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残響と内なる獣  作者: あめたす


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第十四話:静かな警告

第十四話:静かな警告


 翌朝の午前十時、世界は再び白い熱の中に閉じ込められていた。


 トタン屋根が太陽の光を垂直に受け止め、ミシ、ミシと小さく軋む音が天井から降ってくる。

 開け放たれた窓の向こうでは、入道雲が青空の境界線を押し上げるようにしてそびえ立ち、乾いたコンクリートの匂いが陽炎とともに室内に満ちていた。


 カタカタカタ、と扇風機が規則的なノイズを立てて、ぬるい空気をかき混ぜている。

 僕は畳の上に寝転び、天井の木目をじっと見つめていた。熱中症の残響が、鉛のような重さとなって両耳の奥に居座り続けている。皮膚に張り付く薄い汗が、シーツのさらさらとした質感を損ねていた。


 台所から、カラン、と氷がガラスにぶつかる涼しい音が聞こえた。


 凪が、冷蔵庫から取り出したばかりのガラスピッチャーから、冷たい麦茶をコップに注いでいる。

 彼女が着ている白いリネンシャツの背中には、細い汗の線が滲んでいた。皿を洗う手元が、さっきから何度も不自然に止まる。昨日、島田さんが置いていったナスの入ったビニール袋は、台所の隅のプラスチック製ゴミ箱の横に、手を触れられない遺物のように置かれたままだった。紫黒色の皮が、袋の中でじっとりと汗をかいている。


「周くん、麦茶、ここに置くね」


 凪はコップをローテーブルに置くと、無理に口元の端を持ち上げて微笑んだ。

 その瞳の奥は、濁った寝不足の膜で覆われている。彼女の視線は、僕の顔を微かにかすめたあと、すぐに玄関の薄い木製ドアの方へと吸い寄せられていった。


「ありがとうございます、凪さん」


 僕は身体を起こし、冷えたガラスの側面を硬い指先でなぞった。

 結露した冷たい水滴を手のひらで集め、それを自分の熱い首筋に押し当てる。コップに唇を付け、香ばしい液体を喉に流し込むと、その奥から、いつものかすかな鉄の匂いが微かに立ち上った。


 凪はローテーブルの前に座ることもせず、立ち尽くしたまま、自分のシャツの袖を何度も小さく巻き上げていた。


 会話のズレを、僕はそのまま放置する。

 彼女の意識が、昨日の島田さんの脅迫の残響に完全に支配されているのを、肌に触れる空気の緊迫感だけで正確に測定していた。


 そのとき、外階段を上がってくる足音が響いた。

 タン、タン、タン、と、コンクリートを乱暴に踏み鳴らす、もつれるような足音だった。

 昨日島田が見せた、他者の領域を値踏みするようなねっとりとした重さはそこにはない。何かに追われているような、呼吸の乱れが階段の途中からすでに伝わってきた。


 凪の身体が、一瞬で石のように硬直した。

 彼女の持っていたリネンシャツの裾が、指の力で白く引き絞られる。


 バン、バン、と、ノックというよりは、手のひらで殴りつけるような音がドアを震わせた。


「はい……」


 凪は掠れた声を喉の奥で整え、引きずられるような足取りで玄関のタタキへと向かった。

 鍵が外され、ギィとドアが開く。網戸一枚を挟んだ向こう側に、島田の姿があった。


 僕は畳の上に座ったまま、上体をわずかに傾け、カーテンの隙間から玄関の様子を視界に収めた。


 島田は、昨日の青いポロシャツを着たままだった。

 着替える余裕もなかったのか、襟元はだらしなく伸び、胸元は尋常ではない量の汗で真っ黒に濡れそぼっている。その顔からは、昨日凪の胸元を品定めしていたときのみだらな笑みは完全に消え去り、土気色の皮膚が激しく引きつっていた。目の下には、どす黒い隈が張り付いている。


 彼の手には、自分のスマートフォンが握りしめられていた。

 その画面を見つめる島田さんの指先は、小刻みに、しかし明確に震え続けている。


「島田さん、あの、昨日の件ですが――」


「悪かった!」


 島田さんは、凪の言葉を切り裂くようにして、裏返った声を上げた。

 あまりの勢いに、網戸の隙間から彼の乾燥した唾液が微かに飛び散る。


「悪かった、全部俺の勘違いだ。あそこに誰がいようが、俺には関係ねえ。役場にも、警察にも、どこにも何も言わねえから。だから、あれは、あのメールだけは、勘違いだってことで通してくれ!」


