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酷いつわりと、狼狽える男

香を焚かなくなってから、部屋の空気は少し軽くなった。けれど、真珠の体調は日によって激しく上下した。昨日はスープが飲めたのに、今日は水ですら喉を通らない。座っているだけで、胃の奥がじわじわと重く膨れ上がるような不快感に襲われ、胸が詰まる。


香も香水も駄目。部屋に持ち込まれる布も、ウルが身につけている衣の繊維にすら気を遣わせた。些細な匂いが引き金になり、立っているのもやっとなことが増えてきている。


「……う、っ……」


ぐ、と胃が軋んだ。背中を丸めて腹を抱える。女官たちは慣れた手つきで水を差し出してくるが、それすら飲めない。体重は減り続け、肌の色もやや青ざめていた。


「なんでこんなに……」


小さく呟く真珠の隣で、あのウルが、狼狽えていた。


額に汗を滲ませ、真珠をそっと背もたれに支えながら、必死に口元を引き結んでいる。目はどこか怯えたようで――あの王太子とは思えぬほど、不安に満ちていた。


「……食べられないのか?」


「少しなら……でも、また吐いちゃうかも」


「吐くな」


「無理言わないで……」


眉根を寄せる真珠に、ウルは沈黙するしかなかった。


──そんなある日。


ひどい倦怠感で目覚めた朝。いつものように胃のむかつきに眉をしかめ、ゆっくりと寝台の上で体勢を変えようとしたその時。


「……っ……」


下腹部の内側で、“ぽこ”と微かな動きがあった。


──え?


目を見開き、思わず両手でお腹を覆う。今の、何?腸じゃない。ガスじゃない。あきらかに「内側から叩かれた」感触だった。


「……動いた……?」


動揺して声が震える。


そう思った瞬間、もう一度、ほんの小さく、ぽこ、と内側から小さな圧があった。


「──……」


涙が零れそうになった。


こんな身体なのに、ちゃんと生きてる。頑張ってる。自分の中に、もう一つの命が確かに存在している。


震える指で腹を撫でる。まだ小さい。でも、確かにいる。


「動いたのか?」


ウルの声。気配に気づかれていた。


振り返ると、扉の前で彼が立ち尽くしていた。呆然とした顔、見たことがないほど無防備な表情。


「……うん。ちょっとだけ……ぽこって」


その言葉を聞いた瞬間、ウルの顔に走った感情の波は、凄まじかった。驚愕、安堵、歓喜、そして、耐えきれないほどの愛しさ。


彼はゆっくり歩み寄ると、真珠の手の上に、自分の手をそっと重ねた。慎重に、丁寧に、まるで神聖な遺物にでも触れるように。


「……ありがとう」


言葉にならない囁きだった。


そして、真珠の下腹部に、そっと口づけを落とす。


「──俺の子が……」


呆けるほど穏やかな声。だがその奥には、狂気にも似た執着と、歓喜の炎が宿っていた。






『……これが妊娠というものなのか?』


ウルの声は低く、けれど明らかに焦っていた。


真珠が寝台に横たわり、白い顔でうっすらと汗を滲ませている。その手は冷たく、唇も乾いていた。ここ数日で、彼女は見るからに痩せ細っていた。食事は喉を通らず、吐き気は一日中続く。常に胃がむかむかとし、わずかな匂いで全身が反応してしまう。


医師団が呼ばれ、再三の診察が行われたが――


『……王太子殿下。これは、いわゆるつわりでして……病気ではありません。時間が経てば、自然と……』


『病気ではないだと?』


ウルの声が鋭く跳ねた。部屋の空気が一瞬で凍る。


医師たちは息を呑み、姿勢を正す。額に滲んだ汗が、じわりと流れ落ちる。


『ではこの衰弱は何だ?歩けばふらつき、食べれば吐き、起き上がれば頭が痛い……それでも病ではないというのか?』


『……つわりとは、そういうものでして……その、自然現象でございます……』


『貴様らは無力なのか?』


ウルの目が細まり、静かな怒りが宿る。


『この国の医術を結集しても、彼女一人、まともに起き上がらせることもできんのか? 妊娠が神聖であるならば、その代償を軽減する術もまた神聖であるべきだろう』


『も、もちろん我々も最善は尽くしております……ただ、医学的には安静が一番の――』


『では、絶対に安静を崩させるな』


『はっ、はい!?』


『日中は政務室に来ることを禁止する。少しでも体調を崩したら即座に知らせろ……ああ、それと、床の硬さが肌に障るようだ。全ての寝具を絹に変えろ。繊維はアメニア南部のオルファ産。肌触りが一番柔らかいとされているものだ』


