やらないよ! 変な印はっ! 絶対!! 絶っっ対に、やらないからね!!!」


その時。傍らに控えていたウルが、静かに――だが、妙に深く――目を細めた。


「……何を、“変”と定義するか、だな」


「ひっ……っ!?」


やめてその顔!なぜそこで思案するの!?今考えないでよ!


「やめてぇぇええ!!!」


再び、陣痛の波が押し寄せる。思考が引き裂かれる。


(絶対嫌ーーー!!)


痛みと闘うはずの戦場で、真珠はなぜか刻印される恐怖とも戦っていた。


先ほどまで暗かった室内が、真珠のおかげで一気に活気付く。一瞬死の影さえ意識させられていたにも関わらず。


「大した女だ。さすが、俺の嫁」


ウルは口元にいつもの不敵な笑みを浮かべていた。


痛みの頂点と恐怖の極点。そのすべてを塗り潰すように——それは、静寂の中で始まり、やがて、この世で最も原始的で神聖な叫びで幕を下ろした。


真珠の体はもう限界を越えていた。睡眠は取れず、水も通らず、意識も途切れがちだった。


なのに。


命を押し出す力は、体のどこから湧いたのか分からないほど、確かに残っていた。


「っ、う……ッ、はぁ……! ッ……!」


「深く吐け。力は入れるな、最後で使え」


ウルの声が背後から届く。彼はずっと、ずっと、真珠の腰と背を支えていた。この二日間、一度も離れていない。


「お前は……」


彼が言いかけたとき、また強烈な陣痛の波が真珠を襲う。


「っああああああ!!」


天を仰いで叫びながら、真珠はウルの手を掴んだまま、必死に耐える。指先が白くなるほど力を入れて、喉が張り裂けそうな声をあげながらも、彼女の口は震えながら言葉を継いだ。


「次、変なことするなら……逃げるからね!ほんとに!」


「……逃げる?」


ウルの表情がわずかに揺れた。


「そうよ!印だとかなんとか、また私に変なことしたら、産まれてすぐ赤ちゃん抱えて逃げるから!!」


「……」


「ほんとに!走れるから!気力で!!」


そんな無茶なことを、陣痛中の女が言うなんて――だが、彼女の声にはそれだけの強さと覚悟が宿っていた。自分が壊れても、赤ん坊だけは守るという、母親の本能だった。


しばらく黙っていたウルの瞳が、じっと真珠を見つめたまま細くなる。


「……逃がすか」


その低く囁かれた言葉に、真珠は「はあぁ!?」と叫んだあと、また波のように押し寄せる痛みにのまれて声にならない悲鳴をあげる。


「ひい、いいいぃ……!!っは、はあ……!ほんとにぃい!!印だけはやめてええ!!」


助産師たちが後ろであわあわと取り乱していたが、もはや誰も止められない。


ウルは、苦しみながらも懸命に訴える真珠の額に静かに手を添え、そっと口元を近づける。


「……わかった」


彼は、少しだけ笑った。


「今回は、やめておいてやる」


“今回は”という一言がどうにも不穏だが、真珠はもうそれに抗議する力もなかった。


「ほんとに……やめてよね……あああああっ……!!!」


産むのに精一杯で、もう思考はぎりぎりだった。けれど、真珠の胸の中には一つだけ確かなものがあった。――私は、私の子を守る。絶対に。


そしてもう一つ。


「ウル、お願いだから……この瞬間だけは、父親でいて」


ウルの手のひらが、そっと真珠の指を包み込む。


「……俺は、父親だ。だが――」


耳元で、低く囁かれたその声は、凶悪な愛を含んでいた。


「それ以上に、お前の男だ」


その時だった。


どん、と内側から突き上げるような圧力。破裂するような激痛。


瞬間——


「ッッっっあああああああああああああああああッッ!!!!!」


それは、女の声とは思えない叫びだった。


悲鳴でも、命令でもない。ただの音ですらなかった。


命を押し出すという行為が、体を突き破って出た音。その声に、部屋にいた全員が静止した。


神官も、女官も、誰もが思った。


こんな叫び声、聞いたことがない。


涙を浮かべ、声を殺して手を握る女官の横で、助産師の手の中に、小さな、赤く濡れた塊が現れる。


「——っ……!」


しばしの静寂の後——小さな声が、震える空気を切り裂いた。


「……おぎゃあ……おぎゃああああああ!!!」


元気な、澄んだ、よく通る泣き声。


助産師が、赤子を胸に乗せながら、震える声で報告した。


「男の子……です……!とても、元気です!」


ウルの顔が一瞬、揺れた。信じられないものを見るような顔。そして、今まで一度も見せたことのないほど、やわらかな眼差しで——目の前の、全身汗まみれで横たわる女を見た。


「……真珠」


真珠は目をうっすらと開けた。顔には、滝のような汗。髪は頬に張りつき、喉は荒く震えていた。


だがその表情は、間違いなく、笑っていた。


「……産んだ、よ……」


かすれた声だった。でも、世界中のどんな歌より、神聖に響いた。


ウルは、そっとその手を取る。


強くは握らない。ただ、生きているその温もりを確かめるように、包み込んだ。


「よくやった……お前は、強い」


「……うん……でも……もう、動きたくない……一生、寝てたい……」


「寝ろ。俺が許可する」


女官がそっと子を包み、抱き寄せる。


真珠の腕の中に、小さな、湿った命が渡される。そして——その子もまた、力強く泣いていた。


不安でも、不満でもなく。ただ、生きるための声で。


新しい命が、確かにこの部屋に生まれた。


それは、神の言葉なんかよりも、遥かに——圧倒的な現実だった。


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