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知らないのは私だけ

レオンが帰って、王宮にようやく静寂が戻った。


「……っしょ……いたたた……もう……」


ふらつく足取りで、真珠は書類を抱え、執務室へと向かう。腰と太ももに残る鈍痛に、歩幅は自然と小さくなる。


(……昨日も長かった……もうほんと、持ってかれた……)


この頃は特に、夜が激しい。毎日毎日、よくまあ飽きもせず──いや、もしかして、レオンがいたから……?それを思い出して、真珠はぶるりと身を震わせた。


「……お救いします、だって。はは、ないないない……怖いって」


やんわりした笑顔で、あの言葉を投げられた瞬間の鳥肌が、まだ背中に残っている。


(忘れよ、忘れよ。うん、仕事に集中しよ)


椅子に腰かけ、まず手に取ったのは、孤児院から届いていた手紙。かつて訪問した際の写真と共に、子どもたちが寄せ書きのように綴った手紙には、カラフルな色鉛筆の線が踊っていた。


『またきてね!』『しんじゅさま、すき!』『いっしょにおえかきしたい!』


「……ふふ、かわいい……」


頬が緩む。政務の合間にこうした温かい言葉が届くのは、ひときわ心が和む。


「ウルさえ……許してくれたら、また行けるのかなぁ……」


そう呟いて──ふと、真珠の心がある一点に引っかかった。


──そういえば、子どもって……。


考えてみれば──もうすぐ、一年になる。毎日欠かさず、夜はウルに抱かれている。それも、とても丁寧に、深く、たっぷりと。


なのに。


真珠の体には、何の変化もなかった。


「……まさか……私、不妊……?」


ごくりと唾を飲み込む。医者に診てもらったわけじゃない。でも、あれだけされて何もないって──


「うわ、ちょっと待って、えっ?えっ……?」


だんだん不安が込み上げてきた。背筋に冷たいものが這う。


夜──ウルと共に寝室にいる時。


しっとりと灯る燭台の灯りの下、真珠はいつものように柔らかな寝間着を身に纏い、隣に座るウルをちらちら見ていた。ややあって──意を決して言葉にする。


「ねえ……あのさ、ウル」


「……何だ」


「……わたし、不妊なのかなぁって……ちょっと、思っちゃって」


その瞬間、ウルの視線が静かに動いた。そして、一拍遅れて──


「……なんだその話か」


「え?」


「いや、話は終わりだ。気にするな」


「え、でも……」


「黙れ」


ウルは真珠の頬をそっと指で撫で、そして口元に微笑すら浮かべながら、まるでそれが正解の反応であるかのように、言った。


「──お前は、俺のものだ。それだけでいい」


(……はぐらかされた……)


真珠は何も返せなかった。けれどその瞬間、シーツの上に倒される。舌が、首筋を這う。肌に、熱が満ちていく。刻印が……疼き出す。


「…話を、…ウル……待っ──」


「もう何も話すな」


押し潰される。声も、思考も。まるで、問いのすべてを快楽で消し去るように。


(……何か、おかしい……でも……)


ふと、ほんの一瞬。シーツの香が、いつもと違うような気がした。天井にかかる布が、どこか新しくなっている気がした。空調の風が、妙に温かく湿っている。ベッドの柔らかさも、なんだかいつもと違う気がする。


どことなく違和感、だがはっきりと何がおかしいかは言えない。じゃあ自分の気のせいだろうと、真珠は、そう言い聞かせた。


言い聞かせながら、また快楽の波に呑まれていく。


──まさか、ね。

でも、あまりに静かで、あまりに一方的な愛に、背筋がうっすら冷えていった。







翌朝。柔らかな日差しの差し込む文書室で、真珠は湯気の立つハーブティを抱えていた。向かいに座るのはアサナ。彼女の姿を見ると、自然と心が落ち着く。けれど、今日は──少し、言いづらいことを打ち明けようとしていた。


「……あのね、アサナ。ちょっと、相談があって……」


アサナが穏やかに微笑み、頷いた。


「ええ。何でもお話しください、真珠さま」


真珠は一瞬だけ目を伏せ、そして静かに、唇を開く。


「……わたし、もしかしたら……不妊、かもしれない」


アサナの表情がふと止まる。一瞬だけ──まばたきが遅くなる。けれど、すぐに柔らかく笑みを作った。


「どうして、そう思われたのですか?」


「……だって、ほら。毎日……その、夜のこと……ね? ちゃんとあるのに……もうすぐ一年になるのに、なにも……変わらなくて。だから、もしかしてって……」


言ってしまってから、真珠は少し恥ずかしそうに笑った。


「考えすぎかもしれないけど、ほら、わたし、昔から月経も不順だったし、子宮も弱めでホルモンバランス崩しやすいし……でも、后としては……やっぱり、ちゃんとしなきゃって……」


アサナは、黙って頷いた。そして、優しく真珠の手を握る。


「真珠さま。あなたは、十分に立派です。神が与えた時が来れば、きっと授かります。どうか、ご自身を責めないでください」


その言葉に、真珠はほっと安堵したように微笑んだ。アサナの優しさは、まるで母のようで──今はただ、それにすがるように、うなずくしかなかった。


 


***


 


文書室を出たアサナの表情は一変していた。頬の筋肉から笑みが剥がれ落ち、眉間には深く影が射す。

向かう先は──王太子の執務室。


衛兵に一礼して扉を開けると、部屋の奥、帳面を手にしたウルがいた。


「……王太子殿下。ひとつ、お伺いしても?」


ウルがゆっくり視線を上げた。


「……なんだ、アサナ」


「真珠さまが、妊娠していない理由──。まさか、真珠さま本人が、知らないとは思いませんでした」


ウルの筆が止まる。


「なぜ、あのお方にお伝えにならなかったのですか」


アサナの口調は穏やかだった。けれど、その奥には確かな怒気が含まれていた。


「……あの方は、自分が不妊なのではないかと、苦しんでいらっしゃいました」


ウルは、筆を置くと、ゆっくりと椅子を回転させ、アサナと正対する。


「……伝える必要が、あったか?」


「……ッ」


「俺が欲しいのは、まだ二人きりの時間だ。子を作るのは、その後でいい。違うか?」


ウルは椅子に深く腰掛け、片膝を組む。その態度はまるで、「それ以外の選択肢など存在しない」と言外に語っていた。


アサナの目が、鋭く細くなる。


「では、そのために……ずっと、あのお方の食事に、避妊効果のある成分を混ぜるなど──」


「俺の命令だ。問題あるか?」


まるで何でもないことのように、彼はそう言った。


「……真珠さまは、そのことだけは知っておくべきでした」


「知らぬ方が、良かっただろう?」


ウルは立ち上がる。無駄のない所作でアサナに近づき、そのまま真っ直ぐ、目を見て言った。


「言うな。いいな、アサナ。お前が、口を滑らせるはずがないと、信じている」


その瞳は、笑っていた。けれど、それは氷のような支配者の微笑みだった。


アサナは、数秒だけ沈黙したのち、深く一礼する。


「……承知いたしました」


部屋を出たアサナは、しばし誰もいない廊下で立ち止まる。握り締めた手のひらには、深く爪痕が残っていた。


(知らなかったのは、后妃さまだけ──なんとお労しい……)


静かな狂気の渦に、心がわずかに揺れる。けれど、それを表に出すわけにはいかない。


真珠のすべてを託された側近として──。


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