『か、かしこまりました……』


『室温は常に25度を維持。乾燥は厳禁。湿度は52%を超えないよう調整しろ。水分補給の回数は一時間に一度。彼女が拒否した場合は、自然な形で摂取できるよう香りと味覚の調整をしろ』


『王太子殿下、そこまでは……』


『できないとは言わせん』


『………………』


『何のために存在している?』


その一言に、医師団は震えるように頭を垂れた。医術への誇りを忘れかけた瞬間だった。


扉の外では、女官たちがこっそり顔を見合わせている。


『……あれは完全に、つわりに狼狽える夫の顔ですね』


『ですね……王太子様、ガチでパニクってます……』


『でも、やることが全部規格外すぎる……』


『……あの、あとで真珠さまに許可取らないと。室温とか水分とか、本人が苦しくなりそう……』


『もう、いっそ真珠さまに殿下をなだめてくださいって頼むしか……』


一方、部屋の中では、真珠がふらりと目を開けてつぶやいた。


「……ねぇ……ウル……」


「ここにいる。何が必要だ?」


「……過保護すぎて、逆に息苦しいんだけど……」


ウルは息を止め、数秒ののち――


「……我慢しろ。俺の愛だ」


きっぱりと言い放った。


しかし、この後もウルの超絶過保護ぶりは進化し続ける。誰が何を言っても、一切聞く耳を持たないモンスター王太子が爆誕したのだ。


ある日のアメニア王宮の出来事である。王宮医務室。アメニアで最も格式高く、最も静謐で、そして今――最もピリついている場所だった。


なぜならそこには、また。


『で、どうなんだ』


椅子に深く腰を沈めたまま、王太子ウルシュガが無言の圧で医師を圧殺しかけていたからだ。


医師は白衣の下で背中に滝のように汗をかき、震える手でカルテを見つめる。


『……あの、はい。つわりの症状は強めでして……ただ妊娠経過としては正常範囲です……本来は問題ないのですが、えっと、あまりにも殿下が神経質になられておられるようで……』


『つまり何だ? 正常なのにこの衰弱ぶりは“仕様”だと?』


『し、仕様、という言い方はアレですが……』


『ならば仕様ごと変えろ』


『し、仕様は……変えられません!人体は……!』


『――なら、せめて和らげる薬を出せ』


『……出しております。ですが真珠さまが、薬はなるべく控えたいと仰られ……』


その瞬間、ウルの眉がぴくりと動く。


『……つまり、お前たちは真珠が我慢すればいいと結論づけたということか?』


『ち、ちがっ……!!』


『聞こえなかったか?彼女の痛いも、つらいも、気持ち悪いも、全部、俺が背負う。なら、お前たちの仕事は痛みが起こらないようにすることだろう』


『そ、それは……医術の限界というものが……!』


『お前の限界で測るな』


「ウル……っ、もうやめて……」


かすれた声が響いた。寝台の上で、真珠が額に冷えたタオルを乗せながら、疲れたようにこちらを見ていた。


「……私は大丈夫。赤ちゃんもちゃんと生きてる。それで……もう、十分だよ」


その目には、確かな意思と、そしてほんの少しの困り果てた気配があった。


「――十分じゃない」


ウルは静かに立ち上がると、真珠の傍らに膝をついた。


「……この国の誰もが忘れている。妊娠は病気ではないのではなく、病気よりも重く扱われるべきだと」


「えぇ……あの、王太子様……それはさすがに飛躍というか極論というか……」


医師が勇気を振り絞ってつぶやく。


だがウルは振り返らず、真珠の額に触れ、熱を確かめた。


「俺にとっては最も神聖な状態だ……妊娠中のお前は、この地上で最も手厚く扱われるべき存在だ」


その目は本気だった。どこまでも狂おしく、どこまでも真摯に、真珠の命とその命の中の命を守ろうとしている。


医師団は、全員目を伏せた。誰もこれ以上“最強の愛情表現”に口を挟めなかった。


――こうして、真珠にだけ許された無茶振りに慣れた医療チームが正式に発足することとなる。


なお、翌週から医務室の出入りには【全身シルク着用】【香料厳禁】【声量制限】【不安定な気温下での会話禁止】など謎の規定が設けられ、「そこ、妊婦様専用空間ですんで!!」と女官にガチで怒鳴られる未来が確定していくのであった。


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