第十五話:犬の遠吠え
第十五話:犬の遠吠え
夜になっても、昼間の熱は部屋の壁の中に居座り続けている。
トタン屋根が冷えていくかすかなパキリという音が、時折、天井の暗闇から落ちてくる。
開け放たれた窓の向こうからは、昼間の蝉時雨に代わって、規則的な潮騒の音と、草むらで鳴く虫の声が低く響いていた。
カタカタカタ、と扇風機が首を振るたびに、ぬるい風が床の上のシーツを微かに揺らす。
部屋の隅では、凪が点けた蚊取り線香の緑色の煙が細く真っ直ぐに立ち上り、柑橘系の洗剤の匂いと混ざり合っていた。
ローテーブルの上には、氷が溶けきった薄い麦茶のグラスが二つ、水滴の輪を作って並んでいる。
凪はベッドの上に横たわっていた。薄い木綿のノースリーブのシャツを着て、片腕を額に当てている。彼女の規則的な、しかしどこか浅い呼吸の音が、扇風機のノイズの隙間を埋めていた。
僕は、そのベッドのすぐ横の床に、真っ白なシーツを敷いて丸くなっていた。
「ベッドを使っていいのよ」と凪は何度も言ったが、僕は「ここがいいです」と微笑んで床を選んだ。彼女のすぐ足元、いつでもその視線が届き、いつでもその手が届く場所。
熱中症の残響は、夜になると、皮膚の下で微かな脈動となって現れる。
白磁のような僕の肌は、昼間の日差しを吸い込んだコンクリートのように、まだ高い体温を保っていた。
昼間の島田の件以来、凪の間は、さらに狭くなっていた。
夕食のときも、彼女の視線は何度も僕の細い手首や、鎖骨の凹凸へと向けられていた。言葉には出さない。ただ、器を片付ける手のひらが、僕の指先に触れる時間が、ほんの少しだけ長くなった。彼女の指先は驚くほど冷たく、僕の皮膚の熱を吸い上げようとしていた。
夜風が網戸を揺らし、軒下の風鈴がチリンと寂しげな音を立てる。
時計の針が午前一時を回った頃、遠くの山の方から、その声が聞こえてきた。
「……ウゥ、オォォン……」
かすれた、しかし細く長く尾を引く、野良犬の遠吠えだった。
海沿いの町の裏手にある、古い採石所の険しい獣道。あるいは、僕がすべてを捨てて駆け下りてきたあの夜の山道。そこに取り残された生き物が、暗闇に向かって吐き出すような声。
その音が湿った夜気を通じて室内に滑り込んできた瞬間、僕の目尻から、一筋の水滴が滑り落ちた。
声は出さなかった。ただ、じっと閉じた瞼の隙間から、熱い液体が溢れ、白磁の頬を伝って白いシーツへと吸い込まれていく。
シーツの布地に、小さな、丸い濃い染みができていく。
ベッドの上で、衣類が擦れる微かな音がした。
凪がゆっくりと上体を起こし、ベッドの端から床を見下ろした。彼女の濡れた漆黒の髪が、肩口から静かに垂れ下がっている。
「周くん?」
彼女は低い声で僕の名前を呼んだ。
僕は答えない。ただ、背中を小さく丸め、まるで行き場を失ったノラ犬が、檻の隅で寒さに震えるように、肩を微かに揺らした。
凪が、ベッドから静かに床へと降りてきた。
サラサラとしたシーツの上に、彼女の白い膝が突かれる。湿った夏の夜の空気の中で、彼女から漂うミントの匂いが、急激に僕の鼻腔を満たした。
彼女の冷たい手のひらが、僕の漆黒の髪に触れた。
硬い指先が、僕の頭皮を優しく、しかし確実な力で撫でていく。
「泣いているの」
彼女の指先が、僕の目尻に残った濡れた線をなぞった。
その指先が、僕の高い体温を吸い取っていく。
僕はゆっくりと目を開けた。薄暗い月光が網戸越しに差し込み、凪の白いシャツをぼんやりと浮かび上がらせている。彼女の瞳は、昼間よりもずっと深く、濁った光を湛えていた。その視線は、僕の涙の跡を、まるで自分だけの刻印であるかのように、じっと見つめている。
「……夢を、見ました」
僕は、かすれた声で最初の嘘の続きを紡いだ。
「何も思い出せないのに、暗い山の中で、たくさんの文字や数字が僕の頭を叩き割るような、そんな冷たい夢です。僕は、あそこに戻らなければいけないんでしょうか。ここには、いられないんでしょうか」
僕の言葉は、細く、今にも千切れそうだった。
凪の呼吸が、一瞬で浅くなるのが分かった。彼女の胸元が激しく上下し、リネンのシャツが擦れ合う音が扇風機の音に混ざる。
目の前にいる、息を呑むほどに美しく、しかし自分なしでは一歩も外へ出られない、脆い生き物。
彼女の内に潜む、この美しいペットを支配し、自分の手の中だけで世話し続けたいという欲求が、その手のひらの力強さにそのまま現れていた。
「いいのよ、周くん」
凪は僕の頭を自分の胸元へと引き寄せ、強く抱きしめた。
彼女のシャツ越しに、速い動脈の拍動が僕の額に直接伝わってくる。
「どこへも行かなくていい。あの山にも、誰もいない外の世界にも、あなたは戻らなくていいの」
彼女の手が、僕の濡れた髪を何度も、何度も強くなぞる。
「大丈夫、私がずっとここに置いてあげるから。ここにいれば、誰もあなたを傷つけない。私が、あなたを守ってあげる」
凪の腕の中で、僕はじっと目を閉じていた。
彼女の甘い吐息が、僕の耳元をぬるく濡らしていく。彼女は、自分がこの哀れな捨て犬を、外の脅威から匿い、救い上げているのだと、暗い充足感に浸っている。
だが、その抱擁の裏で、僕の脳の奥にある冷徹なシリンダーは、完全に別の数式を弾き出していた。
島田の件は片付いた。しかし、次のノイズが、またこの家へやって来るだろう。
その確率論が、僕の肥大化した脳内で、網の目のように組み上がっていく。
僕が流した涙の量。
凪の呼吸をここまで浅くさせ、彼女の独占欲を最高潮に導くための、ミリ単位の表情のコントロール。
すべては、彼女をこの美しい飼育箱の中に閉じ込め、僕の完璧なデザインの一部にするための、予定通りのプロセスに過ぎない。
「凪さん……」
僕は彼女の胸元に顔を埋めたまま、声色一つ変えず、ただ従順なペットのトーンで呟いた。
「僕を、離さないでください」
「ええ、離さないわ」
凪の指先が、僕の背中のシャツの皺を、二度と解けないように強く掴んだ。
窓の外では、遠い野良犬の遠吠えが、潮騒の音に飲み込まれるようにして消えていった。
あとに残されたのは、規則的に首を振り続ける扇風機の硬い音と、グラスの中で完全に溶けきった氷の水面が、夜風に揺れて微かにきらめく、静かな光だけだった。




