表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
残響と内なる獣  作者: あめたす


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/15

第五話:名前のない契約

第五話:名前のない契約


 ベランダに敷き詰められていた新聞紙が、カサリと乾いた音を立てて畳まれた。

 凪は僕の切り落とされた髪を、一筋も残さないように丁寧に包み込み、そのまま台所のゴミ箱へと沈めた。ポリ袋が擦れ合うカサカサという音が、狭いアパートの壁に反響しては消える。


 部屋に戻ると、すだれ越しの光は黄色みを帯びていた。

 西日が畳の目を長く引き伸ばし、部屋の隅にある古い引き出しの影を、壁の向こうまで届きそうなほどに伸ばしている。


 首振りを続ける扇風機が、時折、生温い風を僕の新しい短い髪に吹き付けた。

 首筋が妙に涼しい。むき出しになった皮膚が、部屋の湿度を直接吸い込んでいくようだった。


「これ、飲んで」


 台所から戻ってきた凪の手には、結露でびっしょりと濡れた透明なガラス瓶が二つ握られていた。

 彼女はそれを、畳の上にじかに置いた。

 カツン、とガラスと床がぶつかる小さな音が響き、置かれた場所からまたたく間に小さな水たまりが広がっていく。


 市販の炭酸水だった。

 凪が金属のキャップに指をかけ、ひねる。

 プシュー、と、鋭いガス抜きの手応えが部屋の静寂を破った。


 続いて、小さな気泡がボトルの底から一斉に湧き上がり、ガラスの内壁を激しく叩きながら上昇していく。

 その様子を、僕はただ黙って見つめていた。


「ありがとうございます」


 ボトルを受け取ると、手のひらに容赦のない冷たさが張り付いた。

 熱中症の残る僕の体温が、ガラスの表面を急激に温めていくのがわかる。

 一口すすると、きめの粗い泡が喉の粘膜をチクチクと刺激し、そのまま胃の奥へと落ちていった。かすかに残っていた口の中の鉄の味が、炭酸の刺激によって洗い流されていく。


 凪は自分のボトルを口元に運び、喉を鳴らさずに静かにそれを飲み干していった。

 白いリネンのシャツの胸元が、呼吸に合わせて小さく波打つ。

 彼女の顎のラインに、ボトルの表面から滴り落ちた一滴の水滴が走り、鎖骨の窪みへと消えていった。


 凪はボトルを畳に置くと、膝の上に両手を揃えて、僕をまっすぐに見つめた。


「お腹は、空いてる?」


「いえ、あまり」


「そう。じゃあ、明日の朝から普通に作ればいいね」


 彼女の口調は、まるで長年一緒に暮らしてきた同居人に、明日の予定を確認するかのようだった。

 そこには、行き倒れの人間を拾ったという大袈裟な動揺も、これからどうするのかという世間的な焦燥も含まれていない。

 ただ、淡々と、目の前にある事実だけを処理しようとしている。


 規則的な扇風機の風が、凪のシャツの襟を揺らした。

 彼女は一度視線を落とし、畳の上の水滴を指先でなぞるようにして広げた。


「いくつか、決めておきたいことがあるの」


 僕はボトルを両手で握りしめたまま、小さく頷いた。

 冷えたガラスが、指先の感覚を麻痺させていく。


「あなたの過去を、私は探さない。警察に届けることも、町の人に詳しく話すこともしない」


 凪の声は、低く、湿度のない風のようだった。

 彼女の指先が、畳の上の水滴を完全に引き伸ばし、薄い膜に変えていく。


「だから、あなたも私の過去を探さないで。私がここで何をしているのか、昔どこにいたのか。そういうことは、一切訊かないこと」


 部屋の奥で、軒下に吊るされた風鈴が、ちり、と一度だけ短く鳴った。

 夕方の、少し重くなった潮風がすだれを揺らす。


 僕はゆっくりと、凪の瞳に視線を戻した。

