第十話:偽物の水槽
第十話:偽物の水槽
朝の八時を過ぎる頃には、部屋の空気はすでに沸き立ち始めていた。
トタン屋根が太陽の熱を吸い込み、天井からじわじわと不透明な熱気が降りてくる。
扇風機は強風に設定されていたが、三枚のプラスチック製の青い羽根が回すのは、ぬるい湿気を帯びた空気の塊に過ぎなかった。モーターの加熱した匂いが、かすかに部屋に漂っている。
凪は台所に立ち、朝の残りの片付けをしていた。
水道の蛇口から勢いよく出る水が、ステンレスの流しに当たって、ザーという硬い音を立てている。
彼女が着ているのは、昨日とは違う、やはり真っ白なリネンのノースリーブシャツだった。洗剤の柑橘系の匂いが、水の匂いに混ざってここまで届く。
僕は畳の上に上体を起こし、壁に背中を預けていた。
まだ頭の奥が重く、視界の焦点を一つに結ぶのに少し時間がかかる。
ローテーブルの上には、昨日凪が個人商店から持ち帰った、薄い更紙の折り込みチラシが置かれていた。
水滴のついた冷えたガラス瓶から、凪がコップに炭酸水を注ぐ。
シュワシュワと細かな泡が弾ける音が、蝉時雨の単調な背景音を遮るように響いた。
「周くん、それ、気になる?」
凪がコップを二つ持って歩み寄り、僕の隣に腰を下ろした。
彼女の衣服から、風通しの良い、乾いたリネンの感触が伝わってくる。
「いえ、何だろうと思って」
僕はチラシの端を人差し指で軽く押さえた。
それは、この町からバスで三十分ほど行った岬の端にある、地元の小さな水族館の案内だった。
チラシの写真の色彩は、何度も印刷を重ねたせいか、どこか煤けている。
コンクリートの四角いプール、アクリル板の向こうで濁った緑色に見える海水、そして、白い腹を上に向けて泳いでいるようにも見える、色褪せたイルカのイラスト。
施設の古さが、写真のざらついた画質からもはっきりと伝わってきた。
「大浜海洋科学館。昔からある、小さなところよ」
凪がコップを僕に差し出しながら、チラシを覗き込んだ。
彼女の濡れた指先が、更紙の表面に触れ、そこに丸く不透明な染みを作っていく。
「イルカショーも、もう何年も前に終わっちゃったみたい。今は、地元の海で獲れた魚とか、小さなペンギンが少しいるだけだって、商店のおばさんが言ってた」
「そうですか」
僕は炭酸水を口に含んだ。
冷たい液体が喉を刺激し、胃の奥にある、あの消えない鉄の匂いを一瞬だけかき消す。
グラスの表面から滴り落ちた水滴が、僕の膝の上の木綿のズボンに、小さな濃い輪を作った。
凪は自分のコップに口をつけず、じっとチラシの青いプールを見つめていた。
彼女の横顔は、室内に差し込む強い斜光を浴びて、彫刻のように静止している。
首筋を、一筋の汗がゆっくりと伝い、リネンの襟元へと吸い込まれていった。
「……周くん」
凪が、静かに僕の名前を呼んだ。
彼女の目線は、チラシから動かない。
「もう少し体調が良くなったら、行ってみる? ここなら、人もそんなに多くないと思うから」
それは、彼女にとっての小さな試みだった。
僕をこの部屋に閉じ込めていることに対する、微かな後ろめたさ。あるいは、僕を外の世界へ一歩だけ連れ出すことで、自分が「普通の生活」を送っているのだと確かめたいという、細い願い。
僕は彼女の手元を見た。
チラシを押さえる彼女の指先が、かすかに強張っている。
もし僕が「行きたい」と言えば、彼女は安心するだろう。同時に、僕が自分の手を離れて外の空気を吸うことに、言いようのない緊張を覚えるはずだ。
会話の間が、扇風機の首振り音だけで埋まっていく。
カタ、カタ、と首を振るたびに、ガードの針金が擦れる音がした。
