第三話:氷の口移し
第三話:氷の口移し
カタ、カタ、と、規則的な音が鼓膜を叩いていた。
安っぽいプラスチックが擦れ合うような、小さく頼りないきしみ。
それが、左右に首を振る扇風機の音だと気づくまで、少し時間がかかった。
視界はまだ暗かった。
瞼が鉛のように重く、内側から熱で押し潰されている。
背中に触れるシーツは、驚くほどサラサラとしていて、洗いたての柑橘系の匂いがした。
自分の皮膚が発する熱が、そのシーツをまたたく間に生温く変えていく。
肺の奥が、まだじりじりと燻っていた。
呼吸をするたびに、乾いた喉が細く悲鳴を上げる。
パキ、と、少し離れた場所で硬い音がした。
続いて、冷凍庫の引き出しが閉まる重い振動が、床を伝って背中に届く。
カララン。
ガラスの器の中で、固形物がぶつかり合う涼しい音が響いた。
その響きだけで、体内の熱がほんの少しだけ引いていくような錯覚を覚える。
硬い床を踏む、静かな足音が近づいてきた。
コインランドリーの脇で聞いた、あの靴音と同じ、迷いのない歩調。
ふわりと、ミントの香りが鼻腔をかすめた。
シーツの端がわずかに沈む。
枕元に、誰かが腰掛けた気配がした。
僕は瞼を開けようとしたが、睫毛が張り付いたように動かない。
唇は完全にひび割れ、わずかに動かそうとしただけで、ピリッとした痛みが走った。
衣服の擦れる音が、すぐ耳元で聞こえた。
影が差したのが、閉じた瞼の裏の暗さでわかった。
あごの先に、冷たい指先が触れた。
その細い指が、抵抗できない僕の口元を、優しく押し開く。
直後、影が完全に光を遮った。
唇に、濡れた柔らかいものが触れた。
彼女の、唇だった。
驚きで息を呑もうとした瞬間、口内に容赦のない冷たさが滑り込んできた。
小さく砕かれた、氷の塊。
彼女の吐息が、僕の鼻腔に直接流れ込んでくる。
それは少しだけ高くなった彼女の体温と、かすかな炭酸水の匂いがした。
「……っ、」
強烈な冷たさが、熱に浮かされた口腔を直接突き刺す。
氷の角が舌の裏に触れ、瞬時に溶けて冷たい水へと変わっていく。
喉の奥へとしみ込んでいくその水は、僕が自分の喉を痛めたときに出た、かすかな鉄の味が混ざっていた。
重なり合った唇の隙間から、彼女の浅い呼吸が伝わってくる。
彼女の手が、僕の汗ばんだ漆黒の髪を、すくい上げるようにして指先で梳いた。
氷が完全に溶け、冷たさが喉の奥へと流れ落ちきったとき、影がゆっくりと離れていった。
張り付いていた瞼が、ようやく開く。
視界に飛び込んできたのは、古い木目の天井と、その下で規則的に首を振る青い羽根の扇風機だった。
窓にはすだれが掛けられており、そこから差し込む真夏の強い日差しが、細い縞模様になって畳の上を白く染めている。
視線を横に巡らせると、彼女がすぐ傍らに座っていた。
白いリネンのシャツ。
首元までボタンが留められたその衣服には、細かな皺がいくつも刻まれている。
彼女の唇は、心持ち濡れていて、朝の光を浴びて淡く光っていた。
彼女の瞳が、じっと僕を見つめている。
その目は、凪いだ海のように平坦で、感情の起伏が削ぎ落とされていた。
僕はゆっくりと、重い右手を動かした。
シーツの上を這うように進んだ僕の指先は、彼女のシャツの裾に触れる。
そのまま、親指と人差し指で、白い生地を小さくつまんだ。
力を入れる余裕などない、いつでも振り払えるほどの、頼りない重さ。
彼女の目元が、わずかに動いた。
しかし、裾を掴む僕の手を、彼女は退けようとはしなかった。
「ここ、は……」
僕の口から出た声は、掠れていて、自分でも誰のものかわからないほどだった。
彼女は答えない。
ただ、ベッドの脇に置かれたガラスの器の中で、まだ溶けきっていない氷がカラリと音を立てた。
僕は彼女の瞳を見つめ返した。
その澄んだ青い奥底に、自分の無力な姿が映り込んでいるのが見える。
喉を一度鳴らし、僕はゆっくりと言葉を紡いだ。
「……何も、思い出せない」
部屋の中に、蝉時雨が容赦なく流れ込んできた。
遠くで、波が砂浜を洗う音が、規則的に繰り返されている。
彼女は僕の言葉を聞いても、表情をひとつも変えなかった。
驚きも、疑いも、その顔には浮かばない。
ただ、彼女の喉が小さく上下した。
「そう」
彼女の声は、低く、風通しの良い部屋の空気に溶けるように静かだった。
「名前は?」
「わからない、です」
僕はシャツの裾を掴んだまま、視線を少しだけ下げた。
彼女の白いリネンの下から、細い鎖骨が覗いている。その皮膚は、僕の熱い体温とは対照的に、どこまでも涼しげに見えた。
彼女はしばらくの間、僕の手元を見つめていた。
それから、ゆっくりと自分の手を重ねてくる。
彼女の冷たい手のひらが、僕の硬い指先を包み込む。
その接触は、驚くほど静かで、どこか決定的な境界線を越えたような重みがあった。
「私は、凪」
彼女は自分の名前だけを短く告げた。
それ以上のことは何も訊かない。僕がどこから来たのかも、なぜあの場所で倒れていたのかも。
「ここに、いていいよ」
凪の声が、首を振る扇風機の音に混ざる。
僕は目を閉じ、彼女の手のひらの冷たさに意識を委ねた。
頭の奥の深い場所で、詰め込まれた知識の記号が、静かに、しかし正確に次の配置を計算し始めていた。
窓の外では、真夏の太陽が、すべてを白く焼き尽くすように照りつけ続けている。