 島田さんの視線は、凪の顔を捉えていなかった。

 彼の血走った目は、凪の肩越しに、部屋の奥の暗がりに座っている僕の姿を、恐怖に駆られた獣のように探していた。

 一瞬、僕の視線と島田さんの目が、真っ直ぐに交差した。


 僕は、笑顔を浮かべなかった。

 ただ、冷たい麦茶のコップを握ったまま、微動だにせず、彼の無様な崩壊をじっと見つめ返した。


 島田は、弾かれたように視線を床へと落とした。

 彼のスマートフォンを握る手に、さらに強い力がこもる。


 昨夜、彼が実家の工務店のオフィスで一人になった時間帯。彼のスマートフォンの個別メッセージ宛てに、一通のPDFファイルが送信されていた。

 そこには、警察の捜査資料と見紛うほどの精緻な書式で、去年の秋に起きた地元の資材置き場での不審火に関する、彼の工務店のトラックの走行ルート、タイムライン、そして彼自身の口座の不審な金の動きが、完全に網羅されていた。

 ファイルの最後には、ただ一行、明瞭なフォントで『刑法第二百四十九条(恐喝罪)および刑法第百八条(現住建造物等放火罪)の競合に関する告発事実草案』とだけ記されていた。法律のプロが作成したとしか思えない、逃げ道の一切存在しない論理の檻。


「もう二度と、ここには来ねえ。近づかねえから。頼む、忘れてくれ」


 島田はそれだけを早口でまくし立てると、凪の返事を待つこともなく、背を向けて階段を転げるようにして駆け下りていった。

 サンダルがコンクリートを擦る摩擦音が、悲鳴のように遠ざかっていく。


 あとに残されたのは、カンカンと照りつける太陽の光と、遠くで響く激しい蝉時雨の音だけだった。


 凪は、開いたままのドアの前で、両腕をだらりと下げた姿勢のまま立ち尽くしていた。

 彼女の小さな背中が、呼吸を忘れたかのように動かない。昨日まで自分を底なしの絶望へと追い詰めていた男が、一晩で別人のように怯え、 関係を拒絶して逃げ去った理由が、彼女には全く理解できないようだった。


 ギィ、と凪は静かにドアを閉め、鍵をかけた。


 ゆっくりと振り返った彼女の瞳には、深い困惑と、それ以上の乾いた空白が広がっていた。

 彼女はタタキから部屋へと上がり、ふらふらとした足取りで僕のいるローテーブルへと戻ってくる。


「島田さん……どうかしたのかしら。あんなに急に」


 凪はコップを握る僕の横に腰を下ろし、自分の冷え切った両手をすり合わせながら、誰に言うでもなく呟いた。


「さあ……何があったんでしょうね」


 僕は小首をかしげ、いつも通りの、どこか儚げな微笑をその唇に浮かべた。


「でも、もうここには来ないと言ってくれて、良かったですね、凪さん。これでまた、静かになります」


 僕は差し出していた右手を動かし、彼女の強張った冷たい手を、包み込むようにそっと握り返した。

 僕の、熱中症の残る高い体温が、彼女の皮膚へとゆっくりと伝わっていく。


 凪は、堰を切ったように大きな息を吐き出し、僕の手を両手できつく握りしめた。

 彼女の目が、ようやく僕の顔を真っ直ぐに見つめる。その瞳の奥には、理由の分からない奇跡に救われた者特有の、濁った、しかし強烈な安堵の光が揺らめいていた。

 自分がこの無力な捨て犬を守るために張り詰めていた緊張が、男の自滅によって解消されたという事実が、彼女の歪んだ母性を、さらに深く、強固に満たしていく。


「そうね、周くん。もう大丈夫よ。私が、あなたをずっとここに置いてあげるから」


 彼女の声は、優しく、そしてどこまでも独占的だった。


「はい、凪さん」


 僕は彼女の視線を受け止めながら、もう一度、穏やかに頷いた。


 昨夜、凪が島田の恐怖に耐えかねて、睡眠薬をいつもより多めに飲み、深い眠りに落ちていた、午前二時。

 部屋の片隅、充電器に繋がれていた彼女のスマートフォンを、僕は数分だけ起動させていた。


 記憶喪失のはずの男の指先は、一切の迷いなく画面を滑り、法理のネットワークを検索し、島田工務店の登記簿情報と過去の事件記録を、冷徹に結びつけて一通のメッセージを構築していた。ブラウザの送信履歴は、すでに完全に消去されている。


 彼女は、自分の手の中にある鳥籠が、まだ安全に保たれていると信じ込んでいる。

 だが、その鳥籠の周囲に、誰の手も届かない鉄の防壁を築いたのは、目の前で従順に微笑んでいる僕の脳内ロジックだ。


 網戸の向こうで、遠い潮騒の音が、真夏の熱気とともに大きくうねり始めていた。

 扇風機は、変わらない速度で、僕たちの間にぬるい風を送り続けている。


 凪は安心したように僕の肩に頭を預け、僕はその洗いたてのリネンの匂いを吸い込みながら、窓の外の突き抜けるような青空を、静かに見つめていた。

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