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残響と内なる獣  作者: あめたす


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第十二話:激しい夕立

第十二話:激しい夕立


 午後三時を回った頃、世界から一切の音が消えた。


 あれほど狂ったように鳴き続けていたアブラゼミの声が、まるで行列の先頭が突然途切れたかのように、一斉に止んだ。

 あとに残されたのは、カタカタと一定の周期で首を振り続ける、扇風機の硬いプラスチックの回転音だけだった。


 僕はローテーブルに突っ伏したまま、動けずにいた。

 熱中症の残響は、日中の最も気温が上がる時間帯になると、決まって牙を剥く。耳の奥で、ドクン、ドクンと重いシリンダーが動くような拍動が響き、そのたびに視界が白く明滅していた。


 部屋の空気が、急激に重さを増していく。

 湿度が、肌に目に見える膜を作っていくような感覚。

 

 台所で冷たい麦茶の入ったガラス瓶を片付けていた凪が、ふと手を止め、開け放たれた窓の外を見上げた。


「……暗くなってきた」


 彼女の呟きに、僕はゆっくりと首を巡らせた。


 さっきまでカンカンとトタン屋根を焼き付けていた真夏の太陽は、いつの間にか、地平線から湧き上がってきた巨大な黒い雲の塊に飲み込まれていた。

 青空の半分が、墨を流したような濃い灰色に変色している。

 海からの風が、一瞬だけ強く吹き抜けた。昼間のぬるい空気とは違う、どこか冷ややかで、湿った土の匂いを孕んだ風。


 チリン、と軒下の風鈴が激しく鳴った。

 次の瞬間、遠くの山の方で、ゴロゴロと低く地響きのような音が鳴り響いた。

 光が消え、部屋の中が一気に薄暗い夕方のような色に染まっていく。


「周くん、洗濯物」


 凪が短い声を上げ、ベランダの方へと足を向けた。

 狭いベランダの物干し竿には、午前中に洗ったばかりの、真っ白なリネンのシーツと、二人のシャツが何枚か干されていた。風に煽られ、それらが大きな白い生き物のように激しくのたうっている。


「僕も、やります」


 僕は壁に手を突き、無理やり身体を起こした。

 眩暈で視界が黄色く歪んだが、奥歯を噛み締め、喉の奥にせり上がってくる錆びた鉄の匂いを飲み込む。


「いいの、周くんは寝ていて」


 凪はそう言いながら、すでにサッシの窓を大きく開けてベランダへと足を踏み出していた。


 しかし、空の崩壊は僕たちの動きよりも遥かに速かった。


 ポツ、と乾いたコンクリートに黒い大きな斑点ができたと思った瞬間、視界のすべてが白い水のカーテンで遮られた。

 激しい夕立だった。

 

 バチバチバチと、トタン屋根を激烈に叩く雨音が、鼓膜を容赦なく圧迫する。

 あまりの雨の勢いに、ベランダのコンクリートから、熱せられていた地面の乾いた匂いが、強烈な水蒸気となって立ち上った。


「凪さん」


 僕は眩暈を無視して、ベランダの開口部へと飛び出した。


 一瞬で、頭の上からバケツの水を引っくり返されたような衝撃が走る。

 冷たい雨粒が、僕の白磁のような皮膚を容赦なく叩き、漆黒の髪を瞬時に濡らして額に張り付かせた。

 凪は激しい雨のただ中で、必死に物干し竿から白いシーツを引き剥がそうとしていた。

 しかし、大量の水を含んだリネンは驚くほど重く、彼女の細い腕ではうまくコントロールできないようだった。風と雨に弄ばれ、濡れたシーツが彼女の身体を包み込むように絡みついている。


「周くん、来ちゃダメ」


 雨音にかき消されそうな彼女の声を、僕は無視した。

 一歩踏み出し、彼女の背後から物干し竿へ手を伸ばす。


 僕の硬い指先が、濡れて冷え切った凪の手に触れた。

 彼女の手は、雨水のせいで驚くほど冷たくなっていた。僕の肉体が持つ、熱中症の異常な高熱が、その接触面から一気に吸い取られていくような感覚。


 二人で力を込め、濡れて重くなったシーツを一気に引き寄せ、抱きかかえるようにして室内の畳へと転がり込んだ。


 サッシを乱暴に閉めると、激しい雨音は遮断され、こもった鈍い響きへと変わった。

 部屋の中は、薄暗い。

 古い畳の上に、二人で抱え込んできた真っ白なシーツが、大量の水を含んで重く横たわっている。

 

