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残響と内なる獣  作者: あめたす


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第一話:二〇二六年、夏。

第一話:二〇二六年、夏。


 二〇二六年、夏。僕は死んだ。


 賢くなりたかった。誰にも負けたくなくて、ただひたすらに知識を詰め込んだ。

 本をめくり、画面を凝視し、あらゆる論理と記号で頭の隙間を埋め尽くした。


 しかし、器の容量を超えて溢れ出たものは、僕を賢くする代わりに、ただの動けない木偶でくに変えた。

 知識を詰め込みすぎた人間は、最後にはただのバカになる。


 どれだけ言葉を尽くしても、決定的な部分は伝わらない。

 思考の根底、その最も深い泥のような部分で、僕たちは繋がっていると思い込んでいた。同じものを見て、同じように痛がっているのだと。


 しかし、それはただの錯覚だった。

 見ている景色も、触れている温度も、最初から何一つ重なってなどいなかったのだと気付かされた瞬間、耳の奥ですっと何かが遠ざかる音がした。

 真空の部屋に放り込まれたかのように、すべての環境音が消え、ただ自分の心臓の音だけが残った。


 そのとき、身体が驚くほど軽くなった。

 縛り付けていた透明な鎖が、一斉に弾け飛んだような解放感。


 もう、何も持たなくていい。何も証明しなくていい。


 それが、最後の悪あがきだったのか、それともただの合図だったのかはわからない。


 机の上に散らばっていた、白い錠剤。

 カフェインのタブレットを、シートから爪で押し出す。


 パチ、パチと硬い音が十五回響いた。

 手のひらに乗った小石のような塊を、水も飲まずに一気に口の奥へと放り込む。


 噛み砕くと、舌の裏側が痺れるような強烈な苦味が広がった。

 喉を鳴らして強引に飲み下し、僕は夜の街へと走り出した。


 すべてを捨てていいのだと思ったら、驚くほど足が前に出た。

 スニーカーの底がアスファルトを叩く規則的な音だけが、暗闇に響く。


 肺が冷たい夜気で満たされ、皮膚を撫でる風が妙に生暖かく感じられた。どこまでも行ける気がした。世界の果てまで、このまま速度を落とさずに走り抜けられるのではないかとさえ思った。


 だが、身体はそれほど都合よくはできていない。


 不意に、強烈な目眩が視界を狂わせた。街灯の光が引き延ばされ、ぐにゃりと歪む。

 僕は河川敷の草むらに飛び込み、膝をついた。


 立ち上がろうとした瞬間、胃の底からせり上がってくるものがあった。


 激しい嘔吐。


 口から溢れ出たのは、未消化の錠剤が混ざった真っ白な液体と、胃液的乾いた臭いだった。草の葉に飛び散る白い泡を、僕は濁った目で見つめていた。喉の奥が焼けるように熱い。


