9 優しさの、出どころ
その朝、鏡の中の自分が笑っているのを見て、ぞっとした。
いつから私は、この屋敷でこんなふうに笑うようになったのだろう。茶を淹れれば「明日も頼む」と言われ、菓子を焼けば皿が空になる。庭は青々と茂って、ベンチには木彫りの動物が増えていく。生きて朝日を見ることだけが目標だったはずの女なのに、いつのまにか明日を当たり前のものだと思っている。その上、明日が来ることを幸せに感じている。
慣れは油断だ。油断したからこそ、私は三度も捨てられたのだ。
その日の昼、それは届いた。朝の手紙の束に紛れた、差出人のない一通。封蝋ふうろうもない安い紙に、流れるような達筆で三行だけ書いてあった。
『公爵の優しさを、信じておいでか。
ならば一度、執務机の二段目をご覧なさい。
貴女を案じる者より』
……罠に決まっている。誰かが私と旦那様の仲を裂こうとしているのだ。そう思うのに、三度の破談を生き延びた女の勘がその紙を捨てさせてくれなかった。
旦那様が遠乗りに出た隙に、私は執務室の扉を開けてしまった。盗み見などでは決してない。これは、私にとって生きるために必要な行動だから。
* * *
二段目の抽斗ひきだしには鍵もかかっていなかった。
中にあったのは一冊の綴りだった。これは几帳面なギルベルトの筆跡。表に、私の名前が書いてある。
めくった指は、すぐに止まった。
『エルメンライヒ伯爵令嬢レオノーレ。婚約破棄三件。横領、賭博、二股。いずれも相手方の自滅と推測されるが要観察』
『薬草に関する深い知識。安眠、鎮静の調合に長ける』
『朝は菫色を好む。茶を一息に飲み干す癖あり』
『身の丈、肩幅、腕の長さ……』
私の体の、寸法だった。
ドレスは袖丈も指先も完璧だった。あの旦那様の瞳の色のドレス。どうやって私の体を測ったのかと、あの夜は呑気に感心していたが、そうか、最初から測られていたのか。……獲物の寸法を。
過去も癖も好きな色も、全部調べ上げられていた。優しさだと思っていたものは、はじめからただの観測だったのだ。毎朝の茶を頼んだのは私の手の内を知るため。庭をくれたのは毒婦を一箇所に囲って見張るため。瞳の色を着せたのは、逃げ場のない獲物につけた印。
いつか私が毒婦らしいことを一つでもすれば、あるいは、しなくてもさせられでもすれば、残虐公爵は世界で一番優しい夫だったと言われるのだろう。あれほど尽くしたのに毒婦は夫を裏切った、と。そうなれば私の死は、誰からも惜しまれない正しいものになる。
私を生かす理由がどこにもない、よくできた筋書きだった。
綴りを元の場所に戻す手が、ひどく冷たくなっているのを感じた。
考えてみれば、驚くことは何一つない。婚約は三度した。三度とも、相手の男は私を見ていなかった。横領の彼は帳簿を、賭博の彼は手札を、二股の彼は別の女を見ていた。私はいつも家と家のあいだに置かれた担保だ。
だから本当は、最初から知らなかったのだ。優しさというものがどんな顔をしているのか。知りもしないものを、どうして信じられるだろう。この屋敷の温かさを疑えなかったのは、ただ私が、温かさを知らなすぎただけのこと。
* * *
翌朝、私は自分の手で茶を運ばなかった。
淹れはした。淹れて、侍女に託した。
完璧な公爵夫人の顔で背筋を伸ばす。微笑みは絶やさないし、礼も尽くす。ただ、もう一歩も踏み込ませない。観測されるものは何ひとつ渡さない。元の私に戻るだけのことだ。私はずっとこうやって生き延びてきた。
昼間、庭の矢車菊が届いた。旦那様からだった。震える指で短い礼だけを返す。お心遣い、痛み入ります、と。書いた字が、自分でも他人のもののように見えた。
その夜の食卓へ、私は旦那様の瞳の色のドレスを簞笥たんすの奥にしまったまま下りていった。旦那様は軍服姿で、私を見ようともしない。ほら、やっぱり。優しさが剥がれれば、これが本当の顔なのだ。
それならどうして、この胸はこんなに痛むのだろう。毒婦が毒にあたるなんて、おかしな話なのに。
* * *
同じ夜、宰相府。
クナイプは二通の写しを燭台にかざし、満足げに目を細めた。同じ筆跡、同じ細工。片方は夫へ、片方は妻へ。中身はほとんど真実で、嘘は一行も書いていない。ただ、向きを少し変えてやっただけだ。
「残虐公爵」も「毒婦」も、そうやって育ててきた。事実を並べ、向きを変える。それだけで人は勝手に最悪を信じる。
「花は、咲かせてから散らすに限る」
青々と茂っていた庭に降りた霜は、まだ誰にも溶かせずにいた。




