陣痛の予兆
出産の準備に明け暮れ、予定日が三週間後に迫ったある日の夜中。ふと目が覚めた瞬間のことだった。
「……ん……」
夜半。寝返りを打った瞬間、下腹部にずくん、と軽い痛みが走った。鋭い痛みではない。どちらかといえば、じわじわと内側から圧をかけられるような、鈍い痛みだった。
真珠は目を開け、ぼんやりと天井を見上げた。
(……寝違えた?いや、下の方……)
お腹をさすってみる。特に張っているわけでも、硬くなっているわけでもなさそう。だが、しばらくすると——すっと治まっていたはずの痛みが、再び、じわじわと戻ってきた。
「……また……?」
鈍痛。その直後、ゆるやかに収まっていく感覚。しばらく間を置いて、また同じ痛み。
時間を測る気力はなかったが、なんとなく、「一定間隔」でやってきている気がした。
(……まさか。陣痛……?いや、違う……でしょ? まだ三週間あるし……)
そう思いたかった。だが、それから朝にかけて、数回の周期的な痛みは、確かにあった。
起き上がり、鏡の前でうっすら浮かぶ自分の顔を見たとき——
「……ああ、これ……」
少しだけ、ゾッとした。
体は何も言ってこないのに、何かが、始まっている気がする。
だが、その日も日常は続いた。
女官は変わらず香を調え、神官は胎児の成長記録をつけ、そしてウルは、何食わぬ顔で在宅執務の合間に真珠の膝枕を狙ってくる。
「少し、横になっておく。ちょっとだけ、だるくて」
そう告げてベッドに潜ると、ウルはその脇に黙って座り、微かに腹を撫でてきた。
「……胎動、強くなったな」
「……うん……元気すぎるくらい……」
違和感がある。でも、言葉にするには弱すぎる。伝えたところで、ただの不安にしか聞こえない程度の痛み。それに、これまでの妊娠期間があまりにも順調だったせいで、おかしいと言い出すことすら、気が引けた。
(……考えすぎ、かな)
そう言い聞かせて、目を閉じた。
けれどその夜も、そして次の朝も——痛みは、確実に、間隔を保ちながらやってきていた。
神事の衣装は、すでに整っている。香の種類も、神殿の飾りも、祝詞も準備万端。すべてが予定通りの日に向けて整っているはずだった。
なのに、なぜか——
お腹の奥から、微かに聞こえるような気がした。
「まだか」と、「早く」と、「ここから出たい」と——少しずつ、不穏な現実が、形を成し始めていた。
そして——次の日、違和感は、静かに訪れた。その痛みは、二日目の昼、確信に変わった。
朝から感じていた違和感。軽いだるさと、繰り返す鈍い圧迫感。それが時間を追うごとに、少しずつ、でも確実に増していった。
「……っ……また……」
腹の奥がズキ、と締めつけられる息を吐いて、指先で静かに時刻を見る。
——27分後。次の痛み。
(……やっぱり……)
完全に、間隔がある。規則に見えて、でも繰り返す。波のようにやってきて、引いて、またやってくる。ただの体調不良じゃない。これは、出産に向けて体が変化している合図だ。
胸の奥がひやりと冷えた。
まだ、予定日までは三週間ある。神殿での儀礼出産の日は、きっちり整っている。あの馬鹿みたいな出産衣も準備万端。祝詞の読み手、香、寝台、全部。
でも。
「……この子、急いでる……」
ぽつりと呟いた声に、誰も反応しなかった。女官は今日も静かにお茶を淹れ、帳の外から香を焚いている。部屋には何も異変はない。誰も“切迫”など感じていない。——ただ、真珠の体だけが。ゆっくりと、でも容赦なく、ゴールに向かって進んでいる。
そしてその夜。
微弱陣痛は、ついに間隔20分を切った。
ウルは、書類を片づけながら真珠の隣に座っていた。毎晩のようにそうして、静かに「夜の時間」を過ごす。けれど今夜は——いつもと少しだけ、違った。
「お前、顔色が悪い」
ウルの声は、いつものように冷静で、整っていた。だが、真珠は答えない。いや、答えられなかった。ちょうどその時、腹の奥から強く、ズクンと突き上げるような痛みがきたから。
「……っ……っく……ぅ……!」
小さく呻いた。手が自然と腹に添えられ、額には汗が滲む。
その様子を見たウルの眉が、明らかに動いた。
「……おい」
