第六話:ぬるいスポーツドリンク
第六話:ぬるいスポーツドリンク
朝の光は、すでに昨日の熱を孕んで部屋を満たしていた。
すだれの隙間から差し込む鋭い光の帯が、畳の上をじりじりと移動していく。
午前九時を回ったばかりだというのに、室内の温度は容赦なく上昇していた。天井近くで小さく唸りを上げる換気扇は、外の生温い空気をかき混ぜるだけで、一向に涼しさをもたらさない。
僕は壁に背を預けたまま、膝を抱えて座っていた。
新しく切り揃えられた髪が、首筋に触れるたびに微かな痒みをもたらす。首元に張り付いた薄い汗が、扇風機の風に吹かれて頼りなく冷えては、またすぐに熱を帯びた。
台所では、凪が動いていた。
白いリネンのノースリーブシャツを着た彼女の背中は、光を反射して眩しいほどに白い。
トントン、と小気味よい音を立ててまな板の上の赤カブを刻む音が、蝉時雨の奥から規則正しく届く。
ふいに、視界の上下が激しく入れ替わった。
「あ、」
声というよりも、乾いた息が漏れた。
後頭部を巨大な磁石で引っ張られたような感覚。重力が斜めに傾き、僕の身体は畳の上へと滑り落ちた。
右の頬が、目の粗い畳の表面にじかに触れる。乾いた草の匂いと、吸い込んだ埃が鼻腔を刺激した。
視界の端がぐにゃりと歪み、台所の凪の足元が、遠い砂嵐の向こうにあるようにかすんでいく。
包丁の音が、ぴたりと止まった。
サンダルが畳を擦る軽い足音が近づいてくる。
視界の下方から、凪の白い麻のスラックスの裾が現れ、僕の目の前で止まった。
「周くん」
名前を呼ばれた。彼女が僕につけた、ただの記号。
凪は僕の横にしゃがみ込み、冷たい指先で僕の額に触れた。
その氷のような冷たさが、熱を持った皮膚にじわりと沈み込んでいく。それだけで、頭の奥の痛みがほんの少しだけ和らぐような錯覚を覚える。
「また、眩暈?」
「すみません。少し、天井が……」
僕はそれ以上言葉を続けず、目を閉じた。
長い睫毛が頬の皮膚に触れる。呼吸をするたびに、胸の奥が熱い砂を吸い込んだように痛んだ。
凪の指先が額から離れた。
彼女は僕を抱き起こそうとはせず、ただその場に立ち上がり、再び台所へと戻っていった。
普通なら、ここで救急車を呼ぶか、せめて近くの診療所へ担ぎ込むべきだろう。熱中症の後遺症がこれほど長引いているのだから、水分補給だけで済む段階はとうに過ぎているかもしれない。
けれど、凪の足音に焦燥の色はなかった。
彼女は棚からガラスのキャニスターを取り出し、スプーンで何かをすくう音を立てている。
カサ、カサ。
続いて、冷蔵庫が開き、プラスチックのボトルから水が注がれる音がした。
最後に、トントン、とレモンを一切れ切り落とす鋭い音が響く。
彼女は、僕を外の世界に触れさせたくないのだ。
病院へ行けば、保険証の提示を求められる。身元の確認が行われる。記憶喪失の青年として警察に連絡がいくかもしれない。そうなれば、この狭く清潔な飼育箱は、一瞬にして壊れてしまう。
彼女はそれを、何よりも恐れている。
僕は閉じた瞼の裏側で、そのすべてのロジックを正確に並べ替えていた。
彼女の行動の不自然さ、その根底にある、僕を社会から完全に隠匿したいという欲求。
すべては計算通りだった。彼女が僕を隠そうとすればするほど、この部屋の壁は厚くなり、僕の存在は彼女の中に深く沈殿していく。
「起きて。少しだけ、上体を上げて」
凪の声がすぐ耳元で聞こえた。
目を開けると、彼女は畳の上に膝をつき、片手に透明なガラスのマグカップを持っていた。
中には、うっすらと白濁した液体が揺れている。底の方には、溶けきっていない粗塩の粒がいくつか沈んでいた。
僕は壁を支えにして、ゆっくりと上体を起こした。
それだけの動作で、背中の筋肉が悲鳴を上げ、皮膚から新しい汗が吹き出す。
「自分で持てる?」
「……手が、うまく動かなくて」
僕はあえて、両手を膝の上においたまま、わずかに指先を震わせてみせた。
白磁のような手の甲が、真夏の光の中で無力に転がる。
凪は何も言わなかった。
ただ、マグカップに添えられていたプラスチックの白いスプーンを取り上げ、中の液体を静かにすくった。
彼女の細い指先が、スプーンの柄を固く握っている。
「はい」
唇の前に、透明な液体を満たしたスプーンが差し出された。
