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残響と内なる獣  作者: あめたす


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第七話:白いシーツの檻

第七話:白いシーツの檻


 玄関の引き戸が、ガラガラと重い音を立てて閉まった。

 鍵が内側からではなく、外側からカチャリと回される金属音が、静まり返った室内に小さく響く。


 僕は畳の上に寝転んだまま、その音の余韻を耳の奥で受け止めていた。

 遮光性の低いすだれを透かして、午前中の白い光が格子模様になって床に落ちている。その光の帯の中に、部屋を浮遊する微細な埃が、きらきらと光りながらゆっくりと沈んでいくのが見えた。


 凪は出かける前、僕の枕元にいくつかのものを置いていった。

 半分ほど氷の溶けた水差しと、新しいフェイスタオル。それから、地元の薬局のパルプ袋に入った、経口補水液の粉末。


「外は、まだ日差しが強いから」


 彼女は白いリネンのシャツのボタンを上まで留めながら、僕の足元に視線を落としてそう言った。


「昨日みたいな眩暈がまた起きたら、誰も気づけない。だから、私が戻るまで、この部屋から出ないで」


「はい」


「誰かが訪ねてきても、居留守を使って。このアパート、たまに回覧板を持った隣の人が来るから。でも、出なくていい」


「わかりました」


 僕はシーツから腕だけを出して、彼女に手のひらを見せた。

 指先はまだわずかに震えていた。熱中症の残響を脳が正確に再現し、末梢神経に微弱なパルスを送っている。

 凪はその手のひらをじっと見つめ、何かを言いかけ、しかし唇を引き結んでそのまま玄関へと向かったのだった。


 彼女が僕に「鍵」をかけた。

 その事実が、ぬるい空気の中に静かに定着していく。


 ブーン、と規則的な首振り音を立てて、扇風機が左右に頭を動かしている。

 風がこちらを向くたびに、洗いたての白いシーツがパタパタと小さく羽ばたき、僕の剥き出しの首筋に冷気とも熱気ともつかない空気の塊を叩きつけた。


 凪が今朝、仕事へ行く前に交換してくれたシーツは、まだパリッとした硬さを残している。

 鼻を近づけると、彼女がいつも使っている柑橘系の洗剤の匂いが、繊維の奥からツンと香った。その匂いを吸い込むたびに、自分の肺が彼女の管理する領域で満たされていくような感覚がある。


