夜の相談
妊娠が判明した日。
真珠は、体の奥底から湧き上がるような倦怠感と眠気に包まれていた。まるで、命をひとつ宿していることを身体が教えてくれているような、そんな感覚。
それと同時に、ある大きな懸念が頭をもたげていた。
(妊娠初期って……性行為は控えるのが普通よね?)
日本ではそう教わった。妊娠初期の子宮は不安定で、強い刺激は避けるべき。ましてやあんな……激しすぎる行為など――
「アサナ……ちょっと相談があるの……」
その日、執務の合間にアサナを個室へと呼び寄せた。女官もいない、完全な二人きりの密談の場。
「実は、夜のことなんだけど……妊娠がわかったし、安定期に入るまでは、ちょっと控えた方がいいかなって思って……」
アサナは神妙な顔で話を聞いていたが、やがて微妙に言葉を選びながら、口を開いた。
「……そうですね。確かに、異国ではそのように指導する場合もあると聞きます」
「異国って……アサナ、ここはどこなの……?」
「アメニアです」
うわ、出たこの返し。もはや真珠の常識という言葉は、国境を越えた瞬間に砕け散っていた。
「ねえ、でもさすがにウルだって、妊婦に無茶なことはしないよね……?お腹に赤ちゃんがいるのよ?」
アサナはしばし沈黙し、それから眉を寄せ、遠い目をした。
「……坊っちゃまは……どうでしょうかね」
「なんで他人事なの!?」
「いえ、他人事ではなく……身に覚えがありすぎて……」
アサナは控えめに咳払いをして話を戻す。
「とにかく、一応……医師に安静とのお言葉をいただければ、それを理由にお止めすることは可能かと」
「なるほど……!その手があったか!」
真珠は目を輝かせた。医学的根拠という絶対的正義!これさえあれば、ウルも従うはず――いや、従ってほしい!切実に!!
「……じゃあ、医師を呼んでくれる?」
「はい。すぐに、協力的な者を手配いたします……最悪の場合、替え玉で診断書だけ書かせることも視野に」
「闇医者!!」
こうして、真珠の「夜のお相手・しばらくお休み大作戦」が静かに始動した。
だがこの時の彼女はまだ知らない。
その診断結果がウルに届いたとき、彼がどんな反応を見せるか――
「……休ませる?俺から?」
絶望は、すぐそこまで迫っていた。
夜。
真珠は、深く息を吸い込んでから王太子の私室へ足を踏み入れた。周囲の女官たちは、明らかに空気を読みまくって視線を逸らしていた。
(だ、大丈夫……今日は医者の診断書がある……)
ウルの部屋に入ると、いつも通りの芳香が部屋に満ちていた。心なしか香がいつもより濃い気がするのは気のせいじゃない。絶対に気のせいじゃない。
「……おかえり、俺の后」
シーツに寄りかかったウルが、金糸の薄衣を纏い、青い瞳を細めて笑っていた。その視線が、なにかを企んでいる猛獣のそれに見えて、背筋に寒気が走る。
「お話が、あります……」
真珠は、努めて冷静に、いつもの声を取り戻そうとしたが……震えた。
「ふん……話は後でいい。まずは、抱いてから」
「ちょっ、ちょっと待って!!!」
真珠はパッと懐から紙を取り出し、ウルに突きつけた。
「医師の診断です! 私、妊娠初期です! だから安静第一!過度な運動は禁物です!!」
「…………」
ウルはそれをじっと見つめた。紙面にびっしりと書かれた医学的所見。妊娠初期における過剰刺激の危険性
――子宮収縮を促す可能性――
激しい体位変化は避けるようになど、至って真面目な医師の意見。
真珠は内心で(勝った……!)と思った。文明の力……科学の力……理性よ……!!
だがウルの口から漏れたのは、予想だにしない言葉だった。
「なるほど。激しい運動は避けよ、か」
「う、うん……だから、しばらくはその……セックスは……おやすみでも……」
「――ならば、激しくなければ良いのだな?」
「は?」
真珠の思考がフリーズした。
「何も、致すことがすべて激しいとは限らん。ゆっくり、慎重に、奥深く、永く……」
「待って待って待って!?」
真珠の声がひっくり返った。
「それって、やる気満々ってことだよね!? 今、私、止めに来たんだけど!?!?」
「そうだろう?お前は、止めに来た。俺は、それを捻じ伏せるつもりはない」
「……ほんと?」
「ああ。理屈で、穏やかに、逃げ場なく抱く。それがお前の望む優しさだろう?」」
「いやちがうぅぅぅ!!!」
真珠は全力で後退した。が、背後はすでにドア。逃げ場などない。
「安心しろ。医師の診断など百も承知だ。お前と子に負担をかけぬよう、俺は万全を期す」
「な、なにその覚悟……!!」
「床も変えた。香も調整した。空調も、照明も……妊婦用に」
「そんな仕様あるのこの王宮!?」
「ある。今、作らせた」
「……あなた……どこまで用意周到なの……」
「お前が逃げる可能性が1%でもあるなら、俺は99%の用意をする。それだけだ」
真珠は震える手で、診断書をじっと見つめた。
医学とは……
正義とは……
常識とは……
(勝てる気がしない……)
その夜、穏やかな抱擁という名の、終わりなき地獄が始まったのだった。