僕は少しだけ口を開け、それを迎え入れた。
ぬるかった。
冷蔵庫から出したばかりの水を使ったはずなのに、彼女が手のひらで温めたのか、あるいは部屋の熱気が移ったのか、液体は人肌に近いぬるさを持っていた。
口の中に、強めの塩気と、砂糖の重い甘み、そしてレモンの鋭い酸味が広がっていく。
洗練された市販のスポーツドリンクとは違う、あまりにも不格好で、過剰な味がした。
喉を通るとき、そのぬるさが食道をじわじわと刺激する。
「おいしい?」
凪は僕の顔をじっと見つめながら、二杯目のスプーンをすくった。
彼女の瞳の奥に、微かな光が灯っている。それは、飢えた野良犬に初めて餌を与える子供のような、あるいは自分の手でしか生かして置けない人形を愛でるコレクターのような、静かで濃密な光だった。
「はい。すごく、落ち着きます」
僕は喉を小さく鳴らして、差し出された液体を飲み込み続けた。
三杯、四杯。
スプーンが僕の唇に触れるたび、パチ、と小さなプラスチックの音が部屋に響く。
凪の呼吸のテンポが、徐々に一定になっていくのがわかった。
一分間に十六回。
ベランダで僕の髪を切っていたときと同じ、あの迷いのない、統制されたリズム。
彼女は今、僕の口元にスプーンを運び、その命を自分の手で繋ぎ止めているという事実に、言葉にできない充足を覚えている。
僕がこのぬるい液体を拒まず、むしろそれを求めるようにして喉を動かすたび、彼女の内に潜む「飼育箱の主」としての本能が、静かに満たされていくのだ。
僕はわざと、唇の端から一滴だけ液体をこぼした。
ぬるい水滴が、僕の顎を伝い、首筋へと流れていく。
凪は小さく息を吸うと、もう片方の手に持っていた洗いたての白いタオルで、僕の顎をそっと拭った。
タオルの乾いた繊維が、僕の皮膚を少しだけ強く擦る。その痛みが、眩暈でぼやけていた意識を鮮明に引き戻した。
「焦らなくていいから。全部飲んで」
「すみません。汚してしまって」
「いいの。服は、洗えば済むことだから」
彼女はスプーンをマグカップに戻し、今度はカップの縁を僕の唇に直接当てた。
トトト、とぬるい液体が口内に流れ込んでくる。底に沈んでいた塩の結晶が、舌の上でジャリリと不快な音を立てて潰れた。
その過剰な塩分が、僕の体内に急速に吸収されていく。
窓の外では、遠くの水平線の上にそびえ立つ入道雲が、さらに巨大に膨れ上がっていた。
カンカンと照りつける太陽が、アパートのコンクリート壁を外側からじっくりと焼き続けている。
室内には、扇風機の首振り音と、僕が液体を飲み込む音だけが響いていた。
すべてを飲み干すと、凪は満足そうにマグカップを畳の上に置いた。
カツン、という軽い音が、静かな部屋に境界線を引くように鳴る。
「もう少し、横になっていた方がいい」
凪は僕の肩に手を置き、ゆっくりと畳の上へ寝かせた。
洗いたてのシーツが、僕の背中の汗をすぐに吸い取っていく。柑橘系の洗剤の匂いが、鼻腔の奥まで満たした。
「ここで、じっとしていてね」
彼女はそう言い残すと、空になったマグカップを持って、再び台所へと去っていった。
ジャブジャブと、水道水でガラスを洗う音が聞こえてくる。
僕はシーツの上に大の字になり、天井の木目をじっと見つめていた。
ぬるいスポーツドリンクは、すでに僕の胃の中で分解され、血液となって全身を巡り始めている。
頭の奥の痛みは消え、眩暈の霧も晴れていく。
身体は、確実に回復していた。
本当は、もう立ち上がることだってできる。外へ出て、この町を歩き回るだけの筋力は、十分に手戻っている。
けれど、僕は動かない。
一本の糸も通っていない人形のように、ただ白いシーツの中で四肢を投げ出している。去勢された犬が、主人の戻りを待つ姿勢のまま。
台所から、再びトントンと野菜を刻む音が聞こえ始めた。
凪は僕がまだ苦しんでいると思っている。自分がいなければ、この美しい生き物はすぐに干からびて死んでしまうと、そう信じ込んでいる。
僕は薄く目を開け、すだれの隙間から見える、不自然なほどに青い夏の空を見つめた。
彼女の組み立てた鳥籠は、驚くほど脆く、そして美しい。
僕はその格子を内側から愛おしく撫でながら、次の計算を始めていた。
彼女の優しさが、いつかその限界を迎える瞬間のために。僕がその牙を剥くべき、最も正しい白昼のタイミングを。




