第十六話:白いスーツの男
第十六話:白いスーツの男
午後一時、世界は最も白い光の底に沈んでいた。
カンカンと照りつける太陽が、アスファルトの油分をじりじりと焼き、乾いたコンクリートの匂いが陽炎となって二階の窓まで這い上がってくる。
開け放たれた網戸の向こうでは、巨大な入道雲が青空の領域を圧迫するようにそびえ立ち、遠い潮騒の音が室内の重い空気を微かに震わせていた。
カタカタカタ、と扇風機が一定の速度で首を振り、ぬるい空気を循環させている。
軒下に吊るされたガラスの風鈴が、時折、思い出したようにチリンと鋭い音を立てた。
僕は畳の上に両肘を突き、冷えた炭酸水のグラスを硬い指先で弄んでいた。
氷の溶けるパキリという小さな音が、鼓膜の奥に居座る熱中症の残響を微かに揺らす。手のひらで集めた結露の水滴を首筋に塗りつけると、乾いた皮膚が一時的にひんやりとした。
凪は、一時間ほど前に「駅前のスーパーまで行ってくるね」と言って出かけていた。
ローテーブルの上には、彼女が飲み残した薄い麦茶のコップと、半分に切られたスイカが、透明なラップをかけられたまま置かれている。スイカの赤い果肉の表面には、微かな塩の粒が白く浮き上がっていた。
そのとき、アパートの下の未舗装の道路に、一台の車が滑り込んでくる音がした。
ザザ、と砂利を踏みしめる硬い音。続いて、高級な機械特有の、低く短いドアの閉鎖音が響いた。
地元の人間が乗る軽トラックの錆びた音ではない。
僕はグラスをローテーブルに置き、音を立てずに立ち上がった。
薄い遮光カーテンの隙間に指をかけ、わずか数ミリだけ布地を引いて、外の景色を視界に収める。
真夏のまぶしい光の中に、その男は立っていた。
仕立ての良い、真っ白なリネンのスーツ。
夏の強烈な日差しを跳ね返すようなその白さは、この埃っぽい地方の港町にはおよそ不釣り合いな清潔感を放っていた。男の髪は短く整えられ、細い金属フレームの眼鏡の奥で、涼しげな一対の目が細められている。
彼は車のボンネットに軽く腰をかけ、片手で革製のセカンドバッグを持ちながら、アパートの階段をじっと見上げていた。その口元には、真夏の青空のように爽やかな、非の打ち所のない笑顔が張り付いている。
男の視線の先――坂道の下から、白いリネンシャツを着た凪が歩いてくるのが見えた。
彼女の両手には、プラスチックの買い物袋が握られている。中に入った透明なパックの隙間から、真っ赤なトマトの丸みが覗いていた。
男がボンネットから静かに立ち上がり、凪の方へと歩を進めた。
彼の革靴が、乾いた砂利を規則正しい歩幅で踏み鳴らす。
「お久しぶりです、粟谷彩芽さん。……いや、今は違う名前でしたか」
二人の距離が五メートルほどに縮まったとき、男が声をかけた。
二階の窓辺にいる僕の耳には、網戸越しにその声の響きだけが、風のノイズに混ざって微かに届いた。低く、理知的で、親切なトーン。
凪の足が、完全に止まった。
彼女の着ている白いリネンシャツの背中が、一瞬で石のように強張る。
男は歩みを止めず、凪の正面まで来ると、丁寧に頭を下げた。眼鏡の奥の目が、三日月のように優しく細められる。
「ずいぶんと探しましたよ。こんな綺麗な海のある町に隠れていたなんて、まるで映画のようですね」
男はそう言いながら、セカンドバッグのファスナーを静かに開けた。
中から取り出されたのは、数枚の書類が挟まれた透明なクリアファイルだった。
男がそれを凪の目の前に差し出す。
凪の両手が、目に見えて小刻みに震え始めた。
カサ、と音を立てて、彼女の右手からプラスチックの買い物袋が地面に落ちた。袋の口が開き、中のトマトが二個、乾いた砂利の上を転がって、男の真っ白な革靴のつま先に当たって止まった。
男は笑顔を絶やさないまま、足元のトマトをローファーの先で軽く転がし、それから凪の顔を正面から見つめた。
ファイルの一枚目には、古い新聞記事の切り抜きと、公的な書式で組まれたタイムラインが印刷されているのが、二階の僕の位置からでも確認できた。白黒の紙面には、かつて彼女が関わったとされる事件の、生々しい数字と人名が並んでいるようだった。
