産前産後休暇
産後――その言葉をふと思い浮かべた瞬間、真珠の背筋に冷たいものが走った。
(……出産のあと、私はどうなるの?)
出産が怖いわけじゃない。痛みに耐えられないとも思っていない。むしろ、ここまできたら腹を括るしかないとも思っている。でも、出産のあと――その「先」がまったく見えないのだ。
子どもが生まれたら、私はどうなるのか?自由になる? もっと閉じ込められる?「后」としての地位は? 「母」としての役割は?
……そして、ウルは?
(ウル……あの人、絶対、子どもにまで嫉妬する)
彼女の脳裏に、赤ん坊を抱く自分と、その背後でじっと見つめる紺碧の瞳が浮かぶ。きっと、寝室に赤子を入れるのを許さない。泣き声を聞かれただけで不機嫌になりそうだし、「俺以外に愛情を注ぐな」とか、平気で言いそうだ。
(授乳中も「それは俺のものだ」って言ってきそうだし、夜泣きで寝不足になっても、「それはそいつのせいじゃない。俺の抱き方が足りないだけだ」とか意味不明な解釈しそう)
真珠はそっと溜息をついた。身体はまだ重く、つわりも抜けきらないのに、精神だけがぐるぐると暴走していく。
「……こわいよ、ほんとに」
そんな時、ひょっこり現れたアサナが、彼女の顔を見てぴたりと足を止めた。
「その顔……何を想像しましたか?」
「産後に、私、寝かせてもらえるのかなって……」
「…………」
「もしかして、夜通し赤ちゃんとウルに挟まれて、私はどっちの授乳もこなさなきゃいけないんじゃないかとか」
「想像が妙に現実的で、否定できません」
ふたりはしばらく無言で見つめ合ったのち、肩を落とした。
「……アサナ、私、産後も地獄ですかね」
「……そう、ですね」
「笑えないよォ……!!!」
「真珠様……このままでは、今より――」
アサナは言いかけて、口をつぐんだ。言われなくてもわかる。真珠の産後は、現在よりもさらに過酷な地獄が待っていることが。
真珠はベッドの上で、ごろん、と枕に顔を押し付けた。
「やだぁぁあ……産んでも終わらない……!」
「むしろ“始まり”です」
アサナの声は、どこか他人事じゃない重さを帯びていた。というのも、彼女自身がウルの暴走を何度も間近で見てきたからだ。
「ちなみに、坊っちゃまは『出産直後は体を労るべき』と仰っていました」
「えっ、意外……」
「最低でも三日間はと」
「短ッッ!!」
「で、それを過ぎたら、母になった身体を俺に示せとも」
「何その母乳プレイ前提の発言……!!!」
アサナは目を伏せた。
「坊っちゃまは最近、育児書ではなく家畜繁殖マニュアルに手を出していました」
「……それはさすがに文化的にどうなの……アメニア王族……」
真珠は天を仰いだ。もう何がどうなっても不思議じゃない気がしてきた。
「ていうか赤ちゃんどうするの?夜泣きとかするでしょう?ウル、絶対起きるたびに『誰のせいで眠れないと思ってる?』とか怒ると思うの」
「間違いなく。多分赤子に真顔で説教します」
「で、私が抱っこしようとすると『俺が抱く。母は乳だけ出してればいい』ってくるわけね」
「否定は……できません」
「え、じゃあ私、産後は“ウルの愛情”と“赤ちゃんのお世話”で板挟み?」
「はい。しかも両方から“俺だけを見ろ”という視線を浴びます」
真珠は毛布をかぶった。
「もうやだぁああ!!私の時間どこぉお!!?」
「……坊っちゃまが奇跡の育児覚醒するか、神が味方してくれない限り……我々は詰んでます」
真珠はベッドでジタバタ暴れたが、腰が痛くてすぐ停止。
「あっ痛……つった……ふくらはぎつった……」
アサナは笑顔を浮かべたまま、淡々と患部をさすりながら言った。
「……手を、考えましょうか」
「え? 何の?」
「地獄から脱出するための、合法的・文化的にギリギリ通せる“妃殿下の自主的育児計画”です」
「えっ、あるの!? そんな計画!!」
アサナは表紙に【秘】と赤で書かれたバインダーをそっと取り出した。
「過去の、愛が重すぎる夫たちとの戦いの歴史を記録したアメニア式回避術大全、通称“アメニア逃げマニュアル”です」
「……なにその既婚女性のバイブルみたいなやつ」
「第三章、夫を育児から遠ざけるにはには、“姑を使え”と書かれております。姑の介入は聖なるものとして正当化できるんです」
「でもウルのママ、もうお亡くなりになられていなかった……?」
「……そうですね」
「うわ……詰んだぁ……」
その時、天からの啓示のように、真珠の頭にある案が浮かび上がる。
「ふふふ、じゃあこっちは法で攻めるしか……!」
薄く笑いながら書類にペンを走らせる真珠の手元には――【妊婦休暇申請書】という、まったくアメニア王宮には存在しない書類が作成されていた。
アサナはその横で、頭痛を堪えるように眉間を押さえている。
「……坊っちゃまに稟議書という概念が通じればいいのですが……」
「なんでも言えば叶うと思ってるもんね、あの人……」
「ですから、一応稟議書の最後には日本国における標準的な産前産後休暇の資料も添付してあります」
「ありがとうアサナ!これで……戦える!!」
真珠は書類をまとめると、決戦に臨む兵士のごとく立ち上がった。
王太子執務室──
「……それは?」
ウルは、豪奢な机に肘をつきながら、手渡された書類を一瞥した。
「えっと……日本の産前産後休暇では、出産前に6週間、出産後に8週間、計14週間、つまり3ヶ月半はお休みするのが一般的なんです。だから、私もその間は……政務も夜のお相手も、少しお休みさせてもらえたらと思って……」
真珠は丁寧に丁寧に口調を整えて説明した。
すると――
「……」
ウルの視線が書類に落ちた。静かにページを繰る。その仕草はまるで……一行一行、記された文字を舐め回すかのようなねっとりとした静寂。
(き、緊張する……!)