「いいえ」
僕はグラスをローテーブルに置き、チラシから視線を外した。
「どこへも行きたくないです。ここにいたいです」
凪の呼吸が、一瞬だけ止まった。
彼女の肩のラインが、目に見えて緩んでいく。
「水族館のプールは、狭くて暗そうです。コンクリートの壁に囲まれて、外の海も見えない。そんなところに行くくらいなら、この部屋で扇風機の音を聴いているほうがいい」
僕はそう言って、わざと少しだけ視線を落とし、頼りなげに自分の細い手首を擦った。
熱中症の残る僕の肉体は、彼女の目には、いつ壊れてもおかしくないガラス細工のように映っているはずだった。
「周くんは、外が怖いの?」
凪の声が、一段と低くなる。
その響きには、同情の裏に、隠しきれない安堵が混ざっていた。
「怖い、というか……」
僕は言葉を濁した。
感情を説明するのではなく、ただ、視線を部屋の隅の暗がりに固定する。
「ここ以外の場所に行くと、自分が誰なのか、何をしていたのか、考えなくてはいけなくなるような気がするんです。あの坂上さんという人のような視線に、また晒されるのも……」
名前を出された瞬間、凪の瞳の奥が、鋭く収縮した。
彼女の手が、チラシをくしゃりと握りつぶす。薄い更紙が、彼女の指の中で乾いた音を立てて形を崩していった。
「そうね。あの人たちは、勝手なことばかり言うから」
凪は握りつぶしたチラシをローテーブルの端へ押しやり、僕のほうへ身体を向けた。
彼女の手が、僕の膝の上に置かれた手に、そっと重ねられる。
彼女の硬い指先。
主婦のそれとは違う、何かを固く拒絶してきた人間の、強固な指の関節。
それが、僕の高い体温を吸い上げるように、深く重なっていく。
「どこへも行かなくていいわ。ここにいれば、誰もあなたを傷つけない。あの汚い写真の水槽なんかより、この部屋のほうがずっと静かで、安全だから」
彼女の言葉は、僕を労っているようでいて、その実は、自分自身に言い聞かせているようだった。
僕が外に出たがらないという事実が、彼女に「飼育者」としての絶対的な正当性を与えている。
身元の分からない美しい男を、社会の目から隠し、自分の手の中だけで生かし続けること。
その行為がもたらす、暗く濃厚な全能感が、彼女のシャツの胸元を小さく上下させていた。
彼女は僕の頭を撫でるために、もう片方の手を伸ばした。
漆黒の髪に、彼女の指が滑り込む。
「私が、ずっとここに置いてあげる。あなたが何も思い出さなくても、どこへも行けなくなっても、私が全部面倒を見てあげるから」
その手のひらの動きは、執拗で、どこか貪欲だった。
僕は彼女の胸元に視線を預けながら、静かに息を吸い込んだ。
リネンの奥から香る、彼女の皮膚の匂い。
彼女は気付いていない。
僕が「ここにいたい」と言った真意を。
僕がこの部屋を「檻」と呼びながらも、その檻の鍵を、内側からいつでも外せる状態で握っていることを。
大浜海洋科学館。あのひなびた水族館の周辺の地形、バスの運行時間、そしてあの岬の裏手にある、古い採石所の位置。
チラシを見た一瞬の間に、僕の脳は、この町のすべての地図情報を詰め込んでいた。
「ありがとうございます、凪さん」
僕は彼女のノースリーブの袖口から覗く、細い腕にそっと手を添えた。
窓の外では、さらに巨大化した入道雲が、青空の半分を真っ白に塗り潰していた。
蝉時雨の音は、もはや部屋の壁の一部のように、僕たちの感覚を麻痺させていく。
凪は、僕の手のひらの熱にじっと耐えるように、目を細めていた。
偽物の水槽の主は、自分が最も安全な場所にいると信じ切ったまま、僕の髪を何度も、何度も梳き続けていた。