 ハァ、ハァ、と、凪の短い呼吸の音だけが、室内の湿った空気の中に響いていた。


 二人の身体からは、とめどなく水滴が床へと滴り落ちていた。

 僕の着ていた薄い木綿のシャツは完全に水を吸い、肌にぴったりと張り付いている。線の細い鎖骨のラインや、肉体の凹凸が、生々しいほどに露出していた。


 凪も同じだった。

 彼女の白いリネンシャツは、雨水を含んで完全に透明な膜と化し、その下の肌の柔らかな質感や、下着の細い線を隠すことなく浮かび上がらせていた。

 濡れた髪が彼女の首筋に何本も張り付き、そこから滴る水滴が、彼女の胸元へとゆっくりと流れていく。


 部屋の中に、湿度のない、しかし圧倒的に濃厚な沈黙が満ちていった。


 凪が、ゆっくりと顔を上げた。

 濡れた睫毛の奥にある彼女の瞳が、僕の姿を捉える。

 

 視線が、交差した。

 

 言葉はない。ただ、激しい雨のノイズの中で、お互いの濡れた肉体だけが、驚くほどの鮮明さでそこに存在していた。

 

 凪の瞳の奥に、言葉にならない光が灯る。

 それは、目の前にいる、濡れそぼって今にも消えてしまいそうな美しい生き物に対する、狂おしいほどの独占欲だった。

 これほど激しい雨の中に放り出されれば、この男は一人では生きていけない。私の手で拭い、私の手で乾かさなければ、簡単に壊れてしまう。

 彼女の呼吸が、さらに浅くなっていくのが分かった。その視線は、僕の濡れた唇から、細い首筋へとゆっくりと移動していく。


 僕は、彼女のその視線の意図を、一瞬ですべて理解した。

 彼女の歪んだ母性が、この夕立の冷たさによって、最高潮に達している。


 僕は、ゆっくりと膝を進めた。

 濡れた畳が、グニュ、と小さな音を立てる。


 凪の身体が、微かに強張った。しかし、彼女は逃げようとはしなかった。ただ、近づいてくる僕の肉体を、拒絶することを忘れたかのように見つめている。


 僕は彼女の眼前に至ると、そのまま力を抜くようにして、彼女の白い首筋へと、そっと自分の額を押し当てた。


「……周くん」


 凪の口から、熱い吐息が漏れた。

 

 彼女の首筋の皮膚は、雨で冷やされていたが、その奥にある動脈の拍動は、驚くほど速く、熱かった。

 僕の額から、熱中症の残る高い体温が、彼女の冷たい皮膚へと流れ込んでいく。

 お互いの体温が、雨水の境界線を越えて、ねっとりと混ざり合う。


 僕の漆黒の髪から落ちた水滴が、彼女の鎖骨の窪みに溜まり、溢れて、彼女のシャツの奥へと消えていく。

 彼女のリネンシャツからは、ミントの匂いと、雨が運んできた大気の匂い、そして彼女自身の甘い匂いが、混然一体となって僕の鼻腔を支配していた。


 僕は彼女の首筋に額を預けたまま、じっと目を閉じていた。


 僕は彼女の呼びかけに、声では答えない。ただ、自分の肉体の重みと熱のすべてを、彼女の細い身体に預けることで、自分の「無力さ」を最大限に演出していた。

 彼女の細い両腕が、躊躇いながらも、ゆっくりと僕の濡れた背中に回される。

 その指先が、僕のシャツの皺を強く掴んだ。二度と離さないとでも言うように。


 彼女の胸の鼓動が、僕の胸骨に直接伝わってくる。

 

 彼女は、自分がこの哀れな捨て犬を、雨の脅威から守り、抱きしめていると信じている。

 自分の歪んだ支配欲が、この男を完全に手中に収めたのだと、暗い恍惚に浸っている。


 だが、その皮膚の接触の裏で、僕の肥大化した脳は、完全に別のロジックを組み立てていた。


 ベランダから見えた、大浜海洋科学館へと続く一本道の冠水状況。

 この激しい夕立が、あの岬の裏手にある古い採石所の地盤に与える影響。土砂崩れの可能性。それに伴う、この町へのルートの遮断。

 

 この夕立さえも、僕がこの町に辿り着いたあの夜から、季節の周期として織り込み済みだった。

 凪が僕への独占欲を深めれば深めるほど、彼女の楽園を永遠にデザインするための足場は強固なものになる。


 彼女が僕を白い檻に閉じ込めているのではない。

 僕が、彼女そのものを、この激しい雨の壁で囲い込んでいるのだ。


「……冷たいね、周くん」


 凪が、僕の背中を愛おしそうになぞりながら、耳元で囁いた。

 その声には、自分以外のすべてを拒絶した人間の、濁った美しさがあった。


「はい。でも、凪さんのここは、とても温かいです」


 僕は彼女の首筋に顔を埋めたまま、笑顔を浮かべずに、ただ平坦な声で答えた。


 窓の外では、トタン屋根を叩く激烈な雨音が、世界のすべてのノイズをかき消すように、いつまでも、いつまでも響き渡っていた。

 部屋の隅に置かれたガラスのピッチャーの中で、残った麦茶の水面が、建物の微かな振動に合わせて、静かに震え続けていた。

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