 僕は寝返りを打ち、シーツを頭から被った。

 視界が真っ白に染まる。

 織り目の隙間から、わずかに透けて見える太陽の光が、網膜を薄いピンク色に染めた。


 暑い。

 熱中症の後遺症による微熱のせいか、それともこの部屋の密閉性のせいか、僕の体温はシーツの内側にすぐに籠もった。

 じわりと滲み出た汗が、胸元から腹のあたりへと流れていく。

 それでも、僕はシーツを剥ぎ取ろうとはしなかった。この布の檻に包まれていること自体が、凪の言いつけを忠実に守っているという証明になるからだ。


 チリ、と軒下の風鈴が鳴った。


 時計の針の進む音が、妙に大きく聞こえる。

 正午を過ぎ、午後二時を回る頃には、部屋の空気は完全に澱んでいた。

 すだれの向こうからは、油の沸騰するような蝉時雨が絶え間なく押し寄せてくる。遠くの潮騒の音は、その激しい鳴き声に掻き消されて、もうほとんど聞こえなかった。


 僕はシーツの中で、ゆっくりと自分の指先を見つめた。

 爪の間に、わずかに黒い土の汚れが残っている。あの日、夜の山道を走り抜け、泥を吐きながらここまで逃げてきたときの記憶の破片。


 何も思い出せない、と僕は彼女に言った。

 名前も、過去も、ここへ来た理由も。

 彼女はその嘘を、驚くほど簡単に、そして貪るようにして受け入れた。

 なぜなら、何も持たない僕でなければ、彼女の「飼育箱」には収まらないからだ。


 凪。

 彼女の前に、死にかけた僕が現れた。

 無力で、脆く、自分がいなければすぐに消えてしまう、美しい捨て犬。

 彼女は僕を世話し、支配し、この古いアパートのひと間に閉じ込めることで、自らの内にある重い記憶を、甘美な母性で上書きしようとしている。


 僕はそれを、彼女の呼吸のズレや、指先の躊躇からすべて読み取っていた。

 詰め込みすぎた法とロジック、人間の行動心理のデータが、僕の脳内で正確な数式を組み立てていく。

 彼女が僕に外へ出るなと言うのは、僕を守るためではない。

 僕が社会と繋がり、自分の手から離れていくことを恐れているからだ。この白いシーツの檻の中に、僕を永遠に繋ぎ止めておきたいという、独占欲。


 いいだろう、と思う。

 僕はシーツの端を強く握りしめた。

 手の甲の静脈が、青く浮き上がる。


 彼女がそれを望むなら、僕はどこまでも無力なペットでい続けよう。

 彼女の歪んだ母性が完成し、僕なしでは彼女自身の精神が維持できなくなるまで、この鳥籠の中で微睡んでやる。

 それが、僕がこの町で手に入れた、新しい生き方だった。


 午後四時。

 西日が部屋の奥深くまで差し込んできた。

 畳の上に置かれた水差しの氷は完全に溶けきり、ガラスの表面には無数の大きな水滴が張り付いている。

 それを指先で一滴、なぞる。

 冷たさはもうなく、生温い水の感触だけが指腹に残った。


 喉が渇いていた。

 けれど、僕は枕元の水差しに手を伸ばさなかった。

 凪が帰ってきたとき、僕が干からびかけた状態でシーツの中に転がっている方が、彼女にとっては「正しい」からだ。


 遠くで、ゴトゴトと電車の走る音がした。

 一時間に数本しか通らない、単線のローカル列車。

 その音が完全に消え去ったあと、不意にアパートの階段を上がる足音が聞こえた。


 軽い、サンダルの音。

 凪だ。


 僕はすぐにシーツの中に身体を丸め、呼吸を浅く、規則正しいものに変えた。

 一分間に十六回。彼女が僕を見つめるときの、あのリズム。


 ガチャリ、と鍵が開き、引き戸が静かに引かれた。

 ぬるい潮風と共に、彼女の気配が部屋に入ってくる。


「周くん?」


 凪の声は、どこか強張っていた。

 部屋の中に僕がまだいるかどうかを、確かめるような怯え。


 僕はゆっくりとシーツから顔を出した。

 西日に照らされた彼女の白いリネンシャツは、汗で背中のあたりが薄く肌に張り付いている。

 彼女の手には、買い物袋が握られていた。


「……おかえりなさい、凪さん」


 僕はわざと声をかすれさせ、眩しそうに目を細めた。

 凪は僕の姿を確認すると、あからさまに、深く長い息を吐き出した。

 彼女の肩の線が、すとんと下に落ちる。


「ずっと、そこにいたの?」


「はい。言われた通り、一歩も出ていません」


 僕はシーツの上に両手を投げ出した。

 汗で濡れた黒い髪が、額に張り付いている。白磁のような肌は、西日のせいで微かに上気したように見えた。


 凪は買い物袋を台所に置くと、そのまま僕の枕元へと近づいてきた。

 彼女の衣服から、夏の終わりのような、乾いたコンクリートとミントの匂いが立ち上る。


 彼女は僕の横に膝をつくと、何も言わずに、僕の手首をそっと掴んだ。

 冷たい指先が、僕の脈拍を確かめるように、親指の付け根の動脈を圧迫する。


 トク、トク、トク。

 僕の心臓は、彼女の意図を察して、少しだけ速度を上げていた。


「少し、熱があるみたい」


 凪の声は、昼間の静寂よりもずっと湿り気を帯びていた。

 彼女の指が、手首から滑るようにして、僕の頬、そして首筋へと移動していく。


「お水、飲まなかったの?」


「凪さんが戻ってから、飲もうと思って」


 僕は彼女の冷たい手のひらに、そっと自分の顎を預けた。

 力を完全に抜き、彼女の柔らかさに身を委ねる。


 凪の瞳が、一瞬だけ鋭く細くなった。

 それは、檻の中の生き物が、自分の与えるものだけで生かされていることを確信した、捕食者の目だった。

 彼女の内に潜む「獣」が、僕のこの無力さによって、静かに、しかし確実に狂わされていく。


「従順だね」


 彼女は小さく呟いた。その声には、微かな愉悦が混ざっている。


「僕は、凪さんの犬ですから」


 僕は目を閉じ、彼女の指先が僕の首筋をなぞる感触だけに集中した。

 その指が、ほんの少しだけ力を込めれば、僕の細い喉など簡単に潰れてしまうだろう。

 彼女はその加害性を、自らの純粋な優しさの裏側に隠し持っている。


 いいよ、もっと強く握ればいい。

 僕はシーツの中で、声を出さずに笑った。


 部屋の隅で、扇風機が相変わらずブーンと首を振り続けている。

 西日は畳を真っ赤に染め上げ、僕たちの影を一つの巨大な塊にして、壁の向こうへと押し付けていた。

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