第十三話:隣人の歪み
第十三話:隣人の歪み
夕立が洗い流したはずのアスファルトは、翌朝の午前九時には、すでに白く乾いた熱を吐き出していた。
垂直に降り注ぐ太陽の光が、路面の陽炎を激しく揺らしている。
ベランダに干された真っ白なシーツは、昨日の水分を完全に失い、触ればカサカサと乾いた音を立てた。柑橘系の洗剤の匂いが、熱風に乗って室内に流れ込んでくる。
僕は畳の上に寝転び、首振り音を立てる扇風機の網目を見つめていた。
じっとりとした汗が首筋を伝い、シーツに小さな染みを作っていく。頭の芯が、まだぬるいお湯に浸されているように重い。熱中症の残響は、完全に僕の肉体から去ってはくれなかった。
台所で、凪が冷たい炭酸水の瓶を冷蔵庫から取り出す音がした。
トントン、と小気味よい音が続き、薄く切られたレモンがガラスのコップに落とされる。シュワァ、と泡の弾ける涼しい音が、部屋の熱気を一瞬だけ押し戻した。
「周くん、これ飲める?」
凪がコップを運んできて、僕の枕元に置いた。
彼女は今日も、風通しの良い白いリネンのシャツを着ている。首筋には昨日僕が額を押し当てた名残りのように、微かな赤みが残っているように見えた。
「ありがとうございます」
身体を起こすと、視界の端がぐらりと揺れた。
僕は冷えたガラス瓶の側面を硬い指先でなぞり、結露した水滴を手のひらで拭う。コップに口を付けると、炭酸の鋭い刺激の奥から、わずかに喉の奥にこびりついた錆びた鉄の匂いが蘇った。それを、レモンの酸味と一緒に無理やり飲み込む。
そのとき、アパートの、きしむ外階段を上がってくる足音が聞こえた。
規則的で、妙に重い足音だった。
地元の人間特有の、サンダルがコンクリートを擦る音が、一歩ずつ近づいてくる。
蝉時雨が一段と激しくなる中、足音は僕たちの部屋の前の通路でピタリと止まった。
トントン、と不躾な音が、薄い木製のドアを叩いた。
凪の肩が、目に見えて強張った。
彼女はコップを持ったまま、ドアの方へと視線を固定する。リネンのシャツの裾を掴む彼女の指先が、徐々に白くなっていくのが分かった。
「はい」
凪は声を整え、玄関へと向かった。
ドアが開く、ギィという低い音が響く。網戸一枚を挟んで、男の低い声が室内に滑り込んできた。
「あ、凪ちゃん。暑いねぇ。これ、親父が畑で採ったナス、持ってきたよ」
声の主は、島田さんだ。
この近くで工務店を営んでいる実家の手伝いをしている男らしい。
「いつもすみません、島田さん。ありがとうございます」
凪の声は丁寧だったが、その足は玄関のタタキから一歩も動いていないようだった。相手を室内の気配から遠ざけようとする、独特の間がそこにあった。
「いいってことよ。それよりさ、凪ちゃん」
島田のトーンが、わずかに下がった。
網戸の網目を擦るような、ねっとりとした響きが混じる。
「昨日さ、ものすごい夕立だったろ。俺、心配になってアパートの方見たんだよね。そうしたらさ……ベランダで、誰かと一緒にシーツ取り込んでるのが見えたんだけど」
沈黙が、部屋の中に落ちた。
扇風機がカタカタと首を振る音だけが、その沈黙の長さを正確に刻んでいく。
「……あ、あれは、その」
「やっぱり、誰かいるんだろ。男だよな。背が高い、髪の黒い」
島田の声から、これまでの「親切な隣人」としての軽やかさが消えていた。
代わりにせり上がってきたのは、他者の領域に土足で踏み込もうとする、平気で境界線を越えてくる者の湿った足音だった。
「凪ちゃんさ、身元の分からない男を部屋に囲ってるって、町のもんが知ったらどう思うかな。あんた、ここで一人で静かに暮らしてる、真面目な子だって誰もが思ってるのにさ」
僕は、畳の上に音を立てずに這い進み、ベランダ側のカーテンの隙間に身体を滑り込ませた。
そこから、玄関先の通路がわずかに見渡せる。
