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残響と内なる獣  作者: あめたす


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第八話:スイカとご近所さんの優しさ

第八話:スイカとご近所さんの優しさ


 正午の太陽は、アパートのトタン屋根を真上から容赦なく叩いていた。


 遮光性の低いすだれは、もはや光を遮る役目を果たしていない。畳の上に落ちた細長い光の縞は、まるで白熱した鉄の棒のように部屋の空気をじりじりと焼き続けていた。

 風は完全に止まっていた。軒下の風鈴は、死んだように動かない。


 凪は、小さな折りたたみ式のローテーブルの前に座り、針と糸を動かしていた。

 白いリネンのノースリーブシャツから伸びた彼女の腕は、汗で微かにきらめいている。細い指先が、僕の着ていた木綿のシャツの、綻びた袖口を丁寧に縫い合わせていく。

 チク、チク、と針が布を通り抜ける微かな音だけが、蝉時雨の単調なうねりの隙間に挟み込まれていた。


 僕はその少し後ろ、扇風機の首振り運動がもたらす、ぬるい風の軌道上に寝そべっていた。

 洗いたての白いシーツは、すでに僕の体温と汗を吸って、じっとりと重くなっている。

 頭の奥には、まだ熱中症の残響のような、鈍い痛みが居座っていた。けれど、それは僕の意識を曇らせるほどのものではない。むしろ、視界の隅々までを不自然なほど鮮明に際立たせていた。


 コト、と凪が針箱を閉じる音がした。


「周くん、喉は渇いてない?」


 彼女は振り返らずに、針箱の蓋の木目を指先でなぞりながら尋ねた。


「大丈夫です。さっき、お水をいただきましたから」


 僕は嘘をついた。実際には、彼女が仕事用の小道具を片付ける手を止めさせたくなくて、枕元の水差しには触れていなかった。口の中はカラカラに乾き、唾液が粘り気を持っている。


 凪はゆっくりと立ち上がると、台所へ向かい、冷蔵庫から冷えたガラス瓶を取り出した。

 トトト、とコップに水が注がれる音が響く。

 彼女が僕の枕元に歩み寄り、コップを差し出した。ガラスの表面には、またたく間に無数の細かな水滴が張り付き、彼女の指先を濡らしていく。


「はい。無理して我慢しなくていいから」


「……すみません」


 コップを受け取るとき、僕の指先が彼女の冷えた皮膚に触れた。

 その瞬間、凪の呼吸がわずかに止まる。彼女の目線が、僕の乾燥して白くなった唇へと落ち、それから何かを確認するように、僕の胸元の上下運動へと移った。

 彼女の指が、僕の持ったコップの縁から、名残惜しそうに離れていく。


 水を一気に飲み干すと、冷たさが食道をまっすぐに突き抜けた。

 その刺激に誘われるように、胃の奥からかすかな、錆びた鉄の匂いがせり上がってくる。僕はそれを喉の奥で静かに噛み殺し、コップを畳に置いた。


 そのとき、玄関の引き戸が、トントンと荒っぽく叩かれた。


 凪の身体が、弾かれたように硬直した。

 彼女の視線が、一瞬で玄関の曇りガラスへと向かう。白いシャツの背中が、すっと引き締まるのが分かった。


「凪ちゃん、いるの? 坂上だけど」


 すりガラスの向こうから、低く、しゃがれた女性の声が届いた。

 近所に住む、一人暮らしの老婦人だった。このアパートの大家の親戚筋にあたる人で、たまに回覧板を持ってきたり、手作りの惣菜を分けてくれたりする。


 凪は僕を振り返った。彼女の瞳の奥に、薄い膜のような拒絶が走る。


「周くん、奥の部屋に入っていて」


 彼女は声を潜めて言った。

 僕は何も言わず、シーツから身体を起こすと、居間と台所を仕切る、古い襖の陰へと身を隠した。

 薄暗い隙間から、玄関の様子が辛うじて見える。


 凪は衣服の皺を一度だけ手で伸ばし、それから引き戸を細く開けた。


「こんにちは、坂上さん。どうされたんですか」


 凪の声は、普段通りの中音域を保っていた。しかし、引き戸の取っ手を握る彼女の指先が、白くなるほど強く力んでいるのを、僕は見逃さなかった。


「いやね、実家からスイカが送られてきてさ。大きなのが二玉も届いちゃって、とても食べきれないから。ほら、半分だけど、持ってきてあげたよ」


 坂上さんは、大きなプラスチックのボウルに載せられた、真っ赤なスイカの半玉を差し出した。

 切り口には、几帳面にラップがかけられており、大粒の黒い種が、透き通った果肉の中に規則正しく並んでいる。


「ありがとうございます。嬉しいです」


 凪が手を伸ばし、重そうなボウルを受け取った。


「いいのよ、気にしないで。それよりさ……」


 坂上さんは、開いた戸の隙間から、ずいと顔をアパートの室内に近づけた。

 その視線は、凪の肩をすり抜け、部屋の奥の薄暗がりへと向けられている。僕が隠れている襖のあたりを、品定めするような、湿った目がせわしなく動いた。


「例の、男の子。まだいるのかい?」


 部屋の空気が、一瞬で重くなったように感じられた。

 蝉時雨の音が、妙に遠ざかっていく。


「ええ。まだ、体調が良くないみたいで」


 凪の背中が、わずかに丸くなった。彼女はスイカのボウルを胸の前に抱え、まるでそれを盾にするようにして立っている。


「そう。大変ねえ、凪ちゃんも」


 坂上さんは、ふう、と大げさなため息をついた。その顔に、歪みのない、純粋な同情の笑みが浮かぶ。


「若いお嬢さんが一人でさ、あんな身元の分からない、行き倒れみたいな男を囲っちゃって。周りのみんなも心配してるんだよ? 変な事件に巻き込まれてるんじゃないかって。あんなに線の細い、頼りない男じゃ、何かあっても凪ちゃんを守れやしないでしょうに。可哀想に、断れなかったんだねえ」


