第九話:手のひらの温度
第九話:手のひらの温度
午後五時を回ると、蝉の声に微かな混濁が混じり始める。
あんなに激しかったアブラゼミのうねりが速度を落とし、代わりにヒグラシの、金属質で冷ややかな鳴き声が、遠い杉林のほうから薄く染み出してくる。
西日はもう、トタン屋根を直接炙るのをやめていた。
その代わり、低くなった光が網戸の細かい格子を斜めに突き抜け、部屋の奥の壁に、巨大な灰色の網目を焼き付けている。
僕は、洗いたてのシーツを剥ぎ取ったあとの、直の畳の上に寝そべっていた。
ざらついた藺草の感触が、薄い木綿のシャツ越しに背中を刺激する。
海からの風が、ゆっくりと部屋に滑り込んできていた。
昼間のカラッとした熱気とは違う。ねっとりとした湿気と、わずかな塩の匂いを含んだ、肌にまとわりつくようなぬるい風だ。
その風が吹くたびに、軒下の風鈴がチリン、と頼りなく一度だけ鳴り、すぐに黙り込む。
頭の芯の痛みは、鈍い拍動へと変わっていた。
ドクン、ドクン、と耳の奥で自分の血流が鳴るたびに、視界の端がわずかに白く明滅する。
熱中症の残響は、僕の肉体からなかなか抜けてくれなかった。起き上がろうとすると、内耳の平衡感覚が狂い、世界がぐにゃりと傾く。
僕はそれを不快だとは思わなかった。
むしろ、この身体の自由の利かなさが、僕をこの部屋の床に強く縫い止めてくれているようで、奇妙な安堵感さえあった。
台所の流しには、昼間に二人で使ったガラスの皿が、綺麗に洗われて伏せられている。
水滴はすでに干からび、ガラスの表面に白い小さな輪を作っていた。
その横には、凪が僕のために淹れてくれた麦茶の、残りの入った耐熱ガラスのピッチャーが置かれている。茶色い液体の中で、すでに氷は跡形もなく溶け去り、水面には部屋の天井の木目が静かに映り込んでいた。
凪は、一時間ほど前に出かけた。
この町に一軒しかない、小さな個人商店へ買い出しに行くと言っていた。
「すぐ戻るから、寝ていてね」
そう言って、僕の額にそっと触れた彼女の指先は、確かに汗ばんでいた。
彼女が部屋を出ていくとき、玄関の引き戸にかかる南京錠の、カチャリという小さな音が聞こえた。
外から鍵をかけられたのだ。
彼女は僕に、外に出てほしくないのだろう。
いや、僕という存在が、この町の誰の目にも触れないことを望んでいる。
坂上さんのあの言葉が、彼女の胸の奥にある細い杭を、さらに深く打ち込んだのだ。
身元の分からない、頼りない行き倒れの男。
それを一人で世話し、囲っているという事実に、彼女は傷つきながらも、同時に、それ以外のすべてを拒絶するための強固な理由を見出している。
僕は、静かに目を閉じた。
耳を澄ませると、遠くで波が防波堤にぶつかり、砕ける音が聞こえる。
頭の中で、いくつかの数字と記号が、規則正しく整列し始める。
かつて僕が、その肥大化した脳に詰め込みすぎた、法的な手続きのプロセス。民事上の責任追及の順序。そして、この国における「不在者」の扱いに関するいくつかの条項。
それらは、僕の意識の底に、錆びない鉄の部品のように冷たく沈んでいる。
僕がここへ辿り着いたのは、決して偶然ではない。
十五粒のカフェインを飲み干し、夜の山道を死に物狂いで走ったあの夜、僕の脳は、壊れかけながらも、最も生存確率が高く、かつ「最も美しい終わり方」ができる場所を、正確に弾き出していた。
凪。
あのとき、コインランドリーの陰で泥を吐く僕を見下ろした、彼女の瞳。
そこに宿っていたのは、ただの憐れみではなかった。
過去の重い記憶に縛られ、自分の存在を許せずにいる人間の、すがるような視線だった。
僕はその視線を見た瞬間に、すべてを理解した。
この女になら、僕は自分のすべてを委ねることができる。彼女の用意する檻の中に、喜んで首を突っ込むことができる、と。
トントン、と遠くで足音が響いた。
アパートの外階段を上がる、独特の、少し引きずるようなサンダルの音。
凪だ。
僕はゆっくりと、畳の上に突いた両腕に力を入れた。
眩暈が視界を黄色く染める。喉の奥から、例のかすかな、錆びた鉄の匂いがせり上がってくるのを、唾液と一緒に飲み込んだ。
ガチャリ、と鍵が回る音がした。
続いて、古い引き戸ががたつきながら開く。
夕方の、少し紫がかった光とともに、凪が室内に滑り込んできた。
彼女の手には、白いビニール袋が握られている。中には、いくつかの野菜と、透明なパックに入った小ぶりの魚が見えた。
「ただいま、周くん。気分は、どう?」
凪はそう言いながら、土間でサンダルを脱いだ。