 あぁ、終わることもできないのか。


 これだけの苦痛を味わっても、心臓は平然と脈を打っている。死ぬことすら許されない現実の重みが、再び背中にのしかかってくる。

 僕は手の甲で荒く口元を拭い、ふらつく足でもう一度走り始めた。


 死ねないのなら、せめて誰も僕を知らない場所へ行こう。


 暗い川の流れに沿って、ひたすら足を動かした。

 どれほど走っただろうか。周囲の景色から徐々に人工的な光が消え、代わりに黒々とした山の輪郭が迫ってきた。


 息が完全に上がり、走るのをやめて歩き始める。

 足の裏に伝わる地面の感触が、アスファルトから硬い土へと変わっていく。


 ここは、かつて地図で見たことのある地域だった。けれど、僕にとっては全く見知らぬ、名前も持たない場所。


 不思議と、歩くことが楽しくなってきた。

 大量に摂取したカフェインのせいか、あるいは限界を超えた身体がもたらすランナーズハイなのか。それとも、生物としての生存本能が僕を突き動かしているのだろうか。


 山間部に張り付くように点在する住宅街を、影のように静かに歩く。

 どの家も窓を閉ざし、カーテンの向こうは真っ暗だった。


 時折、自動販売機の青白い光だけが、僕の白い肌を冷たく照らし出す。

 誰にも見つかってはいけない。世界から僕という存在の記憶が完全に脱色されるまで、息を潜めていなければならない。


 住宅街の途切れ目は唐突だった。

 最後の街灯を通り過ぎると、道は一気に本格的な山道へと変貌した。


 街灯のない暗闇の中を、手のひらでガードレールの冷たさを確かめながら進む。

 不意に視界が開け、白っぽい斜面が現れた。採石所だ。


 削り取られた岩肌が、微かな星空の光を浴びて、巨大な骨のように白く浮かび上がっている。人間が立ち入ることを拒むような、圧倒的な静寂がそこにはあった。


 再び山道に戻り、うねる坂を登り続ける。

 時折、遠くから車のヘッドライトが近づいてくる気配がした。そのたびに僕は斜面の茂みに身を隠した。


 鋭い光が通り過ぎ、エンジン音が夜の底に吸い込まれていく。

 その光景を見るたびに、自分が現実世界から一枚ずつ、薄皮を剥がされるように切り離されていく感覚に囚われた。


 もっと遠くへ。もっと深いところへ。


 現実の残響すら届かない場所を求めて、僕は道幅の狭い、さらに険しい斜面へと足を踏み入れた。

 草木が容赦なく服の袖を引っ張り、足元をすくおうとする。


 どれほど進んだときだろうか。草むらの切れ目に、時代から取り残されたような細い獣道を見つけた。


 人が通らなくなってから、もう何十年も経っているのだろう。

 道の脇には、半分泥に埋もれた古い車が、錆びた骸を晒していた。ひしゃげたアルミ缶や、文字の読めなくなった泥だらけの空き缶が、足元でカサリと音を立てる。


 その荒涼とした獣道を抜けた先で、僕は息を呑んだ。


 そこは、人工的に作られた場所でありながら、完全に自然に侵食された、秘境のような空間だった。

 古い水路の跡だろうか。コンクリートの割れ目から、透き通った水が勢いよく流れ落ちている。


 少し休もう。


 僕は苔の生したコンクリートの縁に腰を下ろした。

 耳に飛び込んでくるのは、絶え間ない川のせせらぎ、夜明けを告げる鳥の微かな鳴き声、そして湿った風が木々を揺らす葉擦れの音。


 それらの音が、頭の中の雑音を綺麗に洗い流していくようだった。

 このまま、この冷たい水と、湿った土と、静かな木々の中に溶けてしまいたい。


 この空間の一部になって、二度と目覚めなければ、どれほど楽だろうか。


 空の端が、ほんの少しだけ薄藍色に変わり始めていた。

 明け方。僕は重い身体を引きずり、再び歩き出すために獣道へと戻った。


 その瞬間、前触れもなく視界が激しく回転した。

 胃が雑巾のように雑に絞られる感覚。


 二度目の嘔吐だった。


 どす黒い液体が、地面の枯れ葉を濡らす。

 それは、錆びたドラム缶の底に溜まった泥のような、強烈な鉄の臭いと色をしていた。内臓の奥が完全に壊れてしまったかのような、不吉な色。


 もう、終わりなのかもしれない。


 そう思った瞬間、張り詰めていた糸が切れたように、両足の感覚が消えた。

 膝が崩れ、そのまま地面に倒れ込む。指先一つ動かすことすらできない。


 僕は、這うようにして少し開けた草むらへと移動し、仰向けにひっくり返った。


 視界の先には、徐々に白んでいく夏の空が広がっている。

 背中から伝わる土の冷たさが、妙に心地よかった。このまま身体が腐り果てて、土の栄養に変わってしまえばいい。


 頭の上で、小さな風鈴のような音が聞こえた気がした。

 いや、それはただの空耳で、遠い潮騒の響きだったのかもしれない。


 強烈な眠気が、波のように押し寄せてくる。

 僕は、白磁のような肌を朝の冷たい空気に晒しながら、静かに目を閉じた。

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