 彼女の言葉には、一片の悪意もなかった。

 それは、自分たちの平穏な生活という高い足場から、足元に転がっている不気味な迷い犬と、それを拾ってしまった哀れな娘を見下ろす、絶対的な優越感だった。

 親切という名の、無菌室で育てられた醜さ。

 坂上さんは、凪を「可哀想な被害者」に仕立て上げることで、自分の健全さを確かめているのだ。


「何か困ったことがあったら、すぐに言うんだよ? 男手が必要なら、うちの息子を向かわせるからさ。あんな頼りない男、いつでも追い出してあげるからね」


「……お気遣い、ありがとうございます。でも、大丈夫ですから」


 凪の声から、完全に温度が消えていた。

 彼女はそれ以上、坂上さんに部屋の中を見せないよう、身体の角度を変えて隙間を狭めた。


「そう? まあ、無理しちゃダメよ。スイカ、冷たいうちに食べなさいね」


 坂上さんは、自分の義務を完璧に果たしたという満足感を顔に張り付けたまま、サンダルを鳴らして階段を下りていった。


 ガラガラ、と引き戸が閉まり、鍵がかけられる。


 凪はしばらくの間、玄関に突っ立ったまま動かなかった。

 腕の中のスイカが、彼女の体温を奪っていく。真っ白なリネンのシャツに、ボウルの底に付いた水滴が、じわりと丸い染みを作っていった。


 僕は襖の陰から、静かに姿を現した。


「凪さん」


 名前を呼ぶと、彼女はびくりと肩を揺らし、それからゆっくりとこちらを振り向いた。

 その顔は、西日を浴びているはずなのに、どこか血の気が引いて白かった。唇が微かに震えている。


「聞こえてた?」


「はい」


 僕は彼女の元へ歩み寄り、その重そうなボウルを両手で受け取った。

 スイカの、生臭い、瑞々しい夏の匂いが鼻を突く。


「重いですね。僕が台所に運びます」


「周くん」


 凪が、僕の細い手首を掴んだ。

 坂上さんに「頼りない」と言われた、白磁のような僕の手首。彼女の指先は、驚くほど冷たくなっていた。


「あの人の言うこと、気にしないで。あの人は、何も知らないから」


 彼女の目は、僕に許しを乞うているようでもあり、同時に、僕をこの部屋から絶対に逃がさないと誓っているようでもあった。

 町の人々が僕を排除しようとすればするほど、彼女の歪んだ母性は、その輪郭をより鮮明にしていく。社会から孤立したこの部屋だけが、彼女にとっての唯一の聖域であり、僕を飼育するための完璧な檻になるからだ。


 すべては、僕の計算の範疇だった。

 町の人々の無意識の排他性も、それによって凪が抱く孤立感も、すべてが僕たちの主従関係を深めるための、上質な潤滑油に過ぎない。


「気にしていませんよ」


 僕は、彼女の掴んだ手首にわざと少しだけ力を入れ、彼女の指先を自分の皮膚に深く沈めさせた。


「僕は、ここにいられれば、それでいいですから。凪さんのそば以外に、行く場所なんてありません」


 凪の喉が、小さく鳴った。

 彼女の瞳の奥の、あの静かで濃密な光が、じわりと復活していく。それは、自分なしでは生きていけない生き物を、完全に手中に収めた者の恍惚だった。


「……そうね。ここにいればいいの」


 彼女は手を離し、小さく微笑んだ。

 台所で、凪が包丁を握った。

 サク、サク、と小気味よい音が響き、真っ赤な果肉が、均等な三角形に切り分けられていく。

 ガラスの皿に盛られたスイカは、室内の熱気の中で、すでに表面がうっすらと汗をかき始めていた。


 ローテーブルを挟んで、僕たちは畳の上に座った。


「はい、周くん」


 凪が一切れ、僕に差し出す。

 僕はそれを受け取り、食卓の上に置かれた食卓塩の瓶を手に取った。


 プラスチックの蓋を開け、真っ赤な果肉の上に、多めの塩を振る。

 ジャリ、ジャリ、と白い結晶がスイカの水分に溶け込んでいく。


「そんなに塩をかけるの?」


 凪が不思議そうに目を丸くした。


「この方が、甘くて美味しいんです」


 僕はスイカに口をつけた。

 最初に、舌を刺すような強い塩気が広がり、その直後に、果肉の圧倒的な甘みと、青臭い水分が口内を満たした。

 冷たさは、すでにぬるい空気の中に溶けかけていた。


 過剰な塩分が、熱中症の残る僕の身体に、急速に染み込んでいく。

 喉を通るときの、その不格好な味が、妙に心地よかった。


 凪も黙って、自分の分のスイカを口に運んでいた。

 彼女の白いリネンシャツの袖口は、僕が先ほど触れたせいで、微かに皺が寄っている。

 彼女は、自分が僕を飼い慣らしていると信じている。坂上さんの言葉に傷つきながらも、僕を隠し通すことに、暗い全能感を覚えている。


 窓の外では、さらに巨大化した入道雲が、青空を浸食するようにそびえ立っていた。

 蝉時雨は、衰える気配を見せない。


 僕はスイカの種を、ガラスの皿の端に、静かに吐き出した。

 コツン、と小さな音が響く。


 隣人の優しさも、その裏にある醜さも、すべてはこの白い檻の壁を厚くするためのレンガに過ぎない。

 僕はそれを一つひとつ丁寧に積み上げながら、彼女が完全に引き返せなくなるその日を、静かに待ち続けていた。

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