第二話:コインランドリーの野良犬
第二話:コインランドリーの野良犬
目が覚めたとき、世界は白く爆発していた。
頭上から容赦なく降り注ぐのは、皮膚をじりじりと焼き焦がすような、真夏の強い日差しだ。
草むらに寝転んだまま、僕は自分の指先を動かそうとした。
感覚が酷く鈍い。どれだけの時間、泥のように眠っていたのだろう。
口の中は完全に干からび、舌が上顎に張り付いていた。呼吸をするたびに、喉の奥がちくちくと鋭く痛む。
死ねなかった。
また、その事実だけが、重い砂袋のように身体の底へ沈殿していく。
じりじりと油を跳ね上げるような蝉時雨が、耳の奥で鳴り響いていた。
起き上がろうと地面に手を突くと、手のひらに刺さった枯れ葉の痛みが、遅れて脳に届く。
視界が激しく左右に揺れた。
世界がぐにゃりと歪み、立ち上がった拍子に激しい立ち眩みが襲う。僕は近くの木の幹に、すがり付くようにして額を押し当てた。
ゴツゴツとした樹皮の感触が、高熱の皮膚に痛い。
身体が、水分を求めて悲鳴を上げていた。
僕は壊れた機械のように、一歩、また一歩と足を前に出した。
昨夜登ってきたはずの山道を、今度は重力に引かれるままに下っていく。
すり減ったスニーカーの底が、浮き出た木の根や小石に引っかかるたび、膝がガクガクと震えた。
衣服は昨夜の嘔吐と汗で汚れ、皮膚に張り付いて酷く不快だった。
どれほど歩いただろうか。
木々の隙間から、不意に視界が開けた。
坂道の先、遮るもののない空間に、きらきらと光る青い帯が見えた。
海だ。
山を抜けた先には、古びた平屋の並ぶ小さな町が広がっていた。
人工物が見えたことに、安堵よりも先に、息苦しさが勝る。
アスファルトからは容赦ない照り返しが立ち上り、陽炎が空気を揺らしていた。
一歩町へ踏み出すと、潮の匂いが、乾いたコンクリートの臭いと混ざり合って鼻腔を突いた。
どの家も引き戸を閉ざし、人の気配がない。
軒下に吊るされた風鈴が、時折、ちりんと乾いた音を立てるだけだ。その音が、かえって真昼の静寂を際立たせていた。
どこか、日陰へ。
直射日光に晒され続けた頭の中は、沸騰した湯のように濁っていた。
すり減った足元だけを見つめて歩く。
視線の先に、色褪せた青い看板が見えた。
『コインランドリー』
ガラス扉の向こうからは、規則的な低音の回転音が漏れ聞こえてくる。
ゴト、ゴト、と、大きなドラムが回る音が、コンクリートの床を通して足の裏に伝わってきた。
僕は店の中に入る気力もなく、建物の脇にある狭い犬走りの日陰へと滑り込んだ。
直射日光を遮るだけで、わずかに皮膚の痛みが和らぐ気がした。
背中を冷たいコンクリートの壁に預け、ずるずるとその場に座り込む。
壁の向こうから、乾燥機が吐き出す熱気と、柑橘系の洗剤の匂いが波のように押し寄せてくる。
爽やかなはずのその香りが、今の僕にはただただ粘り気のある空気となって、喉を塞いだ。
肺が熱い。
体内に熱が籠もり、逃げ場を失って暴れているのがわかった。
自分の腕に触れると、驚くほど高い体温が手のひらに伝わってくる。
「……う、」
こみ上げてきたものを堪えきれず、僕は地面に顔を伏せた。
激しい胃の収縮。
しかし、胃の中にはもう何も残っていない。
乾いた土の上に落ちたのは、先ほど山道で吐き出したものとは違う、茶色く濁った泥のような唾液だった。
喉の粘膜が切れたのか、かすかな鉄の匂いが鼻腔に抜ける。
それを拭う気力も湧かず、僕はコンクリートの床に片頬を押し付けた。
ひんやりとした感覚を期待したが、床もまた、夏の熱を吸って生温かかった。
遠くで、波の音が聞こえる。
ザー、ザーと、一定の間隔で繰り返されるその音を聴いているうちに、意識の端がまたほぐれていく。
このまま誰にも見つからなければ、今度こそ、静かに消えられるだろうか。
カツ、と。
アスファルトを叩く、硬い靴音が聞こえた。
規則正しい、静かな歩調。
音はコインランドリーの正面から、僕のいる建物の陰へと近づいてくる。
隠れなければ。
本能がそう告げたが、指先一つ動かない。ただ、乱れた荒い呼吸を繰り返すことしかできなかった。
靴音が、僕の頭のすぐ近くで止まった。
ふわりと、風が動いた。
西日の強い光を遮るように、ひとつの影が僕の上に落ちる。
重い瞼を辛うじて持ち上げると、そこには白いリネンのシャツを着た女性が立っていた。
清潔感のある、風通しの良い佇まい。
洗いざらしのシャツの袖が、微かな潮風に揺れている。
彼女の手には、洗濯物を入れるための大きなプラスチックの籠が握られていた。
女性は、壁の陰で泥を吐いて倒れている僕を、じっと見下ろしていた。
目が合った。
彼女の瞳の色は、夏の終わりの、陽の届かない深い海のようだった。
通報されるだろうか。それとも、気味悪がって声を上げるだろうか。
どちらでもよかった。早く、この身体の熱から解放されたかった。
けれど、彼女は動かなかった。
プラスチックの籠を地面に置く、微かな音が響く。
彼女の視線が、僕の顔に注がれているのがわかった。
その目が、一瞬だけ大きく見開かれ、それからじっと、吸い付くように僕の輪郭をなぞる。
彼女の手が、ゆっくりと伸びてきた。
細く、白い指先。
その指が、僕の汗に濡れた額に、そっと触れた。
「あつ、い……」
彼女の口から漏れたのは、ひどく掠れた小さな声だった。
僕の肌に触れた彼女の指先は、まるで氷のように冷たくて、心地よかった。
その冷たさに縋り付くように、僕は無意識に頭を彼女の手のひらへと傾けた。
彼女の呼吸が、わずかに速くなる。
僕の頬を包み込む彼女の手が、微かに震えていた。
通報する様子も、助けを呼ぶ様子もない。
彼女はただ、生乾きのコンクリートの上に跪き、僕の顔を覗き込み続けている。
その視線には、道端で見捨てられた生き物を品定めし、自らの手元に引き寄せようとするような、静かな熱が籠もっていた。
お互いに、言葉はなかった。
ただ、規則的な乾燥機の回転音と、遠い潮騒の音だけが、二人の間に流れていた。
彼女の白いシャツの袖口が、僕の視界を塞いでいく。
衣服から微かに香るミントの匂いが、僕の鼻腔を満たした。
僕はそのまま、冷たい指先の感触だけを頭の中に残して、深い闇の中へと落ちていった。




