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残響と内なる獣  作者: あめたす


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第四話:ハサミの音と青空

第四話:ハサミの音と青空


 遮光性の低いすだれの隙間から、容赦のない白光が畳を切り刻んでいた。


 正午を告げる町内放送のチャイムが、遠い潮騒の彼方から薄く響いてくる。

 その頼りないメロディが途切れると、すぐに元の、油を沸騰させたような蝉時雨が部屋を埋め尽くした。


 僕は壁に背を預けたまま、ゆっくりと深く息を吸い込んだ。

 肺の奥の熱は、昨日に比べればいくらか落ち着いている。しかし、少しでも急に頭を動かすと、視界の端が火花のように白く明滅した。

 完全に抜けきらない熱中症の残響が、鉛のように両肩へのしかかっている。


 台所の方から、引き出しを開閉する音が聞こえた。

 パチン、と硬い金属が噛み合う音がして、やがて凪が部屋に戻ってくる。

 彼女の手には、小ぶりのステンレス製のハサミと、何枚かに折り畳まれた古い新聞紙が握られていた。


「髪、長いね」


 凪は僕の正面に立つと、僕の額に垂れ下がった黒い髪を、人差し指の背で軽く撥ね上げた。

 彼女の指先は今日も冷たくて、触れられた皮膚の裏側が、小さくあぶくを立てるように震える。


「目にかかって、痛いでしょう」


「……少し」


 僕は視線を上げず、彼女の履いている白い木綿のスラックスの裾を見つめた。

 凪は短く息を吐くと、部屋の隅にあるアルミ製の丸椅子を引き寄せた。


「ベランダに出よう。中は、毛が散ると掃除が大変だから」


 彼女に促されるまま、僕は重い身体を引きずるようにして立ち上がった。

 一歩踏み出すたびに、膝の皿が笑うように震える。凪は僕の肘のあたりにそっと手を添え、窓際へと導いた。その手のひらの微かな圧力が、今の僕にはひどく確かなものに感じられた。