 陽の届かない深い海のようなその目は、僕の反応をじっと待っている。

 彼女が求めているのは、正論でも、感謝の言葉でもない。

 この静かな飼育箱の中で、互いの境界線を侵さないという、沈黙の合意だけだ。


「わかりました」


 僕は声のトーンを、できるだけ低く、脆いものに調整して返した。

 去れていくノラ犬が、新しい飼い主の足元で息を潜めるように。


「僕は、何も持っていませんし、思い出すこともありません。凪さんがそう言うなら、僕は何も訊きません」


 凪の喉が、微かに上下した。

 彼女の張り詰めていた肩の線が、ほんの少しだけ下がる。

 そのわずかな姿勢の変化を、僕の網膜は逃さずに捉えていた。


 彼女は満足している。

 身元のわからない、記憶を失った美しい生き物を、自分の手の中に完全に閉じ込めることができたという事実に。

 誰にも言えない秘密を持つ彼女にとって、この無力な「僕」という存在は、自らの手で支配し、世話し続けることでしか得られない、何らかの欠落を埋めるための道具なのだ。


「部屋から、勝手に出ないでね」


 凪は重ねて言った。

 その言葉は静かだったが、明確な檻の格子を組み立てる響きを持っていた。


「外には、色んな人がいるから。身元のわからない人が歩いていると、この町ではすぐに噂になる」


「はい。ここにいます」


 僕は微笑みさえ浮かべず、ただ従順に頭を下げた。

 シーツの柑橘系の匂いと、凪の体から漂うミントの香りが、夕暮れの重い空気の中で混ざり合っていく。

 僕たちはそれ以上、言葉を交わさなかった。

 ただ、グラスの中で残った炭酸水の泡が、カラランと小さな音を立てて消えていくのを聞いていた。


 夜が、急速に部屋を侵食し始めていた。

 すだれの向こうの空は、鮮やかな青から、濃い群青色へとグラデーションを変えていく。

 町内放送の夕方のチャイムが遠くで鳴り響き、それが終わると、蝉の声がピタリと止んで、代わりに夜の虫の頼りない羽音が聞こえ始めた。


 凪は立ち上がり、部屋の電気を点けないまま、台所へと向かった。

 暗がりの中で、彼女の白いシャツだけが、ぼんやりと浮き上がって見える。


 カサカサと、米を研ぐ音が聞こえてきた。

 冷たい水道水が、ボウルの中で跳ね返る規則的な音。


 僕は畳の上に置かれた、完全に温くなった炭酸水のボトルを見つめていた。

 手のひらには、ガラスの冷たさの残響だけが、しびれとなって残っている。


 頭の奥の深い場所で、一度狂ってしまった僕の計算回路が、再び静かに、恐ろしいほどの速度で駆動を始めていた。


 何も思い出せない、というのは最初の嘘だ。

 僕の脳内には、かつて詰め込みすぎたあらゆる知識の記号が、今も整然と並んでいる。

 自分がなぜすべてを捨ててここへ行き着いたのかも、その過程でどれほどの泥を吐いたのかも、すべて鮮明に記憶している。


 そして、目の前で米を研いでいるこの女性、凪。

 彼女が僕の顔を見た瞬間に見せた、あの吸い付くような視線の意味も、すべて理解している。

 彼女は僕を飼うことで、自らの罪を薄めようとしている。無力な存在を支配するという甘美な檻を、この部屋に作り上げようとしている。


 いいだろう、と思う。

 僕はその歪んだ母性の檻の中に、喜んで、去れていく犬の振りをして収まり続けよう。

 彼女が差し出すぬるいドリンクを飲み、洗いたてのシーツに微睡みながら、牙を完全に隠し通してやる。


 窓の外から、冷え始めた潮風がすだれをすり抜けて入ってきた。

 僕の短い髪が、サラサラと微かな音を立てて揺れる。


 名前のない契約は、今、完全に結ばれた。

 暗い台所で動き続ける凪の背中を、僕は真夏の夜の闇の中から、ただ静かに、冷徹に見つめ続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