彼女の着ている薄いベージュの綿のスカートが、夕風に吹かれてふわりと膨らむ。
僕は何も答えなかった。
ただ、畳の上を這うようにして、彼女の足元へと近づいていった。
凪が、動きを止める。
彼女は買い物袋を土間の隅にそっと置くと、部屋に上がり、僕の目の前でゆっくりと膝を折った。
僕は彼女の膝の前に、身体を小さく丸めた。
まるで、外で激しい夕立に打たれ、ようやく自分の巣に戻ってきた動物のような、あるいは、それ以上の言葉を持たない生き物のような動きで。
彼女の膝に、そっと額を押し付ける。
ベージュの布地を通して、凪の太ももの、しっかりとした、しかし微かに震えている肉の感触が伝わってきた。
「周くん……」
凪の声が、頭上から降ってくる。
その声は、ひどく掠れていて、まるで自分の呼吸の仕方を忘れてしまったかのようだった。
彼女の手が、ゆっくりと下りてくる。
夕方の外気を吸って、少し火照った彼女の手のひら。
それが、僕の、熱中症の熱が引ききらない熱い頬に触れた。
冷たかった。
彼女の指先が、僕の白磁のような皮膚をなぞるたびに、そこに一本の冷ややかな水の線が引かれていくような錯覚を覚える。
僕は目を閉じ、彼女の手のひらに、自分の頬をさらに強く押し付けた。
じわりと、お互いの体温が混ざり合っていく。
僕の持つ異常な熱が、彼女の手のひらを通して、彼女の体内へと吸い取られていく。
同時に、彼女の持つ、外の空気の匂い──乾いたコンクリートと、夕餉の支度を始める町のアスファルトの匂いが、僕の鼻腔を満たした。
「まだ、熱があるね。お医者さんに、診てもらったほうがいいのかもしれない」
凪の言葉には、確かな迷いがあった。
彼女の指先は、僕の頬を包み込みながらも、僕をここから連れ出すことを拒んでいる。
病院へ行けば、僕の身元を調べられる。保険証のない僕の過去を、誰かが暴こうとする。
そうなれば、この静かで爽やかな、二人だけの飼育箱は、一瞬で粉々に砕け散ってしまう。
彼女は、それを恐れているのだ。
僕を救うことよりも、僕を自分の手の中に留めておくことを、彼女の肉体が、本能が、強く求めている。
「行かない」
僕は目を閉じたまま、小さく首を振った。
彼女の手のひらの上で、僕の皮膚が擦れ、微かな摩擦音が響く。
「どこへも、行きたくありません。ここに、いたいです」
凪の呼吸が、大きく乱れた。
彼女の五指が、僕の髪の中に深く滑り込んでくる。漆黒の髪を、まるで壊れやすい絹糸を扱うように、丁寧に、何度も何度も梳いていく。
「ここにいて、どうするの。私は、あなたに何もしてあげられない。こんな、古い部屋で、ただ息をしているだけなのに」
「それがいいんです」
僕は、彼女の手首を、僕の細い指先でそっと握った。
力を入れるわけではない。ただ、彼女がそこから手を引くのを、微かに引き止めるだけの強さで。
「凪さんのそばにいると、頭の中の雑音が消えるんです。昔、何か、たくさんのものを詰め込まれて、頭が破裂しそうだった記憶がある。でも、この部屋にいると、扇風機の音と、風鈴の音しか聞こえない」
会話のズレ。
僕は彼女の問いに、正確には答えていない。ただ、自分が「無力な被害者」であり、彼女の存在だけが、僕をこの世界に繋ぎ止める唯一の錨であるという事実を、彼女の脳内に植え付けているだけだ。
凪は、じっと僕を見つめていた。
彼女の瞳の奥で、静かな、しかし圧倒的な光が、じわりと濃度を増していく。
それは、自分なしでは一日も生き延びられない生き物を、完全に手中に収めた者の、暗い恍惚だった。
彼女の歪んだ母性が、僕という存在を栄養にして、飼育箱の中で巨大に膨れ上がっていく。
「そうね。ここにいればいいのよ、周くん」
凪の声から、先ほどの迷いが完全に消え去っていた。
彼女は僕の頭を、自分の胸のほうへと優しく引き寄せた。
彼女の白いリネンシャツから、柑橘系の洗剤の匂いと、彼女自身の、少し甘い皮膚の匂いが立ち上る。
僕は彼女の胸元に顔を埋めながら、心の中で、静かに微笑を浮かべていた。
すべては、僕の計算通りに動いている。
彼女が僕を支配していると信じるその瞬間こそが、僕が彼女を完全に支配するための、最も確実な足場になる。
町の人々の排他性も、彼女の過去の罪も、すべてはこの白い檻の壁を厚くするためのレンガだ。
窓の外では、夕日が完全に沈み、空が深い群青色へと染まり始めていた。
ヒグラシの声は消え、代わりに、夜の訪れを告げる遠い波の音が、潮風に乗って部屋の隅々まで響き渡る。
僕は彼女の手のひらの温度を、自分の皮膚に深く刻み込みながら、次の計算を始めていた。