 ガラス戸を開けると、ぬるい潮風が容赦なく顔を叩いた。

 ベランダは、大人一人が座ればいっぱいになるほど狭い。コンクリートの床は、午前中の日差しを浴びて、スニーカーの底越しにも伝わるほど熱を持っていた。


 凪は手際よく床へ新聞紙を敷き詰め、その中央に丸椅子を置いた。


「座って」


 言われるままに腰を下ろす。

 頭上からは、遮るもののない真夏の太陽が照りつけていた。空は不自然なほどに青く、遠くの水平線の上に、巨大な入道雲がそびえ立っている。


 凪が僕の背後に回り、ごわごわとした薄手のタオルを僕の首元に巻きつけた。

 柑橘系の洗剤の匂いが、タオルの繊維からかすかに立ち上る。首元をきつめに締められると、自分が小さな檻に固定されたような、奇妙な落ち着きが体内に生まれた。


 シャキ、と耳元で刃物の擦れ合う音がした。


「動かないでね」


 凪の低い声と同時に、彼女の指が僕の髪をすくい上げる。

 頭皮がわずかに引っ張られ、続いてパチ、パチ、と硬い音が連続して響いた。


 切り落とされた黒い髪が、重力に従ってまっすぐに落ちていく。

 真っ白な新聞紙の上に、黒い点線を描くようにして散らばっていく。いくつかは、僕の膝の上に置いた手の甲や、凪の白いリネンシャツの袖口に張り付いた。


 白と、黒。

 その鮮烈な対比だけが、まぶしい光の中で静かに静止しているように見えた。


 チョキン、とハサミが動くたび、首筋にチクチクとした微かな痛みが走る。

 僕は目を閉じ、耳から入ってくる音だけに意識を向けた。

 ハサミが噛み合う金属音。凪が足の位置を入れ替えるときの、サンダルとコンクリートの擦れる音。

 そして、彼女の規則正しい呼吸。


 一分間に、およそ十六回。

 彼女の呼吸のテンポは、驚くほど一定だった。動揺も、迷いもない。ただ、目の前にある僕の髪を、自らの手で切り揃えることだけに没頭している。

 その呼吸の合間に、彼女が時折、ふう、と小さく息を吹きかけて、僕の首筋に散った細かい髪を飛ばした。その生温かい風が触れるたび、背骨の裏側がゾクゾクと粟立つ。


 ふいに、強烈な立ち眩みが僕を襲った。

 目を閉じているせいか、平衡感覚が急速に失われていく。世界がぐらりと大きく傾き、椅子の座面が消えたような錯覚に陥る。


「あ、」


 声にならない吐息が漏れ、僕は無意識に頭を前に傾けた。

 支えを失った僕の額は、すぐ目の前にあった凪の太ももへと、吸い込まれるようにして不時着した。


 白いリネンの生地越しに、彼女の肉の柔らかさと、皮膚の奥の体温が直接伝わってくる。

 ハサミの音が、ぴたりと止まった。


 ベランダを、激しい蝉時雨だけが通り抜けていく。

 やってしまった、と思った。しかし、そこから頭を動かすだけの筋力は、今の僕の身体には残っていなかった。僕はただ、されるがままに、彼女の膝に頭を預け続けた。

 額のあたる位置から、凪のスラックスがじわりと僕の脂汗を吸っていくのがわかる。


 凪は、動かなかった。

 僕を突き放すことも、声を上げて咎めることもしない。

 ただ、沈黙が二人の間に満ちていく。


 やがて、彼女の細い指先が、僕のうなじのあたりにそっと触れた。

 迷うような短い躊躇のあと、その手のひらが、僕の頭部をゆっくりと包み込む。

 まるで、手に入れたばかりの壊れやすい玩具の硬さを確かめるような、慎重な手つきだった。


 彼女の指が、僕の髪の間をゆっくりと泳ぐ。

 その動きに応じて、僕の頭は彼女の太ももに、より深く押し付けられた。

 凪の呼吸が、わずかに速くなる。一分間に二十回。彼女の胸のあたりが、小さく上下しているのが、頭頂部越しに伝わってきた。


 僕は目を閉じたまま、その変化を冷静に数えていた。

 彼女の指先の震え、衣服の擦れる音、そのすべてが、僕の頭の中で明確なデータとして処理されていく。

 彼女は今、僕のこの無力さに、言葉にできない充足を覚えている。

 守らなければ簡単に壊れてしまう、この動かない生き物を、自分の支配下に置いているという事実に。


 僕はあえて、身体の力を完全に抜いた。

 一本の糸も通っていない人形のように、ただ彼女の膝の肉に体重を預ける。去勢されたノラ犬のように、喉を鳴らすことさえ忘れた振る舞い。


「……眩暈?」


 頭上から、凪の声が降ってきた。それはさっきよりも、どこか湿り気を帯びて聞こえた。


「すみません。少し、目が回って」


 僕は彼女のシャツの裾を今度は掴まず、ただ両手を自分の膝の上にだらりと垂らした。

 無防備な、完全な降伏の姿勢。


「いいよ。そのままにして」


 凪の手が、僕の頭を優しく固定する。

 そして、再びハサミがパチ、パチと音を立て始めた。

 今度は、僕の頭を彼女の身体に預けたまま、残った側頭部や前髪を器用に切り進めていく。


 彼女が動くたび、リネンの擦れる音が耳元で大きく鳴った。

 その衣服からは、柑橘系の洗剤とミントの香りの奥に、ほんの少しだけ、生臭い潮の匂いが混ざっている。この町が彼女に染み込ませた匂いなのか、あるいは、彼女が隠し持っている澱みなのか。


 切り落とされた短い髪が、僕の頬をかすめて新聞紙へと自由落下していく。

 その様子を、僕は薄く開けた視界の端でじっと見つめていた。


 太陽は容赦なく僕たちの肌を焼き、ベランダの空気は熱で歪んでいた。

 しかし、僕の額に触れている彼女の体温だけは、どこか冷ややかで、ぬるいプールの底に沈んでいるような錯覚を覚えさせる。


「よし。終わったよ」


 ハサミが置かれる硬い音がして、首元のタオルが外された。

 凪が僕の肩を優しく押し、僕はゆっくりと彼女の太ももから頭を離した。


 立ち上がった凪は、僕の顔を正面から覗き込んだ。

 目の周りにかかっていた不揃いな髪は綺麗に切り落とされ、僕の白磁のような肌が、真昼の光の中に露わになっている。


 凪の瞳が一瞬、細くなった。

 彼女は自分のシャツの袖についた黒い毛を払うこともせず、ただ僕の新しい輪郭をじっと見つめている。その目は、檻の中の生き物が自分の思い通りの形に収まったことを確認するような、静かな光を宿していた。


「さっぱりした」


 彼女はそう言うと、小さく微笑んだ。その笑みには、昨日コインランドリーの陰で見せたような警戒の色は、もうどこにもなかった。


「ありがとうございます、凪さん」


 僕は短く礼を言い、わざとらしく少しだけ視線を泳がせてから、また自分の足元に目を落とした。


 足元の新聞紙の上には、僕から切り離された大量の黒い髪が、光を吸い込んで重たく横たわっている。

 僕はそれを、ただのゴミとして見つめながら、頭の奥で次の数式を組み立てていた。

 彼女の鳥籠の大きさと、そこへ滑り込むための、最も正しい声のトーンを。

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