声の質が変わった。先ほどまでの冷静な支配者の声ではない。もっと低く、圧を込めながらも、どこか切羽詰まった声。
「痛いのか……どのくらいの頻度で?」
「……もう……二十……分……切ってる……かも……」
「は?」
その一言で、空気が変わった。
ウルが立ち上がる。側近を呼ぶ鐘を叩くと同時に、部屋の帳がばさりと開かれる。女官たちが駆け寄ってきて、真珠を支える。ウルは真珠の腹に手を当てながら、顔を寄せた。
「なんで、もっと早く言わなかった」
「……わかんなかったの……ただの……お腹の痛みかと……」
言い訳ではなかった。ほんとうに、気づいた時には、もうこの状態だったのだ。
「……神事は?」
女官長が震える声で問う。
「……まだ、準備は……すべて予定日に向けて整えてあります……けれど、今日は……!」
ウルは静かに命じた。
「——代儀式を発動しろ」
その言葉が落ちた瞬間、女官たちは顔を強ばらせて一斉に動き出した。香。神札。簡易祭具。すぐに神殿には連絡が入り、神官補佐が向かってくる。
真珠は、揺れる視界の中で、ただ思っていた。
(……儀式、間に合わない……あの衣装……着てない……鎖、つけてない……香も、神前の寝台も……整ってない……)
でも、体は止まらない。命は待ってくれない。
遠くで祝詞の声が聞こえる。
ウルの手が、ずっと腹を支えていた。
「産め。ここで構わん。俺がすべて引き受ける」
その言葉が、呪いのように、神聖なように、真珠の脳に響いた。
陣痛の波が、ようやく一度、引いた。
全身から汗が噴き出していた。額を拭う女官の手のぬくもりも、冷やした布の感触も、どこか遠くで感じているようだった。
だがその瞬間——
「……あっ、ちょっと待って、今のうちに言っとくことある……!」
真珠は、はっと目を見開いた。ギラッとした視線で、すぐ隣に控えていた人物を睨む。
ウルだ。
正装の黒衣のまま、ほとんど微動だにせず腹を支えていた男に、真珠は容赦なく言い放った。
「……あの衣装……あの、出産衣……っ!」
「……?」
「着なくていいよね!?」
「…………」
「いいよね!?」
あまりの迫力に、女官が手を止めた。神官補佐が呪詞の読み上げを一瞬だけ詰まらせる。
真珠は本気だった。
今しかない。このタイミングで念押ししておかないと、きっと後で、じゃあ着ましょうって言われる。しかも後でのタイミングは、出産中か分娩台か分娩後のどれか。どれも無理である。
その真剣すぎる目を見て、ウルは一瞬、唇の端を動かした。
「……そうだな。着なくていい」
「ッしゃああ!!」
力強く、ガッツポーズを作る真珠。もはや脳内麻薬が出始めた彼女は、通常では考えられないくらいハイの状態だった。腹の痛みに耐えながらのガッツポーズ。神官たち、硬直。
だが、ウルはそのまま平然と続けた。
「——だが、代わりに祝詞の後、“俺の印”は刻む」
「は?」
「儀が省かれたなら、俺が記す」
「いやその、もっと痛いやつじゃない!?ねえ!?」
次の陣痛が来る前に何としても説得しなければ、と真珠は必死だったが、もう時間はなかった。
ズクン、と今までより強い痛みが腹を突き上げる。
「ッ……く、ぅ……っ!!」
「息を整えろ。背中を支える。深く吐け」
ウルの手が、背後から支える。香の匂いが立ち昇る。女官が濡れた布を首筋に当てる。神官たちが、簡略化された祝詞を詠唱しながら、床に神布を広げる。
床の中心、白い布の上——そこが今夜の神前となる。
正式な祭壇も、光の道も、あの宝石まみれの衣装もない。
でも今、ここに。命と神が交差する、“本当の奉納”の場が生まれようとしていた。
「……お腹……張ってる……すごい……」
「落ち着け。痛みに飲まれるな。俺の声を聞け」
「っ……ふ、ぅ……ッ、んん……!!」
波が高くなる。
神官の声が大きくなる。
真珠の体が熱くなる。
ウルの手が離れない。
「産め。今ここで。誰よりも美しく」
耳元で低く囁くその声に、真珠は、意識の最後の一線で思った。
(こんな格好で……神様、ごめん……でもきっと、あれを着るよりマシだった……うん……絶対……マシだった……!)
そして——そのまま、陣痛の波にのまれていった。