島田は、汗で張り付いた青いポロシャツを着て、片手にナスの入ったビニール袋を下げていた。
彼の顔には、親切を装った歪んだ笑みが張り付いている。目は笑っていなかった。網戸の向こうにいる凪の姿を、品定めするような、剥き出しの独占欲で凝視している。
「俺はさ、凪ちゃんのためを思って言ってるんだよ。あんな、どこの誰とも分からない男、危ないじゃない。もし何かあったら、警察とか、そういう大ごとになるかもしれないし」
警察、という言葉が出た瞬間、網戸の向こうの凪の呼吸が、完全に止まったのが分かった。
彼女の背中が、限界まで強張っている。過去の罪。偽名。隠れるようにして生きているこの小さな町での、平穏な飼育箱。
それが、島田という男の、独占欲という名のエゴによって、今にも引き裂かれようとしていた。
「島田さん、あの人は……」
「俺に隠さなくていいよ。俺ならさ、力になれるから。あんな頼りない男じゃなくて、俺なら凪ちゃんをちゃんと守れるし。だからさ、今度、ゆっくり二人で話そうよ。ね?」
島田は一歩、網戸に身体を近づけた。
ビニール袋の中のナスが、ガサリと音を立てる。彼の目が、凪の白いリネンシャツの、濡れたあとの残る胸元をねっとりと舐めるように動いた。
親切の裏にある醜さが、真夏の強い日差しの下で、隠しようもなく露出していた。
凪は、何も言えずに立ち尽くしていた。
彼女の手は、ドアのノブをきつく握りしめたまま、震えている。
島田を拒絶すれば、この男が何を言い出すか分からない。自分の「楽園」が崩壊するという恐怖が、彼女の身体からすべての自由を奪っていた。
僕は、カーテンの隙間から、その光景をじっと見つめていた。
僕の瞳の中からは、さっきまでの「従順な捨て犬」の光は完全に消え去っていた。
感情を一切挟まない、冷徹な計算の波が、脳の奥で急速に立ち上がっていく。
島田、二十六歳。島田工務店の長男。
彼の立ち方、右足にわずかにかかる重心。去年の秋に起きた、地元の資材置き場での不審火の際、彼の工務店のトラックが近くの防犯カメラに映っていたという、以前、隣人が噂していた断片的な会話の記憶。
彼が今着ているポロシャツの胸ポケットにある、小さな企業のロゴ。
さらに、彼が凪に向けている言葉の矛盾、法的な脅迫罪の成立要件。
あらゆるデータが、僕の脳内で組み替えられ、一本のロジックへと収束していく。
破滅させるのは、容易だった。
声色一つ変えず、笑顔のままで、この男の社会的生命を完全に擦り潰すためのルートが、瞬時に何通りもデザインされていく。
島田は、自分が優位に立ち、凪をコントロールしていると思い込んでいる。
凪は、自分が僕を守るために、この醜い脅迫に耐えなければならないと絶望している。
だが、違う。
この古いアパートも、島田の歪んだ独占欲も、すべては僕が敷いたレールの上を走っているに過ぎない。
僕は口元の端を、凪にも島田にも見えない暗闇の中で、わずかに釣り上げた。
「……今日は、もう帰ってください」
長い沈黙のあと、凪は蚊の鳴くような声でそう絞り出した。
「あ、そう。じゃあ、このナス、置いとくからね。また明日、来るよ」
島田は満足そうな笑みを浮かべ、ビニール袋をドアの前に置くと、再び重い足音を立てて階段を下りていった。
サンダルの音が遠ざかり、再び激しい蝉時雨が周囲を包み込む。
ギィ、とドアが閉まり、ガチャリと鍵がかけられた。
玄関のタタキに、凪が崩れ落ちるように座り込む音が聞こえた。
ハァ、ハァ、と、彼女の浅い呼吸の音が、狭い室内に響く。
僕は素早く畳の上を移動し、何事もなかったかのように、元の場所でコップを握り直した。
カーテンの隙間から差し込む真夏の光が、僕の白磁の肌の上に、冷たい直線を引いていた。
喉の奥の鉄の匂いは、もう消えていた。代わりにあるのは、獲物を完全に罠にハメたときのような、静かで、圧倒的な充実感だけだった。




