表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
残響と内なる獣  作者: あめたす


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/25

第十三話:隣人の歪み

第十三話:隣人の歪み


 夕立が洗い流したはずのアスファルトは、翌朝の午前九時には、すでに白く乾いた熱を吐き出していた。


 垂直に降り注ぐ太陽の光が、路面の陽炎を激しく揺らしている。

 ベランダに干された真っ白なシーツは、昨日の水分を完全に失い、触ればカサカサと乾いた音を立てた。柑橘系の洗剤の匂いが、熱風に乗って室内に流れ込んでくる。


 僕は畳の上に寝転び、首振り音を立てる扇風機の網目を見つめていた。

 じっとりとした汗が首筋を伝い、シーツに小さな染みを作っていく。頭の芯が、まだぬるいお湯に浸されているように重い。熱中症の残響は、完全に僕の肉体から去ってはくれなかった。


 台所で、凪が冷たい炭酸水の瓶を冷蔵庫から取り出す音がした。

 トントン、と小気味よい音が続き、薄く切られたレモンがガラスのコップに落とされる。シュワァ、と泡の弾ける涼しい音が、部屋の熱気を一瞬だけ押し戻した。


「周くん、これ飲める?」


 凪がコップを運んできて、僕の枕元に置いた。

 彼女は今日も、風通しの良い白いリネンのシャツを着ている。首筋には昨日僕が額を押し当てた名残りのように、微かな赤みが残っているように見えた。


「ありがとうございます」


 身体を起こすと、視界の端がぐらりと揺れた。

 僕は冷えたガラス瓶の側面を硬い指先でなぞり、結露した水滴を手のひらで拭う。コップに口を付けると、炭酸の鋭い刺激の奥から、わずかに喉の奥にこびりついた錆びた鉄の匂いが蘇った。それを、レモンの酸味と一緒に無理やり飲み込む。


 そのとき、アパートの、きしむ外階段を上がってくる足音が聞こえた。


 規則的で、妙に重い足音だった。

 地元の人間特有の、サンダルがコンクリートを擦る音が、一歩ずつ近づいてくる。

 蝉時雨が一段と激しくなる中、足音は僕たちの部屋の前の通路でピタリと止まった。


 トントン、と不躾な音が、薄い木製のドアを叩いた。


 凪の肩が、目に見えて強張った。

 彼女はコップを持ったまま、ドアの方へと視線を固定する。リネンのシャツの裾を掴む彼女の指先が、徐々に白くなっていくのが分かった。


「はい」


 凪は声を整え、玄関へと向かった。

 ドアが開く、ギィという低い音が響く。網戸一枚を挟んで、男の低い声が室内に滑り込んできた。


「あ、凪ちゃん。暑いねぇ。これ、親父が畑で採ったナス、持ってきたよ」


 声の主は、島田さんだ。

 この近くで工務店を営んでいる実家の手伝いをしている男らしい。

 

「いつもすみません、島田さん。ありがとうございます」


 凪の声は丁寧だったが、その足は玄関のタタキから一歩も動いていないようだった。相手を室内の気配から遠ざけようとする、独特の間がそこにあった。


「いいってことよ。それよりさ、凪ちゃん」


 島田のトーンが、わずかに下がった。

 網戸の網目を擦るような、ねっとりとした響きが混じる。


「昨日さ、ものすごい夕立だったろ。俺、心配になってアパートの方見たんだよね。そうしたらさ……ベランダで、誰かと一緒にシーツ取り込んでるのが見えたんだけど」


 沈黙が、部屋の中に落ちた。

 扇風機がカタカタと首を振る音だけが、その沈黙の長さを正確に刻んでいく。


「……あ、あれは、その」


「やっぱり、誰かいるんだろ。男だよな。背が高い、髪の黒い」


 島田の声から、これまでの「親切な隣人」としての軽やかさが消えていた。

 代わりにせり上がってきたのは、他者の領域に土足で踏み込もうとする、平気で境界線を越えてくる者の湿った足音だった。


「凪ちゃんさ、身元の分からない男を部屋に囲ってるって、町のもんが知ったらどう思うかな。あんた、ここで一人で静かに暮らしてる、真面目な子だって誰もが思ってるのにさ」