凪の顔から、完全に血の気が引いていくのが分かった。
彼女の唇は紫色に変色し、喉の奥が微かに上下している。何かを言おうとして、しかし空気だけが漏れているような、浅く、不規則な呼吸の乱れが、彼女の胸元を不自然に揺らしていた。
「そんなに怯えないでください。私はただ、正当な手続きの話をしに来ただけです」
男――佐伯は、親切な隣人のような手付きで、凪の肩に手を置こうとした。
凪はその手を拒むように、一歩、操り人形のように不自然な足取りで後ろに下がった。
佐伯は拒絶されても顔色一つ変えず、むしろその爽やかな笑みをさらに深くした。彼の目の奥にあるのは、他者の過去を暴き立て、その平穏を小気味よく破壊していくことへの、純粋で底のない愉悦だった。
「明日、また伺います。それまでに、少し昔の思い出を整理しておいてください」
佐伯は書類をファイルに収めると、もう一度綺麗に一礼した。
彼は足元に転がっていたトマトを踏まないように避けて通り、白い車の運転席へと乗り込んだ。システムが起動し、静かなエンジン音が響く。車はゆっくりと Uターンし、陽炎が揺れる坂道の下へと滑るように去っていった。
あとに残されたのは、真っ白な道路の真ん中で、両腕をだらりと下げたまま立ち尽くす凪の姿だけだった。
彼女の足元には、潰れかけたトマトが二つ、真夏の太陽に照らされて赤く光っている。
蝉時雨が、にわかにその音量を増した。
タン、タン、タン、と、もつれるような、しかし必死な足音が外階段から聞こえてきた。
ドアの鍵が荒々しく開けられ、ギィと音を立てて玄関の扉が押し開けられる。
「周くん――!」
部屋に飛び込んできた凪の髪は、汗と風でひどく乱れていた。
彼女の白いシャツの胸元は、浅い呼吸に合わせて激しく上下している。その瞳は完全に焦点を失い、濁った水槽の底のような、深い拒絶の光が張り付いていた。
僕は畳の上に座ったまま、首を小さくかしげて彼女を見上げた。
瞳から一切の知性を消し去り、主人の異変に怯える、無力で従順な「捨て犬」の目を完璧に作り出す。
「凪さん……? どうしたんですか、そんなに汗をかいて」
僕は立ち上がり、ふらふらとした足取りの彼女の元へ歩み寄った。
僕の硬い指先が、彼女の冷え切った手に触れる。彼女の手は、真夏の昼間だというのに、氷水に浸けていたかのように凍りついていた。
凪は僕の姿を見ると、堰を切ったように僕の細い肩にしがみついてきた。
彼女の細い指先が、僕のシャツの布地を白くなるまで強く引き絞る。
「なんでもないの、なんでもない、周くん」
彼女の声は、細く震え、噛み合わない歯の音が小さく室内に響いた。
「ただ、ちょっと、外が暑すぎただけ。……大丈夫、大丈夫だから」
彼女は自分に言い聞かせるように何度も呟き、僕の首筋にその冷たい額を押し当ててきた。
彼女の浅い呼吸が、僕の鎖骨のあたりをぬるく濡らす。その身体の奥から、理由のない、しかし圧倒的な拒絶の振動が伝わってきた。
僕は彼女の背中に細い腕を回し、その洗いたてのリネンの匂いを深く吸い込んだ。
「はい、凪さん。僕はどこにも行きません」
声色一つ変えず、僕は彼女の過剰な庇護欲を満たすための、最もぬるい言葉を耳元で囁いた。
だが、彼女の視界に入らない僕の瞳からは、従順なペットの光は完全に消失していた。
脳内の冷徹なシリンダーが、駆動音を立てて回転を始める。
白いスーツの男。佐伯。
彼の車のナンバー、靴の磨き方、クリアファイルの厚み、そこで凪に提示した書類のフォント。
すべての情報が、僕の肥大化した知識の引き出しと、一瞬で結びついてしていく。
男の目的、彼が握っているカードの有効期限。彼をこの楽園から完全に排除するために必要な、法理とロジックの檻。
そのすべての設計図が、僕の脳裏で、完璧な美しさを持って組み上がっていく。
僕の胸元で怯え、僕をこの鳥籠に閉じ込め続けようとする主人の、その浅い呼吸の回数すら、僕の計算の変数に過ぎない。
網戸の向こうで、遠い潮騒の音が、真夏の熱気とともに大きくうねり始めていた。
扇風機は、変わらない速度で首を振り、僕たちの間にぬるい風を送り続けている。




