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そうだ、神殿へ行こう

薄曇りの昼下がり。政務の合間に差し出された温茶を啜りながら、真珠はぽつりと呟いた。


「妊娠の祈願って……アメニアには、どんなのがあるの?」


香の立ち上る書簡の間で、真珠の一言に、アサナはペンを止めた。その問いかけは、ふとした沈黙の中にぽつりと落ちた。まるで、「今日の昼食、何がいい?」とでも言うかのような気楽さだった。


「……いくつかございます。古くからの習わしや、神官が執り行う正式な祈願もあります」


「へぇ。どんなの?」


真珠の興味は純粋だった。何の裏もない。だが、アサナの胸にはわずかに重いものが沈む。ほんの少し間を置いて、淡々と語り始めた。


「一つは、“聖母の浴”。夜明けと日没に、銀蓮を浮かべた沐浴を七日間続けます。沐浴後は“命を迎える香油”で腹部を撫でながら、子を宿すための詠唱を一つずつ唱えるのです」


「……詠唱?なんかすごい本格的!」


「また、“清涙の灯火”と呼ばれる儀式もございます。これは……寝室に置かれた祈りの蝋燭に、夜毎ひとしずく、自らの涙を落とすのです」


「え、それどうやって泣くの?」


「……多くの女性は、宿らぬことへの悲しみを想い、自ずと涙を流したと記録されています」


「……お、おう……なんかすごく……情念……」


真珠は一瞬押されるように黙ったが、気を取り直してメモ帳を開いた。


「えっと、銀蓮のお風呂と……お腹に香油……。あ、詠唱ってどんなの?」


「『命授けたまえ 星なる父よ 天より糸を降ろしたまえ』これは最初の一文です。月が満ちる夜に、蝋燭を灯しながら唱えるのが正式な作法です」


「……ふむふむ。なんか、できそうな気がしてきた」


これくらいのおまじないなら、やってみたいかも。真珠は頬杖をつきながらふと外の空を見やった。雲の切れ間から差し込む陽射しが、どこか神々しく見える。


(そうだ、神殿に行こう)


どこかで聞いたようなキャッチコピーが脳裏をよぎる。無意識に口角が上がり、アサナが一瞬ぎょっとした顔を見せた。


「真珠様?」


「あ、ごめんごめん。なんか、神さまにお願いしたら……私にも、赤ちゃん来てくれるかなって思ってさ」


「…………」


「でも、あれよね。私、結婚してるし、后になってもうすぐ一年なのに、まだ子どもできてないのって、やっぱり……ちょっとおかしいのかなぁって。いや、不順だし子宮も弱めだから、こんなもんかーって思ってたんだけど」


アサナは何も言わなかった。ただ静かに、筆先の墨を拭うような手つきで、膝の上の書状を折り直した。


「それで。神殿、申請したら行けるかな?ウルがOKしてくれるかな?」


「……はい。おそらくは」


「よかった。じゃあ、申請書出してみよ」


ぱちんと手を叩き、意気揚々と立ち上がる真珠。その背を見送りながら、アサナは密かに胸の内で呻いた。


(……どうか、坊っちゃま。これ以上真珠様に...)


真実が落ちてくることがないように――。一度でも気づいてしまうことがないように――。


そう祈らずにはいられなかった。






静寂の中、濃藍の布をあしらった机上に、一本の書状が置かれた。金の封蝋に後宮印。差出人の名は記されていない。だが、開くまでもなく──それは、彼女からのものだとわかっていた。


開封の儀を担う側近の指先が僅かに震える。その挙動にすら、ウルの紺碧の瞳が静かに射抜いた。


「手間をかけるな。よこせ」


短く低い声。それは命令ではなく通達に近い。受け取った瞬間、封は裂かれ、真珠の筆致があらわになる。


「神殿にて、妊娠の祈願をしたく申請いたします。

アメニアの后として、御子を授かれるよう祈りたいと願っております」


一行目を読んだだけで、ふ、と息が漏れた。笑っていた。喉の奥で、深く、狂気の熱を孕んだ笑いが立ち上る。


「……神頼み、だと……?」


滑稽だった。


医療で不妊と診断されることが怖いのだろう。だから呪いや祈祷を行ってみる。いかにも真珠の考えそうな事だ。


(気休めにもならん)


そんなもので子ができる筈がないのに。


これまで、自分が何をされてきたか知らず、彼女は本気で「自分が不妊なのでは」と悩み──その解決策を神に託そうとしている。


──無知。

──純粋。

──だが、それゆえに、底なしに、愛しい。


「俺が……どれだけ……」


指先が震えていた。怒りではない。これは喜びだ。幸福だ。狂気の果ての、圧倒的な悦び。


「ようやく……俺の子を、望み始めたのか」


ようやく。

ようやく。

その身体に、俺のものを満たし、俺の刻印を刻み、

俺の吐息と、俺の声と、俺の肌と、俺の熱と、そして──俺の命を、望み始めたのか。


そのくせ、自分から神に願っていると思っているあたりも、また愛しかった。


すべては、最初から用意されていた。快楽に沈め、理性を摩耗させ、避妊薬を混入し、子ができない状態を維持し、今──彼女は、自分の意思で子を望むに至った。


「俺が……そうさせた」


低く呟いたウルの目が、まるで猛禽のように光る。


彼女の選択ではない。彼女の願いでもない。これは、ウルシュガという男の計画通りの感情操作だった。


だからこそ、狂おしいほど愛しい。ここまで順調に、何ひとつ壊さず、美しく、自然に、すべてを絡め取ってきた。


──絶対に誰にも渡すものか。


「……神殿か。ならば、用意を」


部屋の奥にいた側近が黙礼する。だが、その顔にはわずかな翳りがあった。


(妃殿下は、ご自分で神殿に行くと決めたと、思っていらっしゃるのだろう……)


ウルはその迷いすら眼中になく、ただ静かに微笑んだ。底冷えするほどに静かで、なのに灼熱を孕んだ、――獣の笑み。


「……笑いが止まらないな。今夜、孕むほどに抱いてやる」


狂気の熱が、音もなく室内に広がっていった。すでに準備は整った。避妊フェーズから妊娠フェーズへと。真珠は押しに弱いが芯が強い、だから自分から望んだように誘導してやることが重要なのだ。ウルの偏った観察眼は的確に、そして歪み切った捉え方をしていた。


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