 僕は、畳の上に音を立てずに這い進み、ベランダ側のカーテンの隙間に身体を滑り込ませた。

 そこから、玄関先の通路がわずかに見渡せる。


 島田は、汗で張り付いた青いポロシャツを着て、片手にナスの入ったビニール袋を下げていた。

 彼の顔には、親切を装った歪んだ笑みが張り付いている。目は笑っていなかった。網戸の向こうにいる凪の姿を、品定めするような、剥き出しの独占欲で凝視している。


「俺はさ、凪ちゃんのためを思って言ってるんだよ。あんな、どこの誰とも分からない男、危ないじゃない。もし何かあったら、警察とか、そういう大ごとになるかもしれないし」


 警察、という言葉が出た瞬間、網戸の向こうの凪の呼吸が、完全に止まったのが分かった。

 彼女の背中が、限界まで強張っている。過去の罪。偽名。隠れるようにして生きているこの小さな町での、平穏な飼育箱。

 それが、島田という男の、独占欲という名のエゴによって、今にも引き裂かれようとしていた。


「島田さん、あの人は……」


「俺に隠さなくていいよ。俺ならさ、力になれるから。あんな頼りない男じゃなくて、俺なら凪ちゃんをちゃんと守れるし。だからさ、今度、ゆっくり二人で話そうよ。ね?」


 島田は一歩、網戸に身体を近づけた。

 ビニール袋の中のナスが、ガサリと音を立てる。彼の目が、凪の白いリネンシャツの、濡れたあとの残る胸元をねっとりと舐めるように動いた。

 親切の裏にある醜さが、真夏の強い日差しの下で、隠しようもなく露出していた。


 凪は、何も言えずに立ち尽くしていた。

 彼女の手は、ドアのノブをきつく握りしめたまま、震えている。

 島田を拒絶すれば、この男が何を言い出すか分からない。自分の「楽園」が崩壊するという恐怖が、彼女の身体からすべての自由を奪っていた。


 僕は、カーテンの隙間から、その光景をじっと見つめていた。


 僕の瞳の中からは、さっきまでの「従順な捨て犬」の光は完全に消え去っていた。

 感情を一切挟まない、冷徹な計算の波が、脳の奥で急速に立ち上がっていく。


 島田、二十六歳。島田工務店の長男。

 彼の立ち方、右足にわずかにかかる重心。去年の秋に起きた、地元の資材置き場での不審火の際、彼の工務店のトラックが近くの防犯カメラに映っていたという、以前、隣人が噂していた断片的な会話の記憶。

 彼が今着ているポロシャツの胸ポケットにある、小さな企業のロゴ。

 さらに、彼が凪に向けている言葉の矛盾、法的な脅迫罪の成立要件。


 あらゆるデータが、僕の脳内で組み替えられ、一本のロジックへと収束していく。


 破滅させるのは、容易だった。

 声色一つ変えず、笑顔のままで、この男の社会的生命を完全に擦り潰すためのルートが、瞬時に何通りもデザインされていく。

 

 島田は、自分が優位に立ち、凪をコントロールしていると思い込んでいる。

 凪は、自分が僕を守るために、この醜い脅迫に耐えなければならないと絶望している。


 だが、違う。

 この古いアパートも、島田の歪んだ独占欲も、すべては僕が敷いたレールの上を走っているに過ぎない。

 

 僕は口元の端を、凪にも島田にも見えない暗闇の中で、わずかに釣り上げた。


「……今日は、もう帰ってください」


 長い沈黙のあと、凪は蚊の鳴くような声でそう絞り出した。


「あ、そう。じゃあ、このナス、置いとくからね。また明日、来るよ」


 島田は満足そうな笑みを浮かべ、ビニール袋をドアの前に置くと、再び重い足音を立てて階段を下りていった。

 サンダルの音が遠ざかり、再び激しい蝉時雨が周囲を包み込む。


 ギィ、とドアが閉まり、ガチャリと鍵がかけられた。


 玄関のタタキに、凪が崩れ落ちるように座り込む音が聞こえた。

 ハァ、ハァ、と、彼女の浅い呼吸の音が、狭い室内に響く。


 僕は素早く畳の上を移動し、何事もなかったかのように、元の場所でコップを握り直した。

 

 カーテンの隙間から差し込む真夏の光が、僕の白磁の肌の上に、冷たい直線を引いていた。

 喉の奥の鉄の匂いは、もう消えていた。代わりにあるのは、獲物を完全に罠にハメたときのような、静かで、圧倒的な充実感だけだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