第十一話:爪を切る夜
第十一話:爪を切る夜
夜になっても、昼間の熱気は部屋の隅々に澱んだまま残っていた。
網戸の向こうから、冷めることのないアスファルトの匂いと、ねっとりとした夜の潮風が流れ込んでくる。
軒下の風鈴が、風に煽られてチリン、チリンと不規則に高い音を立てた。それがかえって、部屋の中の密閉された暑さを際立たせているようだった。
天井の電球が、古い畳の上に黄色い丸い光を落としている。
その光の輪の真ん中で、僕は凪の前に両膝を突き、両手を差し出していた。
パチ、と硬い音が静かな室内に響く。
凪は僕の左手首を片手で支え、小さな金属製の爪切りで、僕の爪を丁寧に切っていた。
彼女の指先は驚くほど冷たく、僕の、熱中症の残響でまだ少し火照った手首の皮膚に触れるたび、そこだけ小さな氷片を置かれたような錯覚を覚える。
パチ、と、もう一度音がした。
切られた三日月形の爪が、ローテーブルの上に敷いた古新聞の文字の上に、静かに落ちていく。
「少し、伸びすぎていたね」
凪は目線を僕の指先に落としたまま、囁くように言った。
彼女は風呂上がりなのか、髪の毛先が微かに湿っている。着ている白いリネンのノースリーブからは、昼間の柑橘系の洗剤とは違う、ミントの石鹸の涼しい匂いが立ち上っていた。
「自分では、あまり気がつきませんでした」
扇風機が、カタカタと規則的なノイズを立てながら、僕たちの横を往復している。
ぬるい風が吹くたびに、凪のシャツの襟元が揺れ、彼女の鎖骨の窪みに電球の光が滑り込んだ。
パチ。
パチ。
凪の作業は正確だった。
指の肉を挟まないよう、僕の爪の白い部分をわずかに残し、半円を描くように少しずつ刃を動かしていく。
彼女の視線は、僕の爪の形だけに集中していた。その横顔には、他者を自分の管理下に置いている者特有の、奇妙な平穏さがあった。僕が彼女の手の中で、指一本動かさずに従順にしていることが、彼女の呼吸を深く、安定させているのが分かる。
僕は、彼女の冷たい親指が僕の薬指を固定するのを引き金に、静かに口を開いた。
「凪さん」
「ん?」
パチ、と音が重なる。
「昨日、変な夢を見たんです」
凪の手の動きが、ほんの一瞬だけ、爪切りの刃が一ミリにも満たない距離を進む間だけ、止まった。
しかし、彼女はすぐに次の爪へと刃を宛てがった。
「どんな夢?」
「たくさんの本や、数字や、法律の条文みたいなものが、頭の中に濁流みたいに流れ込んでくる夢です。文字がびっしり書かれた紙が、視界の端から端まで埋め尽くしていて……」
僕は、自分の指先をじっと見つめながら、声をできるだけ平坦に保った。
感情を込めず、ただ、思い出した風景を素描するように。
「僕は、誰かに負けたくなくて、その文字を必死に頭の中に詰め込んでいた。賢くなれば、何でも思い通りになると思って、脳の隙間がなくなるまで詰め込んで……」
パチ。
凪が切った爪が、新聞紙の上の「事件」という活字の上に転がった。
彼女の指先に、微かな力がこもる。僕の指を握る彼女の手が、徐々に冷たさを増していくようだった。
「そうしたら、あるとき頭の中でパチンと、今みたいな音がして、全部が砂みたいに崩れてしまったんです。詰め込みすぎた知識が、全部裏返って、自分が何者かも分からなくなるくらい、バカになってしまった」
僕はそこで言葉を切り、喉を鳴らした。
かすかに、あの錆びた鉄の匂いが喉の奥をかすめる。
「……ただの、夢でしょうか」
部屋の中から、すべての音が消えた。
扇風機の首振り音と、遠い潮騒だけが、僕たちの間にある沈黙の厚みを測るように響いている。
凪の手は、完全に止まっていた。
爪切りの金属の刃が、僕の小指の爪の端に触れたまま、微動だにしない。
彼女の視線は、僕の小指の、そのわずか数ミリの白い境界線に釘付けになっていた。
彼女の胸元が、浅く、速いリズムで上下し始める。
リネンの布地が擦れる、ササ、という微かな摩擦音が聞こえた。
「……夢よ」
長い沈黙のあと、凪はそう絞り出した。
声が、わずかに掠れている。彼女は僕の指を握ったまま、一度も目を上げようとはしなかった。
「熱中症で、頭がぼんやりしていたから、そんな変なものを見たの。周くんは、そんな、難しい文字をたくさん知っているような人じゃないもの」
彼女の指先が、目に見えて震え始めていた。
僕の手首を支える彼女の左手が、きつさを増していく。それは、今にも自分の手からすり抜けて、どこか遠い場所へ行ってしまいそうな生き物を、力任せに引き留めようとする動きだった。
もし、僕の記憶が戻れば。
僕がかつて、膨大な知識を持ち、法やロジックを操る側の人間だったとしたら。
この古いアパートの、洗いたてのシーツとぬるいスポーツドリンクだけの飼育箱は、その瞬間に意味を失う。
彼女は、僕が「無力な捨て犬」でなくなることを、何よりも恐れている。
会話のズレを、僕はそのまま放置した。
彼女の否定に、反論も同意もしない。ただ、彼女の手の震えを、自分の皮膚で正確に受け止める。
ローテーブルの上に置かれたガラスのコップの中で、溶けかけた氷がカラリと小さな音を立てて崩れた。
「……そうですね」
僕は静かに微笑を浮かべた。
凪には見えない角度で、口元の端だけをわずかに上げる。
「ただの夢です。あんな難しい数字や法律なんて、僕には関係ありません。それに」
僕は差し出していた右手を、少しだけ自分の方へ引き寄せ、代わりに凪の手全体を包み込むように握り返した。
僕の高い体温が、彼女の氷のような皮膚に伝わっていく。
「思い出さなくていいんです。何も。あの夢の中の僕は、とても苦しそうだった。でも、この部屋にいる今の僕は、何も考えていない。凪さんが爪を切ってくれる音を聴いているだけで、頭の中がとても静かになります」
凪の肩から、一気に強張りが抜けた。
彼女は、堰を切ったように大きな息を吐き出す。その吐息は、僕の胸元に温かく、湿った塊となって当たった。
「そうよ、周くん」
凪は爪切りをローテーブルに置くと、僕の手を両手で強く握りしめた。
彼女の目が、ようやく僕の顔を捉える。その瞳の奥には、濁った、しかし強烈な安堵の光が揺らめいていた。
僕が自ら「無力であること」を選び、彼女の檻の中に留まることを望んだという事実が、彼女の歪んだ母性を、さらに深く、強固に満たしていく。
「何も思い出さなくていいの。あなたはここで、私の言うことだけを聞いていればいい。外のことなんて、全部忘れてしまえばいいのよ」
彼女の声は、優しく、そしてどこまでも独占的だった。
「はい、凪さん」
僕は彼女の視線を受け止めながら、もう一度、穏やかに頷いた。
彼女は、僕が彼女の言葉に救われていると信じ込んでいる。
だが、僕が語った夢は、僕の脳の底に沈んでいる本物の記憶の、ほんのひとかけらに過ぎない。
民法、刑法、行政手続き、あらゆる法理のネットワーク。
僕の脳は、すでにそれらを完全に再起動させている。
彼女が僕を飼っているのではない。
僕が彼女に「飼わせている」のだ。この爽やかで不穏な、白いリネンの檻の中で。
網戸の向こうで、遠い潮騒の音が、夜の深まりとともに大きくなっていった。
扇風機は、変わらない速度でぬるい風を送り続けている。
古新聞の上に落ちた僕の爪の破片を、凪は愛おしそうに指先で集め、小さな紙屑に包んでゴミ箱へと捨てた。
その一連の動作を、僕は暗い充実感を覚えながら、じっと見つめていた。