一分。
二分。
三分──。
「……面白い」
不意に、ウルの唇が綻んだ。
「つまり……我が后は、孕ませた相手にこの休暇を認可させたいと?」
「え、ええ……まぁ……」
「……では、答えよう」
ウルは、笑った。悪魔のように、神のように。狂愛を煮詰めたような、ぞっとするほどの笑みで。
「その十四週間、昼も夜も、俺が責任を持って后のすべてを安静に保たせていただこう」
「え、いや、あの、それじゃあ意味が……!」
「ひとりにさせるわけにはいかない。后は、俺が孕ませた命を抱えているのだから」
書類は、ウルの手の中で優雅に折りたたまれ、金の押印が押された。
「了承する。三ヶ月半。だが、俺も一緒に休む」
「な、なにその夫婦セット休暇!?」
「名案だろう」
(名案じゃない!むしろ地獄だよ!?)
だがその瞬間、アサナがそっと背後から肩を叩いた。
「……真珠様、王宮規則の第九条をご確認ください。認可された申請に対し、当事者の完全な随伴が義務付けられると明記されています」
(まさかの随伴!?まさかの!!)
真珠はその場に崩れ落ちた。
「……産休ってなに……?」
「……現実です」
「産休は……!妊婦さんのためのもの……!」
鼻息荒く立ち上がり、帳面を握りしめた真珠は叫んだ。まだ、負けていない!
「私だけのものよ!!妊婦本人のための休暇よ!王太子のための休暇じゃないの!付き添いとか、いらないの!!そもそも!休むって、人と距離を取るってことなの!!」
ウルは、そんな真珠をじっと見つめていた。いつものように微笑まない。言い返さない。ただ黙って、何かを確かめるように目を細め――
ぽつり、と。
「……つまり、俺を、遠ざけたいと?」
「えっ」
「俺がいると、休めないと?」
「ち、違う、そうじゃなくて、あの、いや……」
「俺の存在が、負担か?」
「いやいやいやいや……っ!」
真珠が慌てて両手を振る。しかし。
「では逆に問おう。俺と一緒にいることが、安らぎになるという妊婦がいたらどう思う?」
「そんな妊婦は絶滅危惧種よ!!」
「ここにいる」と、ウルは指を突き立てて真珠の腹を示した。
「お前が、俺の子を孕んでいる限り……俺はお前の一部だ」
「詭弁だわ!!存在がデカすぎるのよ、あなたは!」
「だからこそ。守らねばならん。心も体も、すべて、俺の手で」
「いや!違うの!そもそも産休っていうのはね!!」
真珠が必死に、資料を広げて言う。
「日本では産前産後休暇のその間、妊婦は基本的に仕事をしないことが前提なの! 付き添い王太子は法律違反なの!!」
「……アメニアの法律では、王太子は“全権を有する”とある」
「う、うわぁ……!!まさかの文化差……!!」
ウルは立ち上がり、真珠の腰に手を回した。
「よかろう。休ませよう。だが、俺が傍にいるという条件は譲らない」
「それじゃあ産休の意味がないのよ!!」
「ある。妃の心が不安になると、胎児にも影響が出る」
「そ、それはそうだけど……」
「俺がいなければ、お前は不安になる。俺の不在がストレスになる。だから俺がいる」
「なにその理論!?」
そして真珠は、結局ウルによる完全密着・休暇とは名ばかりの過保護監禁期に突入するのであった――。
(まだ産休前の時期なのに!?もう突入!?)
有無を言わさない男のよって、申請した日から夫婦セットで生活することになってしまった真珠